第1話

文字数 2,564文字

 最近、娘に妻の面影をよく感じる。
 栗色の髪、淡い緑の眼、すっと通った鼻筋などの顔立ちは勿論のこと、立ち姿、ふとした時の仕草、振る舞い方、全てにおいて妻の面影を感じる。
 私がそう言うと娘は「とても嬉しいわ」といって、自分の体を眺める。
「でも母上は私よりずっと美しかったんでしょう」
 娘は想像でしか会えない自分の母親の姿と自分の姿を比べて言う。妻も美しかったが、娘もその美しさに引けを取らない。そういうことを伝えると「もうお父様ったら」と言って、娘は笑う。無邪気な笑顔も妻によく似ている。
 よく笑う娘であるが、母親がいないという寂しさは、娘も少しは感じているようである。昔から、娘は妻の話をよく私にせがむ。私も妻の話をするのは好きだ。やはり思い出すだけでも幸せな日々が蘇る様であるからだ。しかし、娘に聞かす価値のあるような話は幼い頃に語り尽くしてしまっている。娘は今でも話をせがんでくるので、私は老化の進む頭に鞭を打ち、必死に妻のことを思い出す。最近はもう話ですらない。「この花が好きだと言っていたな」「この絵は嫌いだとよく言っていた」など、妻の好みに対する報告である。それでも娘は目を輝かせて聞くのだから、まあ良しとしよう。
 私は話の最後を必ず「妻はお前を愛しているよ。今もこの家のどこかで見守ってくれている」と結ぶ。そういうと娘は「嬉しいわ。私も母上を愛してる」という。なんというできた娘だろうか。
 実を言うと、娘の母親である妻は、私の後妻である。
 前妻はとある事情により、家族としては過ごせなくなってしまった。私の仕事に対する姿勢と行き違ったのだ。当時は、倫理的に怪しいことでもやって行かなければ生きていけなかった。まだその名残はこの家にある。ある部屋にはその証拠となるものが残っている。その部屋は誰も立ち入るのとの出来ぬようにし、娘にも強く言い聞かせている。
 そんな話はさておき、妻と私は親子ほどの年の差があったが、私は妻を愛していたし、妻も私を愛してくれた。そして妻は前妻の話をすることを好んだ。
「あなたが愛した人だもの。そして、私と同じ人を愛した人なのよ」
 なんというできた妻だろうか、そして私はなんと沢山の人に恵まれたことだろうか。
 そんな幸せな私の家族であるが、少し不穏なところもある。娘に、妻の似て欲しくなかったところまで似たのだ。
「声が聞こえるの」
 娘はそう言った。妻もここにいた頃、よく言っていた。
 夜になると、壁の向こう側から誰かの声や物音がするという。鼠やその類ではないか、と一蹴したこともあるが、それなら私にも聞こえるはずだ。私には全く声も物音も聞こえない。
「気の所為にしては……はっきり聞こえすぎるの」
 きっと妻も娘も、感受性が人より豊かで他人のことを思いやれる繊細さを持つ故、そのような霊の類のものも聞こえてしまうのであろう。幸い、娘には声が聞こえるだけで何も危害を加えられたことは無いという。ひとまず安堵である。
「大丈夫よ。母上も聞こえていたと言うなら、私だって大丈夫な筈よ」
 娘はそう言って笑ってみせる。いつものような無邪気な笑顔ではないが、その健気さに胸が締め付けられる。この声、一人にならないと聞こえないそうなのだ。私がいる時は聞こえず、私がいない時に限って聞こえる。そうと分かれば、私が四六時中ずっと共に過ごせればいいのだが、私にも仕事はありそれは出来ない。なんとも悔しい限りだ。
「声が聞こえるだけだもの。もう慣れたわ」
 娘が心の底からそう言えるようになった、と思ったのも束の間、症状は悪化し始めた。
 昼になっても聞こえるという。その声は以前よりも増しているそうだ。「大丈夫、大丈夫よ」という娘のその声には、余裕を感じられなくなっていた。
 私もこの状況を変えたいという意思はあった。怪しげではあるが、国最高峰の祈祷師や霊媒師とうたわれる人物などにも頼み、儀式を行ったりしたものの、効果はなかった。
 娘はどんどん衰弱していった。そんな娘に私は出来る限り付き添い続けた。今まで貯めていた資産は山のようにある。娘にはいい医者をつけ、いいものを食べさせ飲ませ、霊媒師を引き続き呼び、霊を祓ってもらった。効果は現れなかった。
「あの部屋から聞こえるの」あるとき、そう言って娘は例のあの部屋を指した。私の顔は歪んでいたかもしれない。
「でもお父様がいる限り私は大丈夫よ」
 娘はそう言って笑った。陰りはあるものも美しい笑顔だ。恐ろしい程に妻と似ている。妻の最後もこのようであった。娘は──娘だけは失いたくない。まだ彼女の笑顔が見たい。孫の顔も見たい。妻にも娘にも似た美しい子が生まれるだろうに。神など信じたことは無いが、今だけは神に祈りたいと思った。あの部屋から聞こえるというのは──私のせいなのだろう。何かしらだれかの思いを引き摺ってしまっているのだろう。娘には謝りきれない。
 そのような状態になって、しばらくの時が流れた。娘の症状は改善しないが、慣れては来たようである。
「何もされないもの。大丈夫よ」
 その笑顔は、かつての心の底から笑っていた時の笑顔に近かった。きっと、今までの日常に戻るのも時間の問題だろう。
 そうして、またしばらくの時がたった。声は未だ聞こえるそうだが、娘はかつてのように過ごせるようになった。屈託のない笑顔も見ることが出来る。
 
 娘は今、私の前にいる。
「……お、お父様、これは、一体、どういう」
 言葉を上手く紡げないようだ。“ある部屋”の扉の前で、娘は腰を抜かして、私の方を見てくる。
 部屋の中には、娘と同じ、栗色の髪をした淡い緑色の眼の女がいる。弱った体をしている。そして、その横には白骨となった誰かがいる。
「開けるなと言ったよな」
 私は娘に言った。「約束破るのはいけないと教わっただろう」
娘は私と目を合わせようとしない。自分のしてしまったことを認めたくないようだ。やれやれ。
「大丈夫だ、お前に今はこんなことはしないよ」
 私は娘の手を取って立たせた。
「さあ戻ろう。医者がそろそろやってくるだろう」

 娘の症状はその後なぜか酷くなった。原因は分からないままだ。孫の顔は諦めなければならないかもしれない。娘の衰弱はそれほど早かった。だがしかし、この姿でも。
 娘に妻の面影をよく感じる。
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