リラの花

文字数 3,216文字

 五月。この季節になると、僕はよく朝靄(あさもや)の中に飛び出して、露に濡れた芝生を踏み、庭にある薄紫色のリラの花を眺める。ずっと、それこそ僕が生まれる前からこの屋敷にある古い木だ。その花を眺めていると、自然と彼女――妹のことが思い起こされる。

 妹とは言ったが、正確には妹ではなく従兄妹(いとこ)だ。僕の両親は五歳のときに亡くなって、その後叔父が爵位を継ぎ、その叔父夫妻の一人娘が彼女だった。だけど彼女は僕を本当の兄のように慕ってくれていて、僕も彼女を生まれたときから知っていたから、もう妹同然だった。おそらく、そこらの兄妹よりは断然仲良かっただろう。血の繋がりなんてなくても、僕らは素晴らしい兄妹だった。

 彼女が生まれたときのことはよく覚えている。叔父夫妻に引き取られてから一月(ひとつき)しか経っておらず、未だ両親の死の衝撃に打ちのめされていたころ、屋敷に産声が響き渡った。叔父はそれを聞いた途端、つい先ほどまで気を失ってしまうのでは、と思ってしまうほど青白い顔をしていたにも関わらず俊敏に駆け出し、叔母の元へ向かった。ぼんやりとしていた僕はふらふらとついて行って、そこでこの世のものとは思えないほど美しい存在と出会ったのだ。

 言わずもながら、それが妹だ。本当に宝石のような美しい赤ん坊で、一目(ひとめ)見た瞬間、魂を揺さぶられるようだった。生まれたばかりだからしわくちゃだったけれど、とても小さく、愛らしくて、今でもその姿が目に浮かぶほどだ。叔父か叔母に抱いてみるか? と尋ねられ、それに深く考えることなく頷き、慎重に彼女を渡されたときは、思わず泣きかけてしまった。それくらい、彼女は僕にとって特別だった。

 そんな僕だったから、叔父夫妻に負けず劣らず――いやそれ以上に妹を溺愛した。引き取られてからの一年は、僕を気遣ってか、叔父たちは家庭教師を用意しなかった。だから僕の時間はたっぷりと有り余っていて、その全てを僕は妹との時間につぎ込んだ。乳母と一緒にミルクを与えたり、僕の得意なピアノを聞かせてやったり、時折外に連れ出してやって、色々なものを見せたりした。幸いにも我が家――この屋敷は爵位を持つものが住む決まりだから、僕は叔父夫妻に引き取られたからといって、生まれた屋敷を出たわけではないのだ――には広大な庭があり、多くの植物が植えられていたから、それを見せることが多かった。特に彼女が気に入っていたのはリラの花で、その木の下に行くと、いつもと変わらないはずなのに毎回可愛らしい歓声をあげていた。

 やがて一年が経つと、僕には家庭教師がつくようになった。叔父夫妻はどうやら僕に爵位を継いでほしいらしく、その教育内容は以前と全く変わらない。大忙しの日々だった。だけど、それでもなんとか時間を作り出して、僕はしょっちゅう妹に会いに行った。そのころには彼女は完全に歩くことができるようになっていて、数は限られているものの、言葉を話すようにもなっていた。彼女に「にぃ」と呼ばれるたび、なんとも言えない気持ちが湧き上がってきて、とても幸せだったのを覚えている。彼女は僕の幸福だった。

 時が経ち、彼女は五歳となった。僕は彼女の誕生日を祝おうとしたけれど、その数ヶ月前に病に倒れて以来、ひどく体が弱くなってしまっていて、結局その日も一日中熱に浮かされて寝こんでいた。ようやく意識がはっきりしたのは彼女の誕生日から三日後で、その間ずっと彼女は看病してくれていたらしく、僕は慌てて謝った。誕生日を台無しにしてしまったのだ。嫌われることも覚悟していた。だけど彼女は微笑んで、お兄様のせいではないわ、と、言ってくれた。それに、お兄様が元気になったことが一番の誕生日プレゼントよ、とも。

 その言葉に、僕は不覚にも泣いてしまった。あれだけ小さかった存在が、こんなにも大きくなり、僕を癒してくれるという事実に、深く感銘を受けたのだ。

 それからも僕は変わらず妹を溺愛し続け、そしてあの日が訪れた。

 妹が十歳、僕が十五歳になった年の晩冬、彼女が病に倒れたのだ。あまり感染しないものの一度かかれば必ず命を落とすという、悪魔のような病気だった。それを告げられたとき、僕はこの世を呪った。今でも、どうして僕ではなく彼女が病魔に襲われたのだろう、と思ってしまう。病弱で、今後も社交界に滅多に出られそうにない僕なんかより、美しく、華のあり、社交界でも名を馳せるであろう彼女が生き残った方がいいのは自明の理だ。

 僕は懸命に看病をした。医者は匙を投げたけれど、起こるかもしれない奇跡を信じて、それこそ寝る間も惜しんで彼女の世話をした。けれども彼女の病状は徐々に、だけど確実に悪くなっていった。

 そんなある日だった。早朝、体調がそれほど悪くないとき、彼女は僕を連れて庭へと飛び出し、ふらふらと、何かに導かれるようにしてリラの木の下へ立った。そのときはまだ四月で、花は咲いておらず、ぽつぽつと小さな蕾がある程度だった。そこで、彼女は言ったのだ。

 ――私、お兄様の娘に生まれるわ。絶対。約束よ。だからお兄様も、私の願いを叶えてね。

 ……そのときの彼女は僕に背を向けていて、表情が見えず、どんな気持ちでその言葉を口にしたのかは分からない。けれどその姿が今すぐにでも朝靄に溶けて目の前から消えてしまいそうなほど儚かったのは、強く覚えていた。

 そしてその数日後、彼女は死んだ。僕は片割れとも言っていいほど愛していた存在を失った。



 それからの日々はひたすら空虚だった。世界がまるで色を失ってしまったかのようで、何をしても僕の心が揺さぶられることはなく、ただただ時間だけが過ぎていった。
 彼女の最期の願いを叶えようと何度かお見合いをしたけれども、僕は誰かと結ばれようとは決して思えなかった。どうしてかと考えると、僕が愛するのは彼女一人で、きっとこれからもそうなのだろうと、当時不思議と納得したのを覚えている。それ以来僕は無意味なお見合いをやめ、静かに屋敷で暮らしてきた。

 そして幾年もの月日が過ぎ、おそらくもうすぐ僕は死ぬだろう。だけどそう思うとなんとなくそれが寂しくて、誰に向けたでもないこの手紙を書き始めた。この感情をはっきりとは理解できないけれども、おそらく僕と彼女を知って欲しかったのだろう。生きた軌跡を残したかったのだと思う。

 だから、この手紙を読んでいる人、どうか僕らのことを覚えていてほしい。それだけで、僕は充分だ。


 追伸
 この手紙が入っていた封筒に、楽譜を同封した。彼女が死んだあと、僕が作った曲だ。タイトルは――


   ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


「『リラの花』……」

 ぽつりと声がこぼれ落ちた。彼女はいつの間にか浮かんでいた涙を拭いながら、封筒の中から楽譜を取り出す。それはピアノの楽譜だった。簡単な曲で、これなら弾けるかもしれないと、彼女は大急ぎで同じ部屋にあったグランドピアノに腰掛けようとした。しかしどこもかしこもホコリを被っており、ポーン、と音を鳴らせばそれは明らかに音程がズレていた。それはそうだろう。もう百年近く、この屋敷には人が踏み入れていなかったのだから。調律なんてされているわけがない。

 はぁ、とため息をつきながら、仕方なく頭の中で曲を鳴らす。脳裏にはうんと昔に見た、この部屋で大好きな兄がピアノを弾く姿が浮かび上がった。また目の奥が熱くなるが、今はその場合ではないと頭の中で響くピアノの音に集中した。
 短調の伴奏は切なく、胸が苦しめられる。だけどそのメロディーは不思議と柔らかくて、ひだまりのような温かさを持っていた。

 ああ、と嘆きながら彼女は床にしゃがみ込む。

「お兄様の、ばか……」

 くしゃ、と、彼女の手にあった楽譜がわずかに歪んだ。
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