第1話

文字数 1,825文字

 水野弓子は入口のウィンドーの外を見ていた。あと30分程すれば、このブティック内の化粧品売場の仕事が終わろうとする時刻だった。少し寒くなり、夕暮れの街の灯は橙色に滲んで見えた。
 弓子の目の前には、モカクリーム系の色調のブーツとセーター、スカート、ブレスレットがディスプレーされていた。秋を意識した色ばかりである。店内は静かだった。退屈は苦い顔をして通り過ぎて行った。
 ふいに女子大生らしき二人が立ち止まって、マニュキアの壜を物色し始めた。女の子達は二人共あまりお金の持ち合わせはなさそうだ。真ん丸で可愛い小壜が籐のカゴの中で魅惑的に山積みされている。いずれも見本だから、彼女達は色を試すために、爪に液を塗り始めた。次から次へと百花繚乱のごとく両方の手の指に塗っていく。10本の指すべてを染め分けても、まだどの色を買うのか決まらなかった。二人で、手を光にかざし、ああでもない、こうでもないと、迷っている。
 マニュキアは売場の商品の中で一番安価である。他の商品は無理でも、一人一個は買ってくれるだろうと、弓子は適当な色を二人それぞれに勧めた。
 そんな弓子達のやり取りを、大柄なOL風の女が後ろから覗いていた。弓子は、その女にも聞かせるつもりで説明を続けた。心の中では、マニュキア1本なんて売上に繋がらない、と思いつつも。
女は弓子の勧める壜を次々と手に取ってみる。しまいには、女子大生が持っている壜まで奪い取るようにした。その動作は大人しい猿という感じだった。
 弓子は改めてその女をじっと見た。
 背は172cmくらいで、髪はショートカット。ごく普通に化粧した顔で、表情にも不自然さはない。ベージュのレインコートにスカーフをのぞかせたよくある地味な服装で、どこをどう見ても真面目な中堅OLに見える。
 しかし、どこかおかしい。動作のアクセントのつけ方が微妙にずれている。
 女は、「そうねえ」とつぶやきながらマニュキアを塗り始めた。しかし、爪ではなく指に塗り始めたのである。おまけに塗りこみに熱中のあまり、前かがみになり肘で壜を引っくり返ししてしまう。あっけにとられた女子大生達は、ひそひそと囁きあいながらその場を離れてしまった。
 弓子はいささかムッとしながら、ショーケースのガラス板の上に溢れた真っ青なマニュキア液を濡れたコットンで拭き取り始めた。女は慌てたようにかすれ声で「この色ください」と言った。
 ミラクル・インディゴブルー・・・・・・・
 
それから、弓子の背後の棚に並んでいる化粧品類を指して、「あれ、何?」と尋ねた。弓子はうんざりしながらも好奇心にかられ、クレンジングフォーム、クレンジングオイル、週一回用の強力クレンザー、パック、化粧水、クリームを並べ説明を始めた。女はいちいち感に耐えたように頷き勧めを受け入れる。ついに彼女はそれらを全部買うことを承諾する。金額は合計で10万円をゆうに超えた。
 今日も投げやりに仕事を終えようとしていた弓子にとっては、思わぬ収穫となりそうだった。女も満足そうにニコニコ笑って頷いている。
 しかしその笑顔が突然崩れて、「今5千円しかないの。これ全部お取り置きしといて。明日の3時に必ず買いに来るから」と言って5千円札を寄こした。
 オ・トリオキ?
 弓子はやれやれと思いながらも、笑顔で「ハイ、わかりました」と言って、それらの商品をブランドロゴ入りの紙バッグに入れ、下のロッカーにしまった。女は弓子の顔をじっと眺めてぎこちなく笑った。弓子も女の顔を再び見つめる。こうやってもう一度よく見れば確かに女の顔の口紅はかなりずれて描いてある。笑顔にただならぬ気配があるのはこのせいか、、、と。
 女は店から出て行った。入口で女とすれ違いざま、外出していたブティックの女店員が入ってきた。彼女は女のことをチラッと見て、弓子の方へ歩いてきた。
 「あら、またあの人来てたの?」
 「あの方、よくいらっしゃるのですか?今日も随分買ってくださったのですが」
 「あー、お取り置きね。あの人、ここの洋服だって全部お取り置きなのよ。お隣の靴もいっぱい。この辺のお店の商品、ほとんどあの人のものなんじゃない。買いに来るわけないわよ。変わってるのよ。ちょっと」
 弓子はがっかりしたが、妙な興奮を覚え、不思議な好奇心が溢れてくるのを抑えきれなかった。
目の奥でインディゴブルーの青い光が点滅した。


 

 
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