Angel of the North

文字数 4,901文字

 赫々と燃ゆる空。うつろわぬ日没に廃墟となった教会の影が崩落し、だらりと弛緩した月から経血のように溢れる光を浴びながら、旅人は壁の跡にもたれて項垂れていた。

 ――心貧しき者は幸いなるかな、何となれば天国はその人のものなればなり。



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 夥しい墓標の嘆きが十億万土の果てを閉じるように、旅人は己の旅路が火葬の如き祈りによって焼き尽くされることを望んでいた。その熱病の如きが夜明けの空に残された一等の星のように彼を導いていた。

 汽車の中では美しい羽根で着飾った役者が奇妙な踊りを舞っていたが彼はその人の方を見なかった。夜空には星々が瞬いており、彼の心は数え切れぬ追憶に包まれていた。

 ……。

 エルサレムの娘たちよ、
 わたしは、かもしかと野の雌じかをさして、
 あなたがたに誓い、お願いする、
 愛のおのずから起るときまでは、
 ことさらに呼び起すことも、
 さますこともしないように。



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 汽車を降りた時、町はまだ夜明けの白い靄に覆われていた。旅人は野茨の生い茂る小道の傍の公園に入ると、そこで天上の出来事について思った。

 白い靄の向こうで空は曇っていたが、その上では全てが氷のように輝いて硬直していると知っていた。均一に満ちる青は知られざる永遠の言葉だった。そこから濾し取られた告別の涙が雲の下に滲み始めたのを見ると、旅人は公園を後にした。

 宿を探しがてら市場を散策し、舗装された通りから裏道へと入ろうとしたが、人々の慄く声が彼を引き留めた。様子を見に行くとそれまで彼らを賑わせていた道化師が綱渡りをしている最中にロープから墜落したらしかった。

 即死であり、流れ出た道化師の脳漿は石畳の上で冷たく、この自殺者(他ならぬ己の手で命を絶つことになった憐れな道化の男!)の亡骸にそれまで彼を笑っていた人々は近付こうとしなかった。

 旅人もそこから去ろうとしたが湿り気を帯びた断面から零れ落ちた眼球が彼を見つめていた。死の光悦に浸った眼差しは生の欲望から切り離された無何有に爛々としており、黒みがかった血潮の固まりつつある顔面に落ち込んだ眼窩の底で、空の涙をそのまま受け入れていた。

 生前道化師だった男は、生者たちが忘れた祈りの表情を浮かべ、まさに赦しを請うている最中のように無垢だった。

 男は旅人に告白を訴えかけているようだった。だが旅人は応じなかった。怖れたのではない。彼もまた生者であったから死者の言葉の異様な響きに促されたのである。



 雨と泥で混濁した人気の無い通りを進んでいくうちに一軒の縮こまった宿があった。煉瓦造りの壁に据えられた木製の戸を開き、入ってきた旅人をカウンター越しにじろじろと見つめる主人にしばらく滞在することを伝えると彼は一番安い部屋を借りた。古黴の匂う部屋に落ち着くと彼は外套を脱ぎ捨てシャツの袖を捲き、洗面台へ顔を洗いに行った。

 蛇口を捻るとどくどくと生温い水が溢れた。彼はそれを手の中に溜めると、金属のように凝り固まった顔をゆっくりと浸した。すると水は彫りの深い溝へと滑り込んで彼の青白い瞼や厚い唇を隅々まで濡らすのだが、そういった接触の一切は流動と重力の作用により幾らかの熱と乾いた現実味を奪い取って行った。

 剥き出しの窓の向こうでは暗く濁った雨が激しく、鬱屈と町が溺れる様子を眺めながら旅人はこの町の噂を――或る町の外れの丘には天使が住んでいる――思い出していた。

 彼は無神論者だったが、丁度このような雨の日に、丁度先ほどの道化師のような死者が出た日に、祈りと信仰の妄執に囚われた。或いは妄執とは不尽の絶望が蛇のように思索する心臓を呑み干し、告白する血肉を噛み砕く倒錯的な衝動なのかもしれない。

 旅人は宿の近くの地下食堂に入り、見知らぬ酒飲みと席を共にした。彼が胡瓜の酢漬けとライ麦パン、そして麦酒を口に入れている目の前で酒飲みは頭をテーブルに横たえ、揺れる蝋燭の火をぼんやりと見つめながら、何事かを呟いていた。細々と、しかし絶え間なく酒飲みの口から漏れ出る声を旅人は聞き取れなかったが、そこには手探りに夢を暴いて行く悲哀があった。

 最後の麦酒を飲み干すと旅人は席を立ち上がったが、椅子の大きくずらされた硬い音でようやく酒飲みが目の前で食事をしていた旅人に興味を持ったようだった。

 涙に濡れた目で酒飲みは凍えるように話した。

 ――14人の子供たちが木の扉を開けてこれをくぐった。
   そのうち9人は囚人に、5人は化け物になってしまった。



 翌朝、旅人は己のいびきで目を覚ました。アルコールの残った頭を左手で支えながらふらふらと窓辺まで歩いて行くと、雨の中を黒い霊柩車が走って行くのが見えた。

 誰が載せられているか遠目には分からなかったが、追従する者の居ない孤独な足取りから旅人は昨日の道化師に違いないだろうと思った。この地域の風習として身寄りのない自殺者は教会の共同墓地に埋められることを旅の間に教わっていた。追悼の文句は要らなかった。

 それから彼は依然止む気配の無い雨の中をたださ迷った。

 ぴちゃぴちゃと跳ねる飛沫、蒸れる土の匂い、生温く吹きすさぶ風…時には水浸しになった新聞紙を踏みながら、傷付いた犬の這うような鳴き声を聞きながら、旅人は天使の話を訊ねて回った。

(水辺にたどり着いて、風に向かって、
 私は彼の名を言おう。夢の中で、
 彼を待ち続けながら)

 何処からか流れてくる歌…調子の外れた蓄音機が鳴らしている音楽が彼の足取りを一層重いものにしていた。



 雨水を吸って重くなった外套を引きずりながら旅人は教会に入ったが、礼拝の時間が過ぎているのか聖職者の姿はなかった。木製の十字架を秘めやかに照らす小さな電球だけが頼りの屋内には暗い影に紛れて十二脚の長椅子が祭壇を囲うように並べられており、彼は十字架から離れた場所に腰を下ろして項垂れながら目を瞑った。

 眠りに就く時、或いは目を閉じる時、人間は瞼の裏で薄い幻想のベールを紡ぎ始める。一度でも光に触れれば支離滅裂に千切れてしまう繊維はしかし、暗闇の中に在り続ける限りゆっくりと脳髄に絡み付き、やがて意識を窒息させる。

 その束の間の死に夢を見ていることを思い出す。

 ……。



 気が付くと彼の傍には若い娘が立っていた。話を聞くと懺悔に来たところで微動だにしなかった旅人が目に付き、心配し揺すり起こしたのだという。

 娘は彼が旅人であると分かると雨が止むまで旅の話をして欲しいと願った。旅人はしばし悩んだが、気紛れに適当な話を聞かせることにした。

 話を終える頃には日も暮れかけていたが雨は猶も続いていたため、再会を約束して旅人は教会を出た。



 別の日。町外れの森の中に由来の知れぬ廃墟があると浅ましき喧嘩の代償によって頭から血を流す男に教えられた旅人は雨が止むのも待たず暗い森へと足を踏み入れた。獣の気配さえ静まり返った森の中を、醜く隆起した木の根を踏み越え、歪んだ枝を折りながら、血肉を喰らう寒さを忘れてさ迷い続けた。

 しかし生きる身体は遠からず疲れ果て、旅人は休むことを余儀なくされた。それで暗鬱に降り続ける雨から身を隠して息を潜めていたのだが、ふと辺りから葡萄酒の匂いがすることに気が付いた。奇妙に思って辺りを見渡してみれば小さな蝶がひらひらと舞っている。赤い花と見紛うつぶらな翅はしかし苦悶に歪んだ人の顔を割ったような模様が描かれていた。彼は疲弊した肉体を鞭打ってこの蝶の秘密を解き明かそうとした。

 蝶は決して旅人の手に捕まらなかった。尋常であれば忌避すべき鬱蒼とした悪路も厭わずに蝶の後を追っていると、突然に視界が開け、彼の前に見窄らしく崩れた教会が現れた。いつの間にか蝶は居なくなっていた。

 瓦礫の積もった入り口をくぐり教会に入ると、ところどころ煉瓦の崩れた穴から雨水の滴る屋内は薄闇に満ちており、奥には人ほどの大きさのある機械仕掛けの天使の像が鎮座していた。旅人がその表面に触れると緊張した鉄の冷たさだけがあった。鉄の天使はすっかり錆び付いており、動力を働かせたところで再び動き出すとも思えなかった。

 旅人は笑った。大きく、大きく声を上げて笑った。笑ってから泣いた。あまりにも惨めに泣いた。やがて旅人は涙と鼻水と涎を左手で乱暴に拭って教会を出た。こうして一人の巡礼者が天を仰いだ時、遠くで雷鳴が鳴った。



 雨が止み、青空には峻厳な光が満ちていた。

 旅人はこの町から旅立つ前に先日の自殺者の墓参りに来ていた。墓参りといっても、花を備えることも祈ることもしないで、ただ墓を見に来ただけだった。教会から説教の声が聞こえ始めると旅人は背を向けてその場を後にした。

 旅人は滞在している間に会った若い娘のことを思い返していた。彼は娘と約束通りに教会で会い、旅の話の続きをした。そうしていると娘は彼に薬に纏わる話はないかと庶幾い、詳しく聞くと母が都会の医師が手を尽くしても治せない難病を患っており、その病を癒す薬の手掛かりを探していると言った。

 涙を落とす娘に旅人は透明な液体の入った小瓶を手渡した。それは旅の途中で手に入れた苦しまずに死ねる毒薬であり、もし天使に会えたらこの悩ましき夢から覚めるべく胸の内に秘めていたものだった。それを受け取ると娘は旅人に礼をして教会を出て行った。彼が娘を見たのはそれが最後だった。



 旅人の身体は先日の消耗により熱病に蝕まれていた。宿で休むことをせず旅立つことに決めたのは最早この町に何の価値も見出せない為だった。しかし旅人の精神もまた、熱病により集塊となった苦悶に焼き焦がされ、黄金の光の再帰を祝する大空の音楽、歓喜にそよぐ風の軽やかな舞踏、祝詞を紡ぐ草木のさざめきの絶えざる破綻への圧力に目を見開いたまま屈するしかなかった。

 旅人は道端で買った真っ赤な柘榴に齧り付いたが、鋭い酸味を含んだ果汁が歯肉から舌に絡み、喉へ伝っていく感触は彼の現実味を混乱する精神と混濁し、覚束ない歩みを白昼の底へと誘うばかりだった。

 やがて汽車が出る時刻が近付き旅人は急いだが、途中の路地裏に入りかけた角で力なく蹲った人の姿を見付けるとその近くで立ち止まった。それは物乞いの母子だった。

 見て見ぬ振りをしようとしたが、雨のまだ乾いていない長い髪の隙間から覗く母親の肩はぞっとするほど青白く、四肢は強張ったまま微動だにせず、永遠に浸った血肉は氷のような匂いを放ちながら彫刻のように硬直していた。その表情は分からないが、旅人が後退りをすると、母親の腕の中で赤子が動いた。

 赤子は身を捩り腕の中から抜け出そうとしていた。亡骸となった母親の腕から逃れようと、赤子は全身をしならせ、オギャアオギャアと泣いていたが、己を見下ろす旅人に気付くとしわくちゃになった顔を上げ、旅人に向かって痩せた腕を伸ばした。

 旅人は叫び、駆け出した。



 再び旅人は廃墟となった教会の前に立っていた。汽車は既に駅を出ていたが、今の彼にそれを気にする余裕は無かった。

 走っているうちに靴は脱げ、着の身着のまま傷だらけとなった旅人はそれすら構わず教会の中へと入った。風がしんと凪いで、草木の擦れる音が隈取る屋内を進むと、旅人は機械仕掛けの天使の前で膝を折り、枯れた老骨が剥き出しになった両手を合わせた。

 壁の裂け目の向こう、雲の切れ間から差す幾筋もの光が一人と一体を照らす。暴かれた影が形象となり、鋼鉄で作られた天使の翼をばらばらに広げる。天へと差し出された手は彼の前に差し伸べられ、旅人はその上に自らの手を恐る恐る重ねた。



 人間は自分が造られたわけを知らず、造られたのは、
 死ぬためではないと考えています。ですが、まさに死ぬためにこそ
 貴方は人間を造られたのです、御心は正しいのです。
  Alfred Tennyson



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引用
 マタイによる福音書…第5章第3節
 雅歌…第3章第5節
 Nocturne…Charles Cros
 Prologue to Memoriam…Alfred Tennyson
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