第14話 ヤキモチ

文字数 6,395文字

政夫がいなくなって三年が経った。
 三年間で変わった事といえば、政夫の物が少しずつ家から消えていった事くらいで、チャ子は相変わらず、チャ子のままだった。
 ただ、花子と恵子にとっては、それが何よりの救いだった。
 三回忌の法要のため、妹の愛優美が5年振りにドイツから帰国することになった。愛優美は、優秀な臨床医で、チャ子の自尊心の高さを、唯一、保ってくれる貴重な存在だった。
 久し振りに会う、自慢の娘の帰郷にチャ子は胸を躍らせていた。
 こんな時の花子と恵子は、愛優美の存在を神に感謝するのだ。愛優美は、いくつになっても、二人にとっては救世主だった。
 政夫が死んでからのチャ子は常に戦闘態勢にいた。女所帯を世間から軽視される事を忌み嫌ったからだ。二人が、どれだけ宥めすかしても、チャ子の戦闘態勢がおさまることはなかった。
 
 愛優美が自宅に帰ったその日、政夫が亡くなってから一滴もアルコール類を口にしなかったチャ子が、冷蔵庫からビールを五本出してきた。うち一本を、政夫の遺影が置いてある仏壇に供えた。
 「お父ちゃん、一本だけやで」
 そう言ったチャ子の顔は柔和で優しかった。そして、テーブルに着くと、
 「愛優美ちゃん、お帰り」
 そう言って、チャ子は三年振りの缶ビールに口をつけた。
 「お母ちゃん、お父ちゃんのお葬式に帰ってこれなくて、ごめんなさい」
 愛優美はチャ子に深々と頭を下げると、
 「そんなん、気にせんでもえぇんよ。あんたは、大事な研究の発表があったんやさかい。お父ちゃんかて、仕事を優先してほしかったと思うで。お陰で、あんたが見つけた、ほれ、なんや、お母ちゃんには難しくて分からんけど、それで目の見えん人が見えるようになるんやから、お父ちゃんも草葉の陰で喜んではるわぁ!」
 愛優美は優秀な眼科医で、彼女の研究は世界から賞賛され、恵子と花子も、一回り以上も下の妹を仰ぎ見ていた。
 「あれやなぁ、あゆちゃんは、ほんま、一家の希望の星やわぁ」
 恵子と花子は、子どもの頃から、不思議と愛優美を呼び捨てにした事がなかった。殿上人のような妹を呼び捨てにする事は烏滸がましいと感じていたのだ。けれど、それは純粋なもので、妬ましい気持ちなど一切なかった。
 「お姉ちゃん達がいてくれてるから、私は研究に没頭できてます。ほんまに感謝してんねん。ありがとう。お母ちゃんをドイツに呼ぼうかとも思うたんやけど、やっぱり、お父ちゃんがいてはる、この家が一番えぇんかなぁと思ったん。お母ちゃんの事、よろしくお願いします」

 「何を言うてぇんの。この二人、特に花子に至っては、変わらず手が、かかんねぇん!家の事はせぇへんし、結婚はおろか、彼氏もおれへんありさまや。いっこうに、お母ちゃんの気が休まらへんわっ!早よ、一人暮らしして楽になりたいわぁ」
 
「でも、お母ちゃん、楽しそうやねぇ。安心した」
 「何を言うてんの、恵子はさて置き、花子に至っては、小さい時のまんまやで。ほんま、子供の頃に、手がかかる人間は、大人になっても一緒やわ。困ったもんや!」

 チャ子は呆れた顔で花子を見た。
 けれど、その後、一瞬見せたチャ子の顔がほころんでいた事を愛優美は見逃さなかった。
非の打ち所のない愛優美だったが、花子という人間に一目を置いていた。
ポジティブというには軽易過ぎて、愛優美は言葉が見つからなかった。けれど、花子の他者に力を与える、本有的な資質を愛優美は羨ましく感じていた。
 本当に必要な人間とは、萎れている人に、プネウマを与えられる人の事をいうのだと、愛優美は常々思っていた。相変わらず母親に子供扱いされ、叱咤されている花子を見て愛優美はプネウマそのものの花子を崇めながら見ていた。
 三回忌の法要を終え、愛優美は再びドイツに戻って行った。
 空港で愛優美を見送った後、珍しくチャ子が、子どもの頃に行った、デパートのレストランで昼食を食べようと言った。恵子と花子は久しぶりのレストランに心が躍った。
 20年以上経った今も、デパートの中はハイソなご婦人方でごった返し、香水や高級な化粧品の匂いが充満していた。三人がエスカレータを上がって行くと、
 「あっ、あの人!」
  花子は突然大声で言った。
 「なんやの!大声で恥ずかしい」
 「なぁ、お母ちゃんも、お姉ちゃんもあの人覚えてへん?」
 花子がそう言って人差し指を曲げながら、エレベータ脇に立っている女性を指差した。
 チャ子と恵子は、花子が指す方向に目をやると、しばらく記憶をたどるように黙り込んだ。
三人がエスカレーターの天辺に着いた直後、恵子が大声で、
 「あぁ!ランドセル売り場の!」
 「そうやよなぁ!やっぱり、あの人やよなぁ、お姉ちゃん!」
 「まだ、このデパートにいはったんやなぁ。せぇやけど、なんや、出世したみたいやなぁ。そんな感じせぇへん?」
 「ほんまや。なんや、偉そうやなぁ」
 花子がそう言って、彼女を凝視した。
すると、視線に気づいた彼女が三人に目をやると、驚いた表情で花子達の方へと小走りで向かってきた。
 「なんや、こっちに向かって来てはらへぇん?」

 「ほんまや」

ランドセル売り場にいた彼女は、息を切らせて三人の前に立つと、
 「ごぶさたしております。お元気そうで」
 そう言って、深々と頭を下げた。
 三人は驚いた。28年前、花子がランドセルを買いに分不相応な、このデパートに足を運んだ事を、この女性は覚えていたのだ。
 「こんなに立派にならはってぇ。あんなに小さな女の子でしたのに。なんや、懐かしいです」
 立派になったのは、あなたの方です。花子は心の中でそう呟いていた。なぜなら、彼女の胸元の名札には、ジェネラルマネージャーと書かれてあったからだ。
 あの時、ランドセル売り場にいた彼女は、長い年月を経て出世していた。あの時よりも年をとったにもかかわらず、彼女は当時よりも若々しく美しかった。
 人は、認められると、こんなにもキラキラするものだと、花子は初めて知った。
 「こんなにたくさんのお客さんがいてはるのに、おたくさん、よう私らみたいな平凡な客を覚えてはりましたなぁ」
 チャ子がそう言うと、彼女は意外な事を言った。
 「それはもう、はっきりと記憶にございます」
 「なんでですか?」
 不思議に思った恵子が彼女にたずねると、
 「ちょっとお待ち下さい」
 そう言って、売り場の裏にある、スタッフルームに駆け足で入って行った。
 花子達は、首を傾げながらも彼女が戻ってくるのをエスカレーターの横で待っていた。すると、再び息を切らせた彼女が、大事そうに両手で何かを挟みながら三人の元へ戻ってきた。
 「これなんですけど」
 彼女はそう言って、静かに二枚貝のように手の平を開いた。
 三人は驚いた。
 彼女が持ってきたものは色あせた一枚の写真だった。そして、更に驚いた事に、その写真に写っていたのは確かに28年前の政夫だった。そして、その横には、見た事のない美人が寄り添って写っていた。
 「ご主人様です。お懐かしい。お元気でいらっしゃいますか?」
 彼女は、屈託のない笑顔で、チャ子にそう尋ねてきた。
 恵子と花子は恐る恐るチャ子を見た。案の定、チャ子は高笑いをしていた。
 チャ子が、高笑いをする時は、十中八九、激昂している時だけだ。二人はそれを嫌と言う程わかっていた。
 そして、その高笑いが成層圏を超えた時、花子と恵子は背筋が凍った。
 「あら、懐かしい。今は、お互い歳をとって、見るも無残やけどねぇ」
 チャ子はそう言って再び高笑いをした。
 それを聞いた、恵子と花子は少し驚いた。
 「お母ちゃん、知ってる人なん?」
 花子がチャ子に尋ねると、
 「当たり前やわぁ。お友達やし」
 チャ子の表情は、確実に引きつっていた。そんなチャ子の燃え盛った火に、彼女は再び油を注いだのだ。
 「マキさんは、奥様のご友人なんですねぇ。通りで旦那様とお親しい感じでした。奥様達がランドセルをお求めになられた一時間後に、お二人でお見えになられて、お嬢様のブラウスを、マキさんが買って下さいました。お名前が同じでいらしたので、お尋ねしましたら、1時間前にランドセルを買っていったのは娘達だとおっしゃって。子供のものを買った事がないからと、旦那様が、マキさんに選んで貰うとおっしゃって。ですけど、凄いですねぇ、マキさんとご友人やなんてぇ。今でも、お綺麗で、ご活躍されてはりますもんねぇ。ところで、ご主人はお元気ですか?」
 豆を巻くようにそう言った彼女に、チャ子が左側の口角を引きつらせながらこう返した。
 「うちの、死にましたわ」
 今度は、それを聞いた彼女の右側の口角が引きつっていた。
 おそらく、今初めて自分が客の地雷を踏んだ事に気が付いたのだろう。彼女は、取り繕う様に、
 「そうでしたか。お寂しくなりはりましたなぁ。御愁傷様です」
 彼女が言った愁傷様が、再びチャ子の地雷を踏んだ。
 ご愁傷様。
 嫉妬で心火している今のチャ子にその言葉は決して慰める言葉には聞こえていなかった。
 彼女もそんなチャ子の心情を察したのか、空笑いをしながら、無責任に立ち去った。
 花子はそのブラウスをはっきりと覚えていた。襟元には上品な花柄が刺繍されていて、シルク製のいかにも値が張る物だと子供ながらに分かった。
 しかも、普段は子供の事など、一切、チャ子に任せ、家を空けていた政夫が入学祝いだと買ってきたものだから、花子は鮮明に覚えていた。
 ましてや、中年の男が選ぶにはセンスが良すぎた。
 三人は、その写真を見せられて、28年ぶりの謎が解けた。あの、高級ブラウスは、マキさんが選んだのだ。
 マキさんが誰かを知らない花子と恵子はチャ子に尋ねてみたいという気持ちでいっぱいだったが、大人になった二人はあえて聞く事をしなかった。
 父の浮気相手。
 おそらく、そういう事なのだろうと、二人は瞬時に悟ったからだ。けれど、当事者がいない今となっては事実を各員する術もなく、渋面と無言をつらぬいている母親の見栄を知ると、寝た子を起こして去って行った彼女を怨んだ
 そして、チャ子は無言でエスカレーターに乗り、レストランがある8階を目指した。
 花子と恵子は、チャ子との距離を詰めようと小走りでついて行った。
 8階にあるレストランの外観は様変わりをし、イタリアンレストラン風になっていて、花子は少々、落胆したが、窓から見えるテーブルの配置が変わっていない事を確認すると、少し嬉しかった。
 あれだけ早く、大人になりたいと思っていたが、いざ、なってみると、子供の頃の気楽さと純粋さと、楽しい事を楽しいと思えたあの時代が、花子は懐かしく感じていた。
 同時に花子は、何もかも便利になった味気ない今の時代を、卑小に感じた。
 偶然にも、二十八年前と同じテーブルが空いていて、三人は暗の了解の様にその席についた。けれど、どれだけ待っても、ウエトレスが来る気配がなく、機嫌を損ねたチャ子が大声で、
 「すみません!ちょっと」
 そう言って、ウエトレスに手招きをした。
 すると、ホールスタッフ松本と名札に書かれた女性が近づいてきた。
 ホールスタッフ。
 花子は、その名札を見て再び寂しい気持ちになった。彼女は、白いまいかけ姿でもなければ、頭の上のフリフリのレースのカチューシャもしていなかった。
 味気ない、白と黒のベストにズボンを着用し、低い声でこう言った。
 「御用の時は、そちらのボタンを押してください。後、お水はセルフとなっておりますので」
 「なんや、最近はサービスが薄なりましたなぁ。味気ない時代になったもんやわぁ」
 嫌味混じりにそう言ったチャ子は水を取りに席を立った際、握りしめていたシワの寄った写真をテーブルの上に無造作に置いた。
 それを見たホールスタッフの松本が、
 「あらぁ、マキ揚羽さんやないですかぁ」
 突然そう言って写真を食い入る様に見た。
 「知り合いの方ですか?」
 恵子が思わず聞くと、チャ子の口元が更に歪んだ。同じ場所で、赤の他人に二度も不愉快な思いをさせられるとは、さすがのチャ子も想定外だったのだろう。
 「すみません、勝手にお写真を見てしまって。でも、ほんまに綺麗ですねぇ。男の人やのに」
 松本は苦笑した。
 「えっ?この人、男、なんですか?」
 そう言った花子は写真の中のマキさんを指差した。
  水を取りに行こうと席を立ったチャ子も、着席した。
 「男って。この人、男の人なんですか?」
 恵子も信じがたい様子で聞き返した。
 「そうですよぉ。あら、お客さんはマキさん知らんのですか?有名ですやぁん。歳いっても綺麗ですわなぁ。昔は偏見の目で見られてはりましたけど、今は普通ですもん。えぇ、時代になりましたわぁー、そういう人達も受け入れられてねぇ、なんでしたっけ?ジェン?ジェンなんたら言うてねぇー」
 「ジェンダー。ですねぇ」
 恵子が言うと、
 「そう、それです!あらっ、すんません。ついついお喋りしてしもうてぇ。メニューはお決まりですか?」
 そう言うと、松本はポケットから、伝票とボールペンを取り出した。
 花子と恵子はおもわずチャ子の方に顔を向けた。なぜなら、虎の尾をふみたくなかったからだ。
 「えぇよ。好きなもん、なんでも頼みなさい」
 二人は驚倒した。
 「えぇの?」
 「当たり前やぁ。何を気ぃ使ってんの、貧乏臭い!」
 「ほんまに、えぇの?」
 今度は、花子が聞くと、
 「しつこいで」
 チャ子の声が怒りに変わっていた。二人は、これ以上、寝た子を起こさないように謙虚な態度でメニュー表を広げ、二人同時にこう言った。
 「オムライス下さい!」
 松本は少々驚いていたが、かしこまりました。と、頭を下げ、伝票に書き込んだ。けれど、松本の口角は少しだけ上がっていた。おそらく、だいの大人が同時に、ましてや子供が頼むようなメニューを選ぶとは想定外で滑稽だったのだろう。
 「お客様は?どうされますか?」
 店員がチャ子に聞くと、
 「私もオムライスで。それと、クリームソーダ三つ。一緒に持ってきて下さい」
 「かしこまりました」
 松本は伝票にクリームソーダと書き込むと、ポケットに差し込み、傍にメニュー表を挟んでテーブルを離れた。
 恵子と花子が、一瞬思考が止まったような顔をしていると、
 「なんやねぇん、あんたら。アホみたいな顔をしてからに」
 「せぇやかて」
 恵子は言葉を詰まらせ、花子も疑いの眼でチャ子を疑望していた。
 「あんたら、お母ちゃんをなんや思うてぇんの。あんたら、子供の時と違うのやさかい」
 「お母ちゃん、怒ってへんの?お父ちゃんの事?」
 花子は大胆にもチャ子に尋ねると、それを聞いた恵子の顔はこわばった。
 何も今、聞かんでも。そんな顔をしていた。
 「あぁ、あれなぁ!あれ、思い出したわっ!お父ちゃんがなぁ、温泉業界のパーティーに呼ばれた時に、ゲストとして呼ばれてはった人やった!あの人、マキ揚羽(アゲハ)さん、言うて、タレントさんなんよ。お父ちゃんがマキさんに、娘が小学校に入学する言うたら、何かお祝いします。言ってくれはって。それで、あんたのブラウス買いに、あのデパートに行ったのやぁ。うっかり、忘れとったわぁ。あんな写真を突然見せられて、お母ちゃんもびっくりしたもんやさかい。私も、ボケてきたんやろうかぁ」
 チャ子は、忸怩たる思いで一杯だったのだろう、顔面を引きつらせ苦笑した。
 三人は、政夫が色毎に全く興味がないと、高を括っていただけに、僅かでも政夫を疑った事を恥じていた。
 しかしながら、花子は思っていた。男と分かっておきながら、眉が垂れている、写真の中の父親に呆れつつ、死んでまで女房にヤキモチを焼かれる亭主を羨ましく思った。
 同時に、肉体がなくなっても、魂は相手に宿る事を花子は切に感じていた。
 
 
 
 
 
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