雪上

文字数 1,218文字

走れ、走れ、走れ。
 息を切らせても足は切らすな。すぐに次の脚を出せ。休まずに怯まずに走れ。どこへ行こう?しかしその答えは今はまだない、走って走って走っていきついた先がそこだ。だからまだ、俺は脚を止めない。
 困ったことに冬だからと言って暑くないわけじゃない、むしろマフラーや手袋や耳当てが煩わしいほどに走る体を熱くする。こんなもの要らないと投げ捨てたいが、今はその腕の動きすらまだるっこしい。いいから走れ、俺。水滴なのか汗なのか分からない水の粒はしたしたと顔から頭から弾けていく。口の中に入って来たのは塩味だった、汗かよクソ、あっちーな!
 走る、とにかく走る。ジャッジャっと雪の音と体を覆う熱のベールを撫でていく1月の空気だけをこの身に求めた。いや噓、それは次の一歩を諦めないための建前の理由。いやいや噓、今はそれがすべてだ。
 なあみずみずしいお前の死体よ聞こえるか。背中にあたる温度は噓みたいに生っぽくてお前がまだ生きてると思ってしまうよ。前に尾瀬で歩荷のバイトしたことあるんだけどさ。炎天下の山道を20キロもする荷物を背負っていくんだ。その時もきつかったけど今の方がきっついわ。
 真反対の状況が酷く運命的に思えることはある。ままある。
 「はっはっは」
 それなら俺の人生運命ばっかりだ。夏の山道で、登山客のための備品背負って歩くんだ、1月の住宅街で、自分のために友達の死体背負って走ってる。正直限界だ。ここはどこかも分からない閑静な住宅街で、時刻は多分、1時間ぐらい走ってるからもう深夜2時ぐらい、明かりが点いてる窓なんて一個もない。そろそろ本当に限界だ。手近な空き地が見えた。雪かきの雪を集めているんだろう、それほど一か所不自然に溜まっていた。いやこんなの経験があれば分かる一般常識の範疇だ。
 俺はそこで脚を止めた。いや正確にはよろけて倒れた、顔面から。ジャスッ。雪が、痛い。けど火照った頬にこの冷たさは有難い。息を整えるためにも体に括り付けたものを取りたいが、背中にある死体の重みは1時間爆走したあとでは実際の何十倍にも重く感じられた。いいのだ、死人に口なし。生者に口あり。
「……おっこい、しょっ!」
 残りの体力を絞って膝立ちになった、そのまま俺と友達の死体を繋げていた紐を、紐と言うか着物の帯を外した。俺の爆走中はあんなに熱かった死体が今はすっかり青くなって夜の闇に溶けかけていた。そして意識を失った人同様に死体は重い。
 最後の仕事だ、頑張れ俺の脚そんで腕。本当に動かしにくい死体をまだ動く範囲で大の字にした後、俺は横に同じ格好で倒れた。今度は背中から、まるで奈落におちる心地で。
 時刻はきっと深夜3時ぐらいだろう。このまま朝を迎える、死んだ友達とこれから死ぬであろう俺と。ああ気持ちいなあ、雪の上にいてまるでここはあたたかな布団だった。
 おやすみ、僕の友達。目が覚めたら君が死んでからの僕の、文字通りの奔走を笑ってくれないかい。
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