第1話

文字数 2,065文字

「カズ、そろそろ起きなさいよ」
ん、分かっている、と布団の中からくぐもった声が聞こえた。
このトーンは信用できない。
今までの経験から言うと、これはもう一度寝てしまう確率90%以上のやつだ。
30%くらいに下がるまでは油断は禁物、任務続行だ。

部屋に入るな、何度も同じことを言うな、もう少し優しく起こせ、などと言うのならせめて自分で目を覚まして欲しい。
小学生の頃は可愛かった。
布団を軽くたたくだけで、歯の抜けた顔をひょいとのぞかせて笑顔を見せてくれたのに。

懐かしがっている場合ではない。
今は私のプライドの全てをかけて、この仕事をやり遂げなくては。
おかずはハンバーグ。それは数日前から決まっていた。
最後のお弁当は息子の一番好きなものを入れようと思っていたから、メニューを考えるのは難しくなかった。
むしろハンバーグをこの日に置いておくために、それを避けたメニューを考えなければならなかったこの数日間の方が大変だった。

卵焼きとソーセージ。それとアスパラのベーコン巻き。
まずご飯を下半分に入れてその上に鰹節と醤油を混ぜたものを散らし、またその上にご飯をのせる。それから最後に梅干し。
ハンバーグは火が通るのを待ってから、ウスターソースと濃厚とんかつソースを混ぜたものをかけてすぐ火を止める。ソースが香ばしい匂いがあたりに漂う。

そろそろまた起こしにいかなくては。
「カズ、今度こそ起きなさい」
んぁ、起きる、と先程よりはましな声が聞こえた。
はい、60%。

お弁当は粗熱を取るためにテーブルの上に蓋を開けたまま置いておく。
朝食のトーストはカズの顔を見てから焼こう。

来月早々には大学進学の為に東京へ行ってしまう一人息子だ。
カズを妊娠した時には、親になることへの責任やプレッシャーに押しつぶされそうな気がしたけれど、案外呆気なく時間は過ぎてしまった。
これからもカズの母親であることには変わりはないが、今後は世話を焼きすぎたら息子の自立の邪魔になるだろう。
どちらにしろ家を出てしまえば、心配するどころか息子が何時に起きて何を食べたすら知ることはなくなってしまう。
あっという間に過ぎたように思う18年間だったが、それでもいろいろあった。

もしかしたら学校で苛められているのではないか、と心配した時期もあった。
中学二年の頃だ。
ソーセージ、から揚げ。大好きなおかずが、少しだけかじった状態でお弁当箱に何回も残されていた。
「食べ物を無駄にしちゃだめ。全部食べてね」
とうとう一度もそれだけは言わなかった。
お弁当は心身ともども健康のバロメーターだと思っていたから、息子の状態を見守るためにもあえて言わなかった。
ハンバーグが残るようになったら、学校に相談しよう。
そう心に決めていたが、ハンバーグだけは残すことがなかった。

去年、付き合っていた子にフラれたな、と思った時があった。
一緒に住んでいればそういうことは何となく分かるものだ。
その翌日のお弁当にもハンバーグを入れた。
言葉に出して励ますことは出来ないから、せめて好きなものを入れてあげようと思ったのだ。
空になったお弁当箱を受け取った時、ちゃんと食べている間は大丈夫と少し安心した。

あ、もう一回起こさなくちゃ。
「カズ、起きないと学校に遅れるよ」
もう、起きてる、という声が聞こえた。
いやいや噓でしょ。あの声は起きてない。40%というところか。

トーストを焼き始めることにする。
お弁当箱もそろそろ蓋を閉めていつでも持って出れるようにしよう。時間がなくなってきた。
閉める前にもう一度眺めると、その出来にほれぼれした。我ながら見事なフィナーレ。

「カズ、いい加減起きなさい」
起きてる。
意外にもはっきりとした返事が返って来た。
ハハァ、あれはスマホをいじっている声だな。
40%がいきなり0%になったのは結構だが、スマホというのは時間を忘れさせるという難点があるから、トーストが焼け上がったらもう一度だけ声をかけることにしよう。

チーン。トーストが焼けた。
どたどたと部屋から出てくる音がした。
「おはよう」
声をかけると、「んんん」と返事が返って来た。
あれは、おはようの挨拶のつもりか。

トーストにバターをつけて目の前に差し出すと、スマホを見ながらシュレッダーのように食べた。
まぁ最後の日くらい小言は止めておこう。

大きなカバンにお弁当を入れている姿を見ていると、この姿も見納めだと思った。
教科書を持っていく必要のなくなったバックの中でお弁当が所在なげだ。

「いってらっしゃい」
玄関で声をかけると靴を履いてから振り返った。
「弁当はハンバーグ?」
「あたり」
「んんん、んん」
どうやら行ってきますのつもりらしい。

最後の仕事が完了した。
片付けを済ませて、テレビでも見ながらお茶を飲もう。
ご苦労様、ワタシ。

一度閉まったドアが開いた。
「忘れ物?」
「あの・・・6年間お弁当を作ってくれてありがとう」
私の目は見ない。照れくさいのだろう。

「どういたしまして」
ミッション・コンプリート。
そう実感したら、急に鼻の奥がつーんとした。
「いってらっしゃい」
さっきより少し大きめの声で言った。



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