赤いハンカチの女  

文字数 3,028文字

「あの西べりの空を見てくださいな。真っ赤な雲が見えますね」

「白日の赤い雲ですか。なにか不吉なことでも起こるのでしようかね。まるで血が滲み出ているように見えますね。ほら、西へ向かって動いていますよ」

「ああ、あのような雲を見ると心が痛ます。あの人に出合って、私がどれほど涙もろい人間になったことか、まだ知りもしないのに出会ったときから別れの準備をしなくてはならないとは、それは酷というものですよ」  

「なにがあたんですか?突然そんなことを仰って。それなら、その人を食べちゃいなさいよ。飲み込んでしまえばよいのですよ。その方が、その人にとっても幸せなことだと思いますわ」

「幸せですか?」

「そうでしょう。だって、あなたはその人の一番美しいものを見てしまったのですから。一番美しいものは短命なものですよ。その人もその美しさが消えないうちに死んでしまうことの方が良いに決まっているじゃありませんか。別れた後は、その人も、あなたも、ただ汚れていくだけなのですよ。あなたが老いて、屁理屈をこねくり回して過去のことをぼやき始めたら、それこそ他人迷惑というものですよ」

「食べるって、そんな残酷な。私には無理です」

「えっ、すでにあなたは食べたくて悶えているじゃありませんこと?違いますか?夜、お布団のなかで目を瞑ていると、その人が欲しくて欲しくて悶えてくるのではありませんこと?間もなく、あなたは妄想のうちに、その人を素裸にして、躍起になって、その肉体を抱きしめ、貪りし尽くし、それでも足りずに、その人の心すら貪るのでしょう。つまり、その人と一体になろうとして、何もかも破壊していくでしょうよ」

「なんていうことを仰るのですか。私はそんな女ではありません」

「だったら、まだ知りもしないのに出会ったときから別れの準備をしなくてはならないなんて言わないでくださいな。あなたは、その人を知ろうとして飛び込んでいくのが怖いだけなのよ。飛び込んでいくと、自分の醜さがその人に気付かれ、嫌がられ、その人が去って行くかもしれないと、あなたは怯えているのですよ。でも、心配しなくたっていいのよ。あなたは、その人の一番美しいものを見たんだ。自信を持ちなよ。その美しいものをどこまでも食べていけばいいんですよ。そうしないと、この私みたいな女になるわよ。私がこの地に自分の墓を建てたのは、ええ、それは、憧れが永遠に憧れのままであって欲しいと願ってのことなんですよ。私は常々憧れが崩れ去っていくのを目の当たりにした。それはもう疲れるばかりだった。そのようなことは、もう終わりにしたいと思ったんですよ。終るということが私にとってどれほど幸せなことか、それは、私がこの自分の墓に参るたびに、しみじみ感じているのよ。この冷たい御影石の中にどれほど多くの憧れが死なずに閉じ込められていることか、それだけで懐かしく眺めることが出来るのですよ」

「では、あなたは死人なのですか?あなたはこの世で彷徨っているのですか?」

「そうですよ。生きながら死んでいるのですよ。ただ、多くの憧れに包まれて過去の私が眠っているこの墓を眺めながら生きているのですよ。こんな私みたいな女になったらお仕舞よ。あっ、この寺の住職が来られましたわ」

「またお参りですか。あなた様はなんとも奇特な御方だ。ご自分のお墓とはいえ、こう何度もお参りされるとは、徳のある御方ですな」

「ご住職さま、そんなこと仰らないでくださいまし。お恥ずかしい限りですわ」

「こんなに綺麗なお墓は他にありませんな。いつもお参りなられるたびにお綺麗にされて・・・・」

「だって、過去の私がこの墓の中で眠っているのですから綺麗にしなくてはなりませんから」

「はあ?過去の私ですと?このお墓は、あなた様が亡くなれた時のために建てられたのではありませんか?」

「いえいえ、冗談です。冗談ですわ」

「ご住職さま、私もお墓を建てたいのですが、余っている場所はありますか?」

「今のところ一杯で、空きましたらご連絡いたしましょう。ご連絡先を教えて頂きませんか。メモでもなんでも構いません」

「わかりました。後でお渡しします」

「先日のことですが、この赤いハンカチがこの墓石に置いてありましたが、どなたかお参りになられてお忘れになられたのでしょうかね。お心当たりはございますか?このハンカチには、こんなことが書いてあります。・・・・僕は君のことが忘れられない。あれからづうと何十年も君を思い続けてきた。こんなことなら、君の居る、この墓の中に入りたい。今日、これから僕は自殺します。僕の遺骸の一部でもいいから、この墓の中に入れないのが残念でならない。・・・・これは一体なんのことでしょうね。あなた様と何かご関係でもあるでしょうかね?」

「そのハンカチですか、・・・・あっ、私が大学の先生にプレゼントしたものです。先生が私の墓に参ったのですか?ちょっと、そのハンカチ見せて頂きますか?」

「どうぞどうぞ。これはまた奇異なことがあるものですな」

「あなたって、人殺しね」

「こんなことなら、あのとき、先生を食べていればよかった」

「なにをするんですか?気でも狂ったんですか?」

「いいのですよ。このハンカチを食べるんですよ。死んでも構いはしないわ・・・・」

「あなた様、自殺するのでしたら、他の場所でお願いします。穢れますので。死んだ後は構いません。この墓に埋葬させて頂きますので」

「いいえ、結構です。私はこの墓の中に入る資格はありません。さあ、行きましょうか」

「そうしましょう」

 私がこの墓地に自分の墓を建てたのは、実は、この墓地には先生の家の墓があるからだった。昔に戻れないのなら、せめて私の墓だけでも先生の側近くに居たかった。それだけでも、ほんの僅かだけど私の憧れは叶えられると思った。それが、なにかの切っ掛けで、先生はこの墓地の中に私の墓があることをお知りになられた。

 やはり、先生はお亡くなりになられていた。生前、いつも思い詰められておられるようでした。離婚されて、寡黙の人生だったそうです。まさか先生が私の墓にお入りになりたいとは、・・・・。私は悔やんでも悔やんでも悔やみきれません。でも、私には自殺などできないのです。それほどまでに先生のことを思ってはいなかったのです。ですから、私は、あの私の墓の中に入ることは出来ません。かつての、あのときの私の先生への憧れが今もあの墓の中で息づいている以上、先生の遺骨の一部でも私の墓に入って頂く、それだけで、なりよりの幸せというものです。先生、お許しください。私の初恋の人だったのに・・・・。

 私は帰る途中、鶴岡八幡宮境内にある白旗神社に参拝した。白旗神社の社紋が我が家の家紋と同じであることから妙な親近感を抱いていましたので。

 それから、私は北鎌倉に向かって歩きました。一度だけですが、先生と歩いた想い出の道でしたので。

 そのときでした。背後に馬の蹄の音がしました。何事かと思い、私は振り返えりました。黒馬に跨った白装束の武者が私を見つめていました。私は唖然として立ちすくんだのです。なぜか、私は懐かしくなり、手にしている赤いハンカチを振りました。すると、その武者は笑顔を残し去って行きました。なぜか、清々しい風が吹いておりました。
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