プロローグ

文字数 1,877文字

 ――ふざけないで。
 それが私の第一の思いであった。

『――ネロ。貴女はもう、用済みなの』

 私のことを散々利用した、母だった女――アグリッピナは、そんな言葉を吐く。不敵な笑みを浮かべて。それこそ、今までの苦労が実ったと、そう言わんばかりに。
 臣下の兵士たちも、すでに毒婦の手に落ちているのか。いいや、あるいは現状を見てそちらが優位だと察したのかもしれない。彼らは、玉座から転がり落ちた私に向かって剣を突き付けていた。

『さぁ、今宵の宴のクライマックスと致しましょう!』

 アグリッピナは、大仰に両腕を広げたかと思えばそうのたまう。
 次の瞬間に、私目がけて一斉に兵士たちが動き出した。手柄を、我先に、と。そう言わんばかりの勢いで踊りかかってくる。多勢に無勢、敵うわけのない戦い。
 そうとなれば、私に残された道は、逃亡の二文字しかなかった。

『あはははは! 惨めな惨めなネロ! 我が野望のために生まれた愚かな娘。もしも生まれかわることが出来たのなら、また見えましょう! ――もはや、ありえませんがね!!』
『――――くっ!』

 裏切り者の高笑いを聞きながら。
 私は謁見の間から、一目散に外を目指した。
 それが、私の記憶にある最後の王宮での景色。もはやセピア色に霞んでしまったかのような、遠い遠い、私の居場所だった世界であった――。

◆◇◆

 ――それから、どれだけの時間が流れただろう。
 私は仄暗い洞窟の中にいた。追っ手の兵士――名をカイウスという――をどうにかやり過ごして、ここまでやってきたのである。王宮はもはや遥か彼方。帰ることなど、許されなかった。

「もう、終わりなのね……」

 そこまで考えて、疲弊し切った思考は諦めへと達する。
 そして護身用として持っていたナイフに、自然と視線は吸い寄せられた。――あぁ、コレを喉に突き立てれば、その瞬間にこの屈辱は終わる。そう、思ってしまった。

「でも、私は許さない」

 けれども、胸の奥に燃えるのは復讐――憎悪の炎。
 私を陥れた奴らに対する怒りであった。願わくは、その者たちに呪いあれ、と。
 そんな思いを抱きしめながら、震える手で、銀の輝きを喉に這わせた。つっと、皮膚に食い込む刃の感触。痛みに近いそれに目を閉じて、私は最後の力を込めるのであった……。

「……えっ?」

 だがしかし。
 直後にあったのは痛みではなく、淡い光であった。
 白きそれはこの身を包み込み、溶かしていくようである。

「これ、は……?」

 何が起きているのか、まるで分からなかった。
 そして、その正体を確かめる前に――。

「――――――――っ」

 私の意識は、痛みと共に闇の中に落ちていくのであった……。



 ……揺蕩うような感覚。
 全身を包み込むのは水、であろうか。
 いいや、それはもっと柔らかで、温かなそれであった。

「ここ、は……?」

 私は目を覚ます。
 すると、そこに広がっていたのは信じられない光景であった。

「え。なんなの、ここ……!」

 あったのは真っ暗な床に、しかし一つの光に照らされた玉座。
 存在しているのは私とそれだけ。夢でも、見ているのであろうか。
 死後の世界があるとするならば――あるいは、私の王位への執着が、この夢を見せているのであろうか。もし、そうだとするなら滑稽だった。思わず、笑みがこぼれる。

「おや。驚きの後は、微笑みですか……」
「!? ――誰っ!」

 その時だった。
 私に対して声をかける人物があったのは。

「初めまして。ネロ・フリーアンス――悲劇の王女よ」

 声のした方へと振り返る。
 すると、そこに立っていたのは一人の女性だった。

「どうして、私の名前……」

 私は自身の名を述べた彼女に、注意を払う。
 見れば見るほど美しい人であった。水色の腰まで伸びた髪に、金の瞳。
 女性らしさはないが無駄のないその身体を、白の衣服によって包み込んでいた。羽衣といえば良いのであろうか。緩やかなそれをなびかせ、彼女は微笑んでいた。

 そして、静かに名乗る。
 でもそれは、私にとって信じられない名であり――。

「我の名は、女神アクアディア――貴女のことを救う女神です」
「女神、アクアディア……!?」

 ――同時にこの命を、この終わりを激震させるモノであった。




 女神アクアディア――唯一神である女性との出会い。
 この瞬間を機に、私ことネロの運命は再び動き始めるのであった……。


 
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