一話完結

文字数 2,212文字

「ねぇ、わたし達、いつまで歩けばいいの」
「…しゃべらない方がいい。雪を甘く見るなよ。冷たくなった口に少しでも雪が入ってみろ。熱い感覚がしたあと、ヒリヒリ痛みだす。口いっぱいに雪でも入れたら…ありゃ、思いだしたくもねぇ」
「もう、無理よ」
「いいから…黙って後を追ってこい」
 ざっざ、ざっざ。底に積もった雪を踏む足音があたりに響く。ざっざ、ざっざ。一定の速度で、一定の音色で。
「…あのさ」
「しゃべるなって言ったろ」
 ざっざ、ざっざ。街灯の光だけが微かに光って見える。それ以外、何も見えない。前も後ろも。手元ですらもおぼつかない。
「聞こえる?ねぇ、聞こえる?」
「頼むから、止めてくれ。苦しむのは自分なんだぞ」
「いやよ、だって、あなたの声が聞こえなくなったら、わたし、わたし、苦してたまらないの」
「我慢しろ。なぁ頼む」
「お願い、聞かせて、せめて、最後まで」
 ざっざ、ざ…ざ。
「おい、聞こえるか。どうした。歩いてるか?聞こえない。お前の足音が聞こえないぞ」
 ざ…ざ…。…さ。
「おい、おい、どうした。どうした。返事を、返事をしてくれ」
 ざざざ、ざざざ。
「おい、大丈夫か。しっかりしてくれ。おい、おい」
「あなた…腹減ったでしょ。そうでしょう」
「どうした、待ってろ。いや、ダメだ。いまは歩くんだ。立ち止まるな。進まなくなったら、本当におしまいなんだ」
「あなた…疲れたよね。お願いがあるの。わたし、今までお願いしなかったでしょ。だから…」
「やめろ、やめろ。一緒に過ごすんだろ」
「きっと天罰なのよ。あなたの…そして、わたしの」
「違う、違う」
「逆らったから…ね。神様がバツを与えたのよ。わたしたちの洞窟。真っ白な壁が作られちゃった」
「寒いんだろ。なぁ、そうだろ。だからしゃべるなって。耐えろよ、いま温めてやる」
 柔らかい雪が彼らの顔に当たる。吹雪の叫びが周りを飲みこむ。動物の影すら映らない。花すら咲かない。
「どうだ。あったまったか」
「ツンツンする。あなたの毛、ツンツンする」
「そうか、痛かったか。すまんな、すまんな」
「お願い…聞いてくれる気になった」
「ならない。なるもんか」
「そう、でもいいの。話させて」
「いやだ、いやだ」
「お願い、わたしを食べて。そうすれば、ねぇ、あなたはきっと生き残る」
「いやだ、いやだ」
「ダメ、このままだとお互い死んじゃう。見てよ、わたし、もう動けないの。動けないのよ」
「いやだ、いやだ」
「わがまま…わがままよ」
「そんな俺を受け入れたのが、お前だけだったじゃないか。ダメだ、ダメだ。歩くんだ。きっとある。また俺らの家が見つかるに決まってる」
「聞いて、ねぇ叶えて、わたしのお願い。ねぇ、生きて、生きて」
「いやだ、おれらだ。おれらで生きるんだ」
 吹雪の凍てつく音。昼なのか、夜なのか、それすら分からない。それほどの厚い雲に覆われた大地は白一色に染め上げられている。木も、街も、空も、そして彼らも。
「ねぇ、今、お腹を鳴らしたでしょ。ふふ、聴こえた。聴こえたわ」
「…。鳴らしてない。鳴らしてない」
「もう、嘘ね」
「今まで、お前に嘘をついたことがあったか」
「なかったわね。今までは」
「これからもだ」
「もう、限界なんでしょう。いっしょね。わたしもよ」
「これからもいっしょだから、だから、歩こう」
「噛んで、ねぇ、わたしを噛んで」
「ダメだ。それはいけない。分かってるだろ。俺は…。噛んだら、もう、ダメだ。本当にお前のことを食っちまうことになる」
「いいの、それなら、それでいいの。痛くないわ。きっと、あなたになら、それすら…」
「歩こう、歩こう。今度は寄り添って、もっとゆっくり」
「さむいわ、さむいわ」
「温めよう。もっと体を寄り添って」
「立たないで、立たないで、さむい、さむいわ」
「歩かなきゃ。ほら、雪が体に溜まってる。歩かなきゃ雪は積もる一方だ」
 ざ…ざ。ざ、ざ。ざっざ、ざっざ。
「そう、いいよ。歩こう、歩こう」
 ざっざ、ざっざ。
「ほら、もう少し、もう少し」
 ざっざ、ざ…ざ。
「歩いて、歩いて」
 ざ…ざ。ざ…。
「ダメだ、ダメだ、いや、いやだ、ほら、歩こう、目を開けて。ねぇ、ほら、あった。あったよ。見えたんだ。俺らの家、見えたんだ。すぐそこ。すぐそこに俺らの家がある。暖かい。オレンジの光に包まれてて。湯気も見える。きっと温泉だ。だから、だから、ほら、歩こう、歩こう」


 翌日、快晴の朝。道の真ん中で一匹のオオカミとウサギが死んでいるのを発見した。真っ白なウサギと、灰色のオオカミであった。ウサギは右前足と左後ろ足が前に出されるように固まっており、それはまるで歩こうともがいているように見えた。オオカミはそのウサギの体を四方に囲むように丸まっていた。ウサギが見えなくなるほど深く、荒れ狂う雪を遮るように。オオカミの口の中には鋭い歯が隠れるほど大量の雪が詰め込まれていた。ウサギとオオカミの前方には、雪の小さな壁ができていた。その高さはウサギの体とオオカミの顔の長さを足したほどである。よく観察すると、ウサギの首筋に、小さな噛み傷があった。小さな、小さな噛み傷。皮膚から白い毛に滲む血はまるでなく、周りの雪も赤く染まっていない。オオカミとウサギを引き離そうと力を入れても、お互いにピクリとも動かなかった。オオカミとウサギ、お互いはくっついて離れなかった。お互いの体温で解けた雪が朝の寒さで氷となり、それが接着剤のように、二匹を固く結びつづけていた。
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