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文字数 13,467文字

 【津川将司の見た夢(あるいは『死の都』第二幕・第三幕)】

 〇 暗い道を歩いていると友人に出会い、彼が持っていた鍵を奪い取った。その鍵を使って野々宮歩夢の部屋に入った。そこには旅芸人の一座がいて歌の稽古をしていた。すると、旗本英子が現れ、歩夢と並んで座った。二人は双子のようにそっくりだった。歩夢はスカートを捲り、太ももを開いて誘惑してきた。誘惑に乗って歩夢を抱いた。翌朝、歩夢が英子の写真を破ろうとしたので、押し倒して上に跨り首を絞めた。
 これで、歩夢は英子と同じ格好になった・・・

 *****
 
 ああ、夢か。
 津川は起き上がって室内を見回した。女性を絞殺した。野々宮歩夢の首を絞めて殺した。しかし、どこにも彼女の死体はなかった。あるはずはない。夢だったのだ。
 オペラ『死の都』第二幕・第三幕のストーリーとそっくりな夢を見た。
『死の都』第二幕では、旅芸人の一座が、マイヤベーヤの『悪魔のロベール』の稽古をするのをパウルが止めようとする。そこへ教会の合唱が聞こえてくる。
 第三幕の舞台は再びパウルの部屋になる。パウルとマリエッタは一夜を共にする。ところが、マリエッタが、マリーの髪の毛を弄ぶので、それに腹を立てたパウルが絞め殺してしまう。パウルは息をしなくなったマリエッタを見下ろし、「これで、彼女と同じ格好になった」と呟く。彼女とはマリーのことだ。
 そこで舞台は暗転し、明るくなるとマリエッタの姿は消えている。家政婦のブリジエッタが現れ、先ほどの女性が傘を忘れたので取りに来たと告げる。マリエッタは部屋の片隅にあった赤い傘を持って帰って行った。彼女と一夜を共にしたのも、首を絞めたのも、パウルの見た夢だったのである。そして、現実に目覚めたパウルはブリュージュの町から出て行こうと決意するのだった。
 第一幕は現実の世界だが、二幕、三幕目はパウルの夢の世界だった。
 
 昨夜、歩夢に電話しようとスマートフォンを手に取った。彼女の方から誘ってくれたのだから、あまり待たせては失礼になる。とはいえ、当日の夜では急ぎ過ぎていると思い、連絡するのは控えた。
 それから、旗本英子のことをネットで調べてみた。アイドルグループを卒業して以降、どこで何をしているのか気になったのだ。だが、卒業後の消息に繋がるような情報は見つからなかった。
 アイドル時代の画像、映像はたくさん残っていた。旗本英子はグループ外での個人的な活動も多かった。各地の美術館や文学館を訪ねる番組に出演していて、とくに感心したのは、横山大観、菱田春草など明治期に活躍した画家を紹介する番組だった。台本に沿って喋っているとしても、難しい内容をきちんと把握している様子が見て取れた。知性的な印象を強く受けた。また、小津安二郎の映画の舞台になった北かまくらの料亭を訪ねる番組では、小津の映画に出てくるような、昭和二十年代の女性の雰囲気を見事に醸し出していた。美人画の掛け軸の掛かったお座敷で料理を食べるシーンがあり、箸の使い方、立ち居振る舞いなども優雅で、上品さもあり、見惚れるほどだった。
 津川は歩夢の彼、末田君が旗本英子に夢中だというのも納得がいった。
 英子は美しい、それも知性的で奥ゆかしさを感じさせるものがある。映像には、「今でも忘れられない」とか「あなたのファンで良かった」などのコメントが寄せられている。「卒業後にファンになりました。現役時代が見たかった」という書き込みもあった。これなどは若いファンからのメッセージだろう。旗本英子には今でも多くのファンがいるのだ。
 卒業してから六年、三十歳を迎え、さらに大人の女性になっていることだろう。だが、ファンが覚えているのはアイドル時代の姿だけである。ファンの心理として、現在でも当時と変わらずにいて欲しいと思っているに違いない。
 芸能界を去ったいま、英子はどこで何をしているのだろうか。
 旗本英子と野々宮歩夢の二人の美人に考えを巡らせていたので、それが夢にまで出てきてしまったのだ。そういえば、昨日は歩夢の相談に付き合ったので、『死の都』の話は途中で切り上げた。夢に出てきたオペラの後半部分、赤い傘が現実への懸け橋になることについても話せなかった。それもあって、あんな夢を見たのだろう。
 夢の中で、野々宮歩夢はマリエッタ、旗本英子はマリー役を演じていた。歩夢と結ばれたまではよかったのだが、翌朝、歩夢の首を絞めてしまった。夢の中ではあっても申し訳ないことをした。

 出勤してからも歩夢のことが頭から離れず、津川はつまらないミスをしそうになった。
 野々宮歩夢には、今夜、いや、仕事終わりには必ず電話すると決めた。ゴールデンウイークも近いことだし、事によったら、今年の連休は楽しくなるぞとひとりごちた。
 午後三時を回ったとき、副社長に呼ばれ、経理部長とともに応接室に行った。津川は何となく悪い予感がした。副社長じきじきの呼び出しとなると、今回も契約を優位に進めるための算段だ。きっと、取引先の社長の趣味が音楽とか絵画鑑賞なのだろう。前回は、クラシック音楽ファンというだけで接待の場に同席させられたのだった。
 予想に違わず、副社長が持ち出したのは契約交渉に関する案件だった。
 浮世絵の知識を問われたので、「写楽、広重、北斎」と知っている限りの浮世絵師を挙げ、印象に残っているのは、富嶽三十六景の版画シリーズの神奈川沖浪裏ですと答えた。すると即座に「合格」と宣言された。今度の相手の趣味は浮世絵だというのである。浮世絵に関して津川が知っているのはその程度の知識、いわば中学校の教科書レベルしかないというのに担当係に決められてしまったのだ。
 副社長からは、契約まで一か月半ほどしか時間がない。その間に浮世絵について猛勉強してくれと言われた。
 経理部の席に戻った。
 浮世絵などという、やっかいな仕事を抱え込んでしまった。これで歩夢とデートするのも、ゴールデンウイークの計画も霧の彼方に飛んでいったのも同じことだ。
 津川は相手先の社長の経歴をまとめた書類に目を通した。社長の名前は龍田川大造。相撲取りにでもいそうな名前である。次に出身大学、家族構成、食べ物の嗜好などが載っていたが、どれも津川の興味を引くものではなかった。
 趣味の欄を見ると、そこには「肉筆浮世絵」と書かれていた。
 肉筆浮世絵・・・
 浮世絵と言えば版画だと思い込んでいた。だが、相手先の社長の趣味は浮世絵版画ではなく肉筆浮世絵だったのだ。津川は肉筆浮世絵なるものが存在することを初めて知った。
 さっそく肉筆浮世絵とはどのようなものか検索した。会社のパソコンは使えないので自分のスマートフォンで調べるしかない。
 浮世絵といえば先ず版画を思い浮かべる。版画は錦絵ともいう。画家、江戸時代は絵師、絵描きというべきだろうが、絵師は下絵を描き、次に彫り師が木の板に彫る、それを摺り師が印刷するのである。従って、厳密に言えば、版画、錦絵は絵師の手によるオリジナル作品とは言えない。これに対して、肉筆浮世絵は絵師、絵描きが自ら筆を執って絹、または紙に直接描くのである。むしろ、肉筆浮世絵の方が絵師、絵描きとして筆を存分に振るうことができたと言える。
 肉筆浮世絵の題材は、遊女、花魁などの美人画が大半である。いずれも縦長の画面で、たいていは軸装され、掛け軸になっている。主な絵師、絵描きには、葛飾北斎、菱川師宣、宮川長春、勝川春草、鳥文斎栄之(ちょうぶんさいえいし)、北尾重政などがいる。
 解説に添付された図版によれば、描かれた女性、遊女や花魁は縁台で夕涼みをしたり、三味線を弾いたり、あるいは、花見に興じている。顔は面長、目は細く、紅を指していて、身にまとう着物の柄は大胆である。
 さて、これは困った。津川は腕組みをして天井を見上げた。
 まったく何の知識もないのに、契約交渉において肉筆浮世絵に通じているところを見せなければならなくなった。それも与えられた時間はたった一か月半だ。おそらく相手先の社長は何年も、何十年も肉筆浮世絵に親しんでいるのだろう。だからこそ、わざわざ、肉筆と明記したのだ。
 先ずは画集を手に入れて、絵師の名前、著名な作品、年代ごとの特徴などを調べるのがよさそうだ。というか、それ以外の方法は浮かばなかった。かろうじて、菱川師宣は聞き覚えがあるが、勝川春草、鳥文斎栄之、北尾重政など初めて目にする絵描きだ。
 そこでふと考えた。画集や図版よりも肉筆浮世絵の実物を見たい。オペラだって実際に歌劇場で観るべきだ。
 再び検索すると、開催中の肉筆浮世絵の展覧会が見つかった。場所は大崎駅に近いビルにあるギャラリーである。金曜日の今夜は九時まで開いている。大崎まではJRで十五分、五時に出れば悠々間に合う。
 津川は肉筆浮世絵の展覧会を観るため定時で退社することにした。

 目指すギャラリーは大崎駅のすぐ近くの高層ビルにあった。エントランスには『肉筆浮世絵展』の大きなポスターが張り出されている。エレベーターホールは左右に分かれていて、左側は各階停止、右側の二台は二十五階まで直通だった。右側の直通エレベーターに、ギャラリーはこちらを、との案内が出ていた。
 さて、どんな美人画に会えるのだろうかとエレベーターに乗り込んだ。
 エレベーターを降りたところは照明を落として薄暗くなっていた。受付で入場券を買い求める。料金は1200円、もちろん経費扱いだ。ブースの中の女性がその場で半券を切り取ってくれた。
 受付嬢が美人だった。
 津川は受付の女性をどこかで見たことがあるなと思った。何となく野々宮歩夢に似ているような気がした。そういえば、彼女は会社の受付カウンターに座っていると言っていた。しかし、歩夢のはずがない。ここの受付嬢は展覧会の会期中だけのアルバイトだろう。そもそも、歩夢の会社がどこにあるか聞いていなかった。
 見開きのカタログと出品目録を手に展示室に入る。
 『肉筆浮世絵展~慶三財団所蔵による~』
 入り口のパネルを読んだ。今回の展示は『慶三財団』の所蔵作品が中心だということだ。説明文には肉筆浮世絵の概略が書かれており、後半は『慶三財団』の事業内容が紹介されていた。財団の代表者は柿崎重政、本部は神戸にあるようだ。

 肉筆浮世絵を観ていく。
『蚊帳美人図・川又常行』。
 蚊帳から身を乗り出した美人が満月を見ている姿だ。
『桜下遊女道中図・鳥居清元(二代目)』。
 遊女がお供を三人連れて桜見物をしている図である。
 次のコーナーには江戸時代の女性の髪形について書かれていた。
 平安・鎌倉時代には女性は垂髪や下げ髪が主流だったが、安土桃山時代頃から髪を結うようになった。女歌舞伎、遊女が髪を結ったのを真似したのである。元禄期になると後ろに結んだタボを伸ばし、その後、ビンを大きく広げるようになった。兵庫ビン、島田ビンなどが知られている。また、櫛、かんざしなどを挿すことも広まった。
 このような専門的知識を得ることができれば、肉筆浮世絵展に来た甲斐があるというものだ。
 やはり、版画に比べて肉筆浮世絵は馴染みがないのだろう、館内は来館者が少なくてひっそりとしている。津川の他には年配の夫婦がソファに座って休憩しているだけだった。彼らの前には懐月堂安度、宮川長春の美人画が掛かっていた。
 また、展示を観る。
『二美人図・歌川豊国』。
 三味線を弾く芸妓と側に立つ芸妓、二人の美人図だ。
 『妓楼花魁図・葛飾(東南西)北雲』。
 体を逆「くの字」に曲げて後ろを振り向く花魁の姿。解説には、花魁の着物は鶴の打掛とある。
 『桜下花魁図・鳥文斎栄之』。
 雲竜文様の打掛を着た花魁が、桜の下で体を反らせて振り向いている。髪にはかんざしを挿し、顔も瓜実顔で美しい。
 『蜀山人肖像画・鳥文斎栄之』。
 これは今までとは趣向が変わり、老人の男性の座像が描かれていた。説明文には、鳥文斎栄之は、狂歌の作者、蜀山人こと大田南畝と懇意にしており、一種の文化人サークルを築いたとある。栄之は旗本の家柄で、絵は狩野派に学んだそうだ。
 さらに展示は続き、およそ八十点ほどの肉筆浮世絵を見て回った。
 津川はソファに腰を下ろした。
 肉筆浮世絵の展覧会は初めてだったが、それでも、観ているうちに段々と興味が湧いてきた。
 会社の上司には浮世絵の通になれと指示されているが、そのためには、女性の着物柄、髪型、さらには画の情景など、勉強しなければならないことがたくさんある。一度や二度観ただけではとうてい理解できない。この展覧会の会期は四月末、連休が始まる前日までとなっている。会期中に何回かは足を運ぶ必要があるだろう。
 版画、錦絵と肉筆浮世絵の違いについて考えてみた。特に販売ルートはどうなっていたのだろうか。版画は何枚も摺って販売することができる。しかし、肉筆浮世絵は一点物なので、絵師にとってみれば、誰が購入してくれるかが重要な問題になってくる。

 さて、そろそろ帰ろうかとソファから立ち上がった。相変わらず館内は静かだ。どうやら自分の後に入って来た人はいないようだ。
 津川は出口に向かった。出口の手前には展覧会の図録や、浮世絵関連の書籍が置いてあった。他には浮世絵を印刷した絵葉書、手拭い、団扇なども売っている。津川は展覧会の図録を買うことにした。一冊2800円、これも経費で落とせる。そこは入り口の受付カウンターと背中合わせになっているようで、さきほどの女性が図録を紙袋に入れてくれた。
 野々宮歩夢に似ている女性だ。年齢も同じぐらいだろう。
 幸い、周囲に他のお客はいない。津川は「展示内容について、お尋ねしたいのですが」と訊いてみた。すると彼女は「お待ちください」と断って受付ブースに下がった。受付嬢では専門的な質問には答えられないので、担当の学芸員を連れてくるのだろう。
 間もなく、彼女は胸の前にバインダーを抱えて戻ってきた。
「どのようなご質問でしょうか」
 受付嬢が一人で対応するらしい。となると、彼女が抱えているバインダーは想定問答集の類であろう。
 間近で見るとさらに美しかった。しかも、オーラがあった。
 彼女のオーラに圧されないよう声のトーンを落とす。
「肉筆浮世絵を購入したのはどのような人たちだったのかと疑問に思いまして。つまりですね、版画と違って一点物だし、値段も張ったのではないでしょうか」
「なるほど・・・そうですね。肉筆浮世絵を購入したのは主に裕福な商人たちといわれています。それに、高級料理店が座敷に飾ったり、髪結床が、今で言えば美容院ですけど、髪型の見本として飾ったりしたようです。多くの場合は、あらかじめ買い手が決まっていて、絵師は注文に応じて描いたと考えられます」
 彼女はスラスラと淀みなく質問に答えた。受付嬢だと思っていたが、学芸員並みの知識を持っていた。
「他には、幕府の重職、たとえば奉行職とか、あるいは、地方の大名の江戸屋敷なども顧客だったそうです」
「そう言えば、絵師、絵描きの中には旗本もいたようだ」
「ええ」
 彼女に何とも言えない困ったような表情が浮かんだ。津川は何か間違ったことを言ってしまったのかと思った。
 しかし、彼女はすぐに元の顔つきに戻って続けた。
「おっしゃる通りです。展示にあった鳥文斎栄之という絵師は旗本で、勘定奉行を勤めた細田家の出身でした」
「勘定奉行ですか。鳥文斎栄之は太田蜀山人と交流があり、絵を狩野派に学んだのち、肉筆浮世絵の筆を執ったとありましたね」
「よくご存じで・・・」
 彼女が嬉しそうにほほ笑んだ。津川は展示の説明文にあったことをそのまま言ったまでだ。ちゃんと読んだことを褒められたのだろう。さきほど彼女が見せた困惑した表情は、単なる思い過ごしだったようだ。
 そこへ展示室から受付嬢と同じ制服の女性がやってきた。スタッフの一人だ。津川は帰ろうとして受付嬢に礼を言った。受付嬢が軽く一礼して下がった。そのとき、バインダーの隙間から一瞬だけ胸のネームプレートが見えた。
「・・・は、いかがいたしましょうか」
「そうね、もうすぐ兄が東京へ着くから・・・」
 エレベーターホールにいる津川にも二人の会話が聞こえてきた。後から来たスタッフの方が年上に見えたが、若い受付嬢に対して敬語を使っている。受付嬢に指示を仰いでいるかのようだ。どうやら受付嬢が上司、スタッフは部下らしい。
 そう考えるとますます彼女のことが気になった。さきほど見たネームプレートの文字を思い出す。
 アルファベットで【EKAKI】とあり、あとに数文字続いていた。Zのように見えた。受付嬢は『えかき』という苗字なのだろうか。浮世絵だから、絵描きを想像したが、それはいくら何でも出来過ぎだ。『えかき』を漢字にするなら『恵垣』が妥当である。
 恵垣さんか・・・
 時計を見ると、六時半を回ったところだった。一日目の収穫としては十分だった。肉筆浮世絵の知識が多少なりとも身に付いたので、週明けには上司に良い報告ができよう。
 思わぬ成果に余裕が出てきた。津川は野々宮歩夢に連絡を取ることにした。都合が良ければ今夜にでも、『三船屋』で会いたい。そう考えながら下りのエレベーターに乗った。

 一階に着いてエレベーターを降りたときだった。
 向かい側の各階停止のエレベーターのドアが開いて数人出てきた。その中に野々宮歩夢の姿があった。
 顔を見合わせて「どうも」と言う。
「津川さん、ここに御用? それとも私に会いにきてくれたとか」
「会いにきた・・・というと、歩夢さんは、このビルの会社にお勤めなんですか」
「そうよ、二十三階の会社。言わなかったかしら」
 聞いてはいなかった。偶然にも、歩夢の職場はこのビルにあったのだ。
 津川は浮世展のカタログを見せた。 
「僕はギャラリーに浮世絵展を見に来たんです」
「オペラの次は浮世絵ですか。趣味が広いのね」
「会社の命令なんです」
 契約を有利に進めるために肉筆浮世絵を勉強しているのだと付け加えた。
 そこで受付嬢のことを思い出した。
「そういえば、歩夢さんは会社で受付をしているということでしたね。それで誰かと人違いされているとか」
「そうよ、今朝もエレベーターに乗るとき、知らない人に挨拶されたわ。そっちは各階止まりだよとか言われた」
「実は、浮世展の受付の女性が歩夢さんに似ていたんです。マスクをしていたけど、雰囲気はそっくりだったなあ」
「似ている? その展覧会はいつから始まったの」
「今月の五日からです」
 カタログを見て答えた。
「じゃあ、それよ。だって、以前はそんなことなかったのに、今月になって何度も人違いされるようになったんだから・・・その人、何ていう名前でした? 」
「ええと、確か、恵垣さんだったかな。チラッと見ただけですから自信ないけど、ネームプレートにはEKAKIとありました。いや、その続きでZだかKとか書いてあったような気がします」
「ちょっと待って・・・EKAKIにZか・・・」
 歩夢は目を動かしながら何かを考えていた。
「それ、ドンピシャかも」
「ドンピシャですか」
「旗本英子のこと調べたんですよ、そしたら、本名が分かったの。彼女、柿崎英子、カキザキエイコ、というのが本名だったの」
 本名を突き止めるとは、やはり歩夢は旗本英子に執念を燃やしているようだ。
「柿崎をローマ字にしたら、KAKIZAKIでしょう。それに、名前の英子のEを付けたら、E・KAKIZAKIになるわ」
 歩夢がスマートフォンを取り出し、メールの画面を表示させて【E・KAKIZAKI】と書いた。
「津川さんが見たのはEKAKIではなくてE・KAKIZAKIだったのよ」
「E・KAKIZAKI・・・なるほど、Eは英子のEだったのか。あり得なくもないな」
「絶対それだってば」
 歩夢が津川の手を掴んだ。
「展覧会は何時までやってるの、時間よ、まだ開いてる? 」
「金曜日は午後九時までです」
「バッチリじゃないの。行きましょう、行って確かめるわ」
「受付嬢が元アイドルの旗本英子だったというんですか」
 歩夢はそれには答えず、直通エレベーターのボタンを押した。箱はまだ上階にある。
 浮世絵展の受付嬢が旗本英子だと決めつけるのには無理があるのではないか。けれども、歩夢にしてみれば、自分が人違いされる原因を確かめたいのであろう。
 もし、恵垣あるいは柿崎という受付嬢が旗本英子だったらどうするのか。歩夢は合コンで知り合った彼、末田君には推しのアイドルの身代わりにされたことを怒っていた。旗本英子だと判明したなら、何を言い出すかわからない。
 エレベーターが降りてくるまでに思いとどまらせる方法はないものか。津川の心配をよそに野々宮歩夢はマスクを外し化粧を直している。
「旗本英子という芸名なんだけど」
「芸名がどうかしたの」
「肉筆浮世絵の作者に鳥文斎栄之という絵師がいた。栄之は旗本の家柄だった。旗本英子という芸名は、江戸幕府の旗本からとったんじゃないか」
「それが何か」
 エレベーターが来たので乗り込む。
「たぶん、彼女の周囲に肉筆浮世絵に詳しい人がいた。だから芸名に旗本を使ったと思いませんか」
 そこで自分の言葉に引っ掛かるものがあった。けれども、うまくまとまらない。
「肉筆浮世絵を主有している財団の関係者だったとしたら、どうだろう。彼女は浮世絵の知識が豊富だった。財団の一族の可能性がありますね」
「財団の・・・一族」
「慶三財団と言うんですよ、この展覧会の主催者は。アルファベットのKが三個で「ケイサン」。KAKIZAKIにはKの字が三つ含まれている」
 歩夢が「あっ」と小さな声を上げた。
 それに、わざわざ、E・KAKIZAKIと書くのは、スタッフの中に複数の柿崎姓がいるからであろう。確か、説明のパネルには、財団の代表は柿崎重政と記されていた。柿崎家の一員だから、英子のEを付けて区別したのだ。

 エレベーターが着いた。ドアが開く。
 財団の一族という言葉が効いたのか、歩夢は先ほどまでの勢いはどこへやら、津川の背中に回って隠れた。津川は仕方なく受付を覗き込んだ。
「何か・・・」
 帰ったばかりの客がすぐに戻って来たのだから受付嬢が怪訝そうな顔をした。
「お忘れ物ですか」
「いえ、そうではなくて」
 受付嬢が歩夢に気が付いた。
「「あ」」
 二人が同時に声を出した。
 受付嬢がにっこり笑う。マスクをしていても、それはアイドルの笑顔だった。
「お忙しいところ、すみません。少しお時間をいただけないでしょうか」
「はい」
「こちら、野々宮さんというのですが、どうやら自分と人違いされるほど似た方がいらっしゃるそうで。それで、もしやと思い、お連れしました」
 津川は自分が歩夢を連れてきたことにした。その方が事がスムーズに進む。
 受付嬢が外へ出てきた。こちらへと、津川と歩夢をスタッフルームに案内し、部屋にいたスタッフに受付を代わってくれるように頼んだ。
「狭くてごめんなさい。他に部屋がないもので」
「こっちこそ、突然押しかけて来ちゃって、ごめんなさい」
 そこは六畳ほどの広さでテーブルとソファがあり、部屋の隅には段ボール箱が幾つも積み重ねられていた。二人にソファを勧めたが、津川は遠慮して壁際に下がった。歩夢と受付嬢が並んで腰かける。
「野々宮さんでしたね」
「ええ、野々宮歩夢です」
「初めまして・・・柿崎英子です」
 柿崎英子という名前だった。
 短い沈黙。先に英子が口を開いた。
「こちらにお勤めなんですか」
「二十三階のオフィスです」
 歩夢は五年くらいになると言った。
「それでは、私は展覧会の始まった今月の五日からですので、歩夢さんの方が先輩でいらっしゃるのね。よろしくお願いいたします」
「恥ずかしいわ、先輩だなんて」
 先輩と持ち上げられて歩夢が照れている。
 柿崎英子が「マスク、外しませんか」と持ち掛けた。二人がマスクを外し、顔を見合わせた。
「ホント、これなら間違えられるはずだわ」と歩夢。
 津川も二人を見比べた。確かにそっくりだ。切れ長の目、口元、スッとした鼻、化粧も似ている。
「私は展覧会の間だけ勤務しているんです。勝手がわからず、ビルの中をウロチョロしてしまい、それで人違いされてしまったみたいですね。ご迷惑お掛けしているようで、申し訳ありません」
「そんなことありませんよ、似ているって言われて光栄だわ」
「光栄? 」
「ええ」
 野々宮歩夢が座り直して姿勢を正した。
「間違っていたら、ごめんなさい。もしかして、ミンネ・クイーンズにいらした・・・旗本英子さんですか」
 今度は間を置かず英子が答える。
「おっしゃる通りです。元ミンネ・クイーンズの旗本英子です。現在は本名の柿崎英子ですが」
 やはり彼女は元アイドルの旗本英子だった。
 卒業したときが二十五歳だから、現在は三十一歳だろう。目の前の英子はその年齢に相応しい美しさを見せている。これが成熟したということなのか。離れて立っている津川も英子の身体から漂うオーラを感じた。それに、隣に座った野々宮歩夢も元アイドルに負けず劣らずキラキラしている。
「アイドルの方のように見られているんだから、とても光栄です」
 受付嬢が元アイドルの旗本英子だと知って怒り出すかと思いきや、歩夢はすっかり上機嫌だ。それはそうだろう。美人のアイドルと同一視されているのだから。
 津川は、歩夢はアイドル時代の英子に似ていると思った。歩夢は、ミンネ・クイーンズの旗本英子の化粧を真似したのかもしれない。『似せている』と言うべきだろう。ネットの画像は新しいものでも英子が二十五歳のときだ。そうすると、歩夢はかなり若く見せようとしていることになる。さきほど、急いで化粧を直したのも、メイクを確認したかったのだ。アイドルに似ていることを喜んでいるとしか思えない。津川はそんな歩夢が愛おしくなってきた。

「グループを卒業されて、芸能界からも引退されましたよね」
「家族が反対だったんですよ、芸能界に入るのを。特に父親に猛反対されちゃった。だから二十五歳までは好きなことをさせてもらったけど、その後は家業を手伝うって約束させられたんです」
「家業というのは、この展覧会の・・・」
「ええ、祖父が設立した慶三財団で働いています」
「じゃあ、お嬢様なんですね」
「それほどではありませんよ」
 柿崎英子が下を向いた。
 やはり単なる受付嬢ではなかった。柿崎英子は財団の創業者一族だったのである。どうりで、肉筆浮世絵に詳しいと思った。
「旗本という芸名は、浮世絵の絵師、鳥文斎栄之が旗本の家柄だったところから付けたのでしょうか」
 津川は訊いてみた。
「はい。本名では芸能活動を許されなかったので、デビューするとき、鳥文斎栄之に因んで旗本と名乗りました。英子は、そのままですが、これは父親が、栄之の「えいし」から名付けたそうです」
 なるほど、言われてみれば、英子は「えいこ」とも「えいし」とも読める。旗本英子という名前には、こんな秘密が隠されていたのだ。
「私の知り合いで・・・彼ではありませんけれど」
 歩夢がそう言って津川を見た。
「旗本英子さんのファンがいるんですよ。卒業して六年経っても、すっごいファン。CD、DVD、それからポスター類を部屋に飾ってあって。写真集は三冊だったかな。英子さんが表紙になっている女性ファッション誌もズラリと並んでた。そうそう、等身大のパネルもあったわ」
「金モールの衣装でしょ」
「それそれ」
「持っている人いるんですね。私だって持ってないんですよ」
 英子は、レコード店の店頭に販売促進用に飾ってあったものだが、三点ぐらいしか作らなかったと言った。

 二人の様子を見ているうちに、津川は次第に妙な気分になってきた。
 歩夢は、合コンで知り合った末田君が旗本英子のオタクで、自分を蔑ろにされたことが不満そうだった。それが、歩夢は英子とは昔からの友達のような調子、まるで同窓会のノリだ。
 仲が良いのは良いことだが、津川は昨夜の夢を思い出さずにはいられなかった。
『死の都』の夢。
 昨夜の夢はオペラ『死の都』の影響があったのだ。津川の観た上演では、原作台本にはない演出があった。パウルが町で見かけたマリエッタを自分の部屋に招く。すると、死んだはずのマリーが現れるのだ。マリーは台詞もなく、歌も歌わないが、これが劇的効果を高める演出になっていた。マリー役には、マリエッタ役のソプラノ歌手に似た女優が起用されていた。
 いま目の前に繰り広げられているのは、『死の都』の舞台、そして、昨夜の夢とまったく同じ光景だった。
 夢の中では『死の都』同様、マリエッタとマリー、よく似た二人が並んで座っていた。マリエッタは野々宮歩夢で、マリーは柿崎英子である。
 津川が見ているのは夢の再現だ。
 マリエッタ、いや、歩夢が誘惑してきて、津川は抱いた・・・そして、歩夢を絞め殺してしまった。
『死の都』の舞台と同じように。
 しかし、『死の都』の中では、パウルの見た夢だったことが明らかにされて舞台が終わる。絞め殺したはすのマリエッタが、赤い傘を忘れたと言って部屋に戻ってきたところでオペラの幕が下りるのだ。
 これは夢なのか・・・このあと、歩夢を・・・

「えー、そうなんだ。偶然もいいところ、ねえ、津川さん、あなたのおかげよ」
 夢と現実がない交ぜになり、あらぬ妄想していて話を聞き漏らした。
「英子さんね、今日で勤務を交代するんだって。今夜、お兄さんが来るそうよ。だから、こうして会えたのはめっちゃスゴイことっていうわけ」
 柿崎英子は会期の前半だけ受付業務を勤め、兄と入れ替って地元へ帰るという。今日が最後だそうだ。この出会いは、幾つかの偶然が重なった出来事だった。
 かなり長いこと話し込んだようだ。英子の仕事に差し支えてはいけないので、そろそろ帰ることにした。
 柿崎英子が何かプレゼントすると言って歩夢と先に部屋を出た。津川も出ようとして、ふと、壁に掛ったカレンダーが目に入った。そこには【最終日・龍田川氏来訪15時】と書いてある。契約交渉が進行中の社長の名前も龍田川だ。肉筆浮世絵愛好家で、龍田川氏となればおそらく同一人物に違いない。これは副社長の耳に入れるべきだろう。英子のおかげで思わぬ良い情報を手に入れることができた。
 お土産ブースに行ってみると、野々宮歩夢は絵葉書や浮世絵の描かれた手拭いを手にしていた。
「これ、もらっちゃった」
 歩夢は大喜びである。
 柿崎英子がサインペンを走らせ絵葉書にサインした。旗本英子のサインと本名の柿崎英子も添えられている。しかも、令和5年の日付入りだからファンにしてみれば貴重なお宝だ。柿崎英子は津川の持っている図録にもサインすると言い、裏表紙にサラサラと書いて渡した。津川が見ると、サインの横にハートマークを書いてあった。嬉しいが、これでは経費で落とせなくなるかもしれない。
 帰りはエレベーターに乗り込むまで柿崎英子が見送ってくれた。
「あーあ、やっぱり、芸能人は違うわ。全然オーラがあったわ」
 野々宮歩夢がエレベーターの壁に背中をもたれさせた。
「歩夢さんもアイドルに負けずにキラキラ輝いてました」
「そう・・・心臓ドキドキだったよ」
 旗本英子に会っているときはかなり緊張していたのだろう。緊張が解けて今度は気が抜けたという感じだ。
「ああ、写真撮るの忘れてた」
「写真は撮らなくてよかったと思いますよ。彼女は芸能界を引退しているんだから、そっとしておいてあげましょう」
「それもそうね」
「もし、末田君が柿崎英子さんのサインを見たらびっくりするだろう」
「彼には申し訳ないけど、誘われてもお断りするわ」
 どうやら末田君のことは頭からきれいさっぱり消し去ったようだ。
 一階に着いてエレベーターを降りた。
 野々宮歩夢が立ち止まってギャラリーのある上の階を見上げた。
「さっき、お土産コーナーで英子さんと二人だけになったでしょ」
 津川が事務室で龍田川氏来訪のメモ書きを見ていたときのことだ。それで自分だけやや遅れてしまった。
「そのとき、彼女が言ったの。英子さん、来月、結婚するんだって」
「ええっ・・・驚いたなあ」
「結婚したら、しばらくは地元の神戸から離れられないので、今回、東京に来れたのはとても楽しかったそうよ。最後に思わぬハプニングがあって、いい思い出になったって感謝されたわ。まだ、自分のファンがいることも分かって嬉しかったとも言ってた」
「歩夢さんが、受付嬢が旗本英子さんかどうか確認に行くと言ったときは、どうなることかと思ったけど、それが良かったんだな」
「結婚することは、私と津川さんだけの秘密にしておこうね」
 考えてみれば、津川が野々宮歩夢に出会ったのは昨日のことだった。それから、肉筆浮世絵をきっかけにして目まぐるしい展開になった。野々宮歩夢と再会することができたし、思いがけず、元アイドルの旗本英子にも逢えた。しかも、英子は、柿崎英子は結婚するというのである。
 何だか夢の続きを見ているかのようだ。
「歩夢さん、これから『三船屋』へ行きませんか」
「いいよ、私も行きたかったの」
 歩夢が腕を絡めてきた。
「この間、傘を忘れちゃったんだ。取りに行かなきゃ、赤い日傘・・・」
 夢ではなかった。

 彼女は赤い傘を忘れる 終わり

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