第1話

文字数 2,000文字

 心の隙間にするりと入り込んでくる煙のような、それでいて奇妙な安堵で満たされるような。先生はそんな人だった。
 先生を初めて見たのは、行きつけの雑貨店だった。昼下がりの柔らかな光に照らされ、観葉植物の鉢を一つ一つ延々と手に取っている白い長髪の後ろ姿。
「ちょっと、これじゃ選べないじゃないのよ」
 先生の文句に雑貨屋のマダムは楽しそうに笑う。
「こんな、あたしみたいな偏屈ジジイが気に入るものばっかり作ってくれちゃって、もう」
 どうしてくれるのよ、と、つんけん言い募る先生に、マダムは、じゃあ全部連れて帰りますか? といたずらっぽく返し、即座に、お黙り! と怒鳴られる。
 ふと、乱暴にじゃれあっていたホワイトタイガー(そう、先生の第一印象はホワイトタイガーだった)の目がこちらを捉えた。一瞬で間合いを詰められ、仁王立ちで顔を覗き込まれる。
「あなた、なかなかの偏屈だわね? でしょ?」
 山で熊に出くわしてしまったら、きっとこんな感じなのだろう。下手な反応でもしようものなら、次の瞬間に致命傷を負う。
「先生、びっくりしちゃってますよ。だいたい初対面の第一声がそれって、普通はけなされていると思いますって」
 マダムが苦笑しながらのんびりと言い、先生は、あら、と一歩後退する。
「ごめんなさいねえ、あたしとしては褒め言葉だったんだけど」
 テレビで見た、力加減が分からず人間に怪我を負わせてしまったライオンの目に似ている気がして、いいえ、と笑い返す。
 と、先生はきょとんとした。何か言いたそうに口を少し開けて、まじまじとこちらを見る。
「……あなた、変な子ねえ」
 そう呟くなり、肩をがしっと掴んできて併設のカフェスペースへ引き摺り込む。
「この子とあたしにコーヒーちょうだい」
 マダムにオーダーすると、テーブルに頬杖をついてまた眺めてきた。
「あなた、仕事何やってるの?」
「あ、在宅でパソコン仕事を」
「書き物?」
「はい。記事を書いています」
 へえ、やっぱり、と呟いて、先生は胸ポケットを探る。
「あたしもね、やってたのよ、記者。やんちゃばっかりしてたから、編集長には常に雷落とされてたけど」
 いいかしら? と取り出した煙草ケースを振って尋ねてきて、こちらが頷くとすぐに火をつける。
「だから、人を観察する癖がついちゃって。あなた、ちょっと似た匂いがしたのよね」
 さりげなく吐き出した煙をこちらにかからないようにしながら先生は窓の外に目をやった。
「けどあなた、何か他に夢があるんじゃない? あれこれ詮索するようで悪いんだけども」
 初対面の猛獣にパーソナルスペースを思いっきり侵犯されているはずなのだが、不思議と警戒心は霧散していた。
「はい。伝統工芸を未来に伝える仕組みを、なんとか作りたくて」
「はあ。そりゃまたどでかい夢ねえ」
「ええ。少なからず」
 苦笑すると、先生はすうっと真顔になった。
「けど、あなたならいつかやり遂げるんじゃない? そんな気がする」
 そうでありたいです、と答えたのと同時にテーブルにコーヒーが置かれる。
「先生のこういう言葉、よく当たるのよ。だから先生って呼ばれていてね」
 マダムが微笑むと先生は顔をしかめる。
「あたしはやめなさいよ、って何度も言ってるんだけど」
 深いため息をつき、先生は煙草の火を灰皿でもみ消した。
「それにしてもさ。あたしがこれだけ根掘り葉掘りしてるのに、あなたはあたしに全然聞いてこないわね。あたし、変でしょ?」
 返事はできなかった。が、言わんとしていることはもちろん理解できたし、その言い方で今まで幾度となく傷つけられてきたのだろうことも分かった。
「真っ先に言ってきそうなものだけど。でも、いいわ、そこも気に入った」
 野生動物は不調や傷を隠そうとするのだという。知られてしまったら、その弱点を攻撃され命を落とすからだ。
「あたしもねえ、夢、あったのよ。けど絶対に叶いっこなくてね。だから、将来の夢は何ですか、って聞かれても、まだありません、っていつも答えてた」
 人間はどうなのだろう。弱みを見せても本当に安全でいられる場所は、どれだけあるだろうか。
「だからさ、何のてらいも躊躇もなく語れる夢は、大事にしなさいね。誰に何言われようがね」
 その時のコーヒーはどんな味だったのか、あまり覚えていない。ただ正体の知れぬいくつかの強い感情が生まれては消えていたことだけ鮮明に覚えている。

 先生とはそれから時折街中で出会った。あの「偏屈」の意図もじきに、やりたいことがあって容易く揺るがない、の意味だったと知る。応援してるから、がいつも「さようなら」代わりだった。

 当たり前は決して当たり前ではない。その時は急に訪れた。
「頑張りなさいよ? じゃあね」
 あれが空耳だったとは思いたくない。しかし、振り返っても猫が一匹寝そべっているだけだった。
 もう何も、いや、まだ何もない秋空が、どこまでも高く広がっていた。
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