第1話

文字数 5,325文字

「新作のクッキー美味しかったよ、また来るわ。」
 上機嫌に常連のお婆さんは言った。
 ここは小さなテナントを改装してオープンした隠れ家的なカフェである。店の名をカフェこもれびという。
「おじいちゃん新作のクッキー好評だったね。」
「ああ、チョコレートと紅茶をブレンドしたクッキーはほんのり甘さ控えめでコクのある味に仕上がったからね。お客さんに受け入れてもらえておじいちゃんも嬉しいよ。」
 日下部陽和(ひさかべひより)は、祖父が営むカフェこもれびで3年前から働いている。2年程前までは、事務員として働きつつ退勤後はいつも祖父のお手伝いとして参加していたが、人員不足と閉店の危機を耳にした陽和は事務職を辞め、今はフリーターとしてこの店に勤務している。
陽和の努力によって閉店の危機は免れ、二人で新作のメニューの開発に力を入れるなど、充実した日々を送っていた。彼女はそう思っていた。

 とある日。
「陽和。実はなこの店をもう閉じようと思うんだ。」
想像もしていない、いや自分が今後1番耳にしたくなったセリフだろうか。祖父の言葉は一言も陽和の耳に入ってこない。突然のことに呆然と立ち尽くしながらも
「どうして。」
 とポツリと呟いた。
「お客さんも安定しているし売上的にも何も問題もない。ただあの味を今後も継続できるかと言われれば難しい。おじいちゃんもう歳だろう。だから...」
 祖父の言葉を遮るように陽和は言った。
「味なら私が受け継ぐ。ちゃんと練習して、何度も作れば私にも...」
「そうじゃないんだよ、陽和。陽和はおじいちゃんの為に毎日よく頑張ってくれた。けれど陽和には新たな夢を追って欲しいんだ。」
 祖父は密かに気づいていた。陽和が広告デザインの企画に向け企画書を応募していることに。彼女はカフェで働いていく中でたくさんのお客さんの笑顔に出会い、お客さんの喜びをどうしたら見つけられるか考えてきた。その1つがチラシだった。得意のイラストを合わせたチラシは多くのお客さんの目に留まりより、多くの笑顔と喜びを生んだ。彼女の中で、人を喜ばせることができる広告デザイナーという仕事に興味を持ち始めていた。
「おじいちゃん……」
 陽和は素直にうんと頷くことは出来ず、何も不備のない今を変えることを陽和は拒んだ。
 なぜならこの店を閉じてしまえばいずれお客さんやみんな忘れてしまうかもしれない。カフェこもれびが皆の記憶から遠のいていくかもしれない。
 陽和は静かにあの日を思い出す。

ーーー

 3ヶ月程前、野々萌佳(ののもえか)という女性がカフェこもれびで働いていた。陽和の2個年上と年齢も近く何事にもストイックでしっかりしており、陽和にとっても正に憧れの女性である。立場上は陽和が先輩なのだがそんなのは関係ない。彼女にとっては萌佳が先輩でありまた萌佳自身も陽和を実の妹のように可愛がっていた。こもれびの営業が終わったあとも今日あった出来事やたわいも無い日常会話をするのが二人にとって楽しい時間であった。
 しかし・・・
 「陽和、実はねこの間話していた彼と結婚することになったの。それでね・・・。」
萌佳さんに素敵な相手がいて近々結婚するかもしれないというのは二人の会話のなかでよく話題に出ていた。憧れの存在の幸せは私にとっても幸せだ。だから、実際に結婚することが決まり彼女からそのことが聞けて心の底から喜んだ。ほんの数秒の間だけ。
 「彼の仕事の都合でね、東京に引っ越そうと思って。」
 カフェこもれびがあるのは奈良県。引越し先は気軽に会える距離では無い。萌佳の表情はやや曇りを見せたまま陽和をみつめる。萌佳さんのこんな表情は見たことがないと陽和は思った。と同時に喜ばしい報告なはずなのに素直に喜べない自分と、ここに居て欲しいという言葉はより彼女の表情を曇らせると考えた陽和は、
「結婚おめでとうございます。素敵な報告が聞けて嬉しいです。東京はここからかなり遠いですが、萌佳さんならきっと頑張っていけます。」
 口から出た言葉は半分本音で半分嘘が入り交じっていると言ったところだろうか。
「陽和ちゃんならそう言ってくれると思ってた。ありがとう。嬉しいな。」
 少しだけ萌佳さんの表情に明るさが戻った。萌佳さんが求めていた返事が出来たかはわからない。
 
 陽和はその後自宅の自室に戻ると静かに涙を流した。
 当たり前だと感じていた日常はあたりまえではない。出会いがあればいつか必ず別れも来る。それを身をもって実感した。萌佳さんのいないこの先への不安を感じる一方でふと自身のこれからについて頭に浮かんだ。
 (私もいずれ結婚してこの街から・・・このカフェから遠ざかっていくのだろうか。そうしたらこのカフェはどうなる?みんな忘れてしまう?)
 様々な不安が頭から離れない。1人頭を抱え込んでいると陽和のスマートフォンから通知音がなる。スマートフォンに目を向けると萌佳さんからメッセージが届いていた。
「いま少し電話で話せるかな?」
 萌佳さんから電話の提案をするのは珍しい。いつもならもう寝ているはずの時間なのに。だが、陽和は躊躇うことなく「大丈夫です。私から掛けますね。」と返事をし、そのまま通話ボタンを押した。数秒の間の後、萌佳の問いかける声が聞こえた。
「もしもし。夜遅くにごめんね。」
「大丈夫ですよ。何かありましたか?」
「今日は気を遣わせた返事をさせてしまって申し訳ないなと思って。私ね本当は結婚してもここに残るはずだったの。」
 萌佳は彼から結婚しようと告げられた際の出来事を話し始めた。彼もこの町出身で勤務先も県内のため萌佳は結婚してもカフェこもれびで働きながら人生を歩んでいくと思っていた。しかし、彼の転勤が決まり別々に暮らすよりは一緒にいたいという思いもあり結婚を決意、これが結婚を告げる良い機会だと思ったという。突然の告白に萌佳は戸惑うも彼も悩んだ上で私と人生を共にしたいと思ってくれたことが嬉しかった。カフェこもれびで働き続けるか、東京に共に行くのか天秤にかけることとなったが、これから先を思い浮かべた時、率直に浮かんだのは彼との家族との生活であり、そこにカフェこもれびとしての萌佳はいなかった。どちらの選択も切り捨てたくはなく、出来ることならどちらも取りたいがそう上手くは許されない。決めなければならなかった。
「今凄く後悔してるの。結婚=幸せとしか考えていなかったからこんなにも悩んでしまうものなんだって。」
 カフェこもれびから去ってしまうことへの罪悪感と後悔が萌佳の心の奥でへばりつく。
「私がまだ入りたての頃約束したのにね。みんなでこもれびを盛り上げようって。そこには萌佳さんにも居て欲しいって言ってくれたのに。」
 ぽつりぽつりと萌佳の口から出てくる言葉は重く陽和にも突き刺さっていく。陽和は自身の言葉が萌佳さんの未来の邪魔をしてしまっているのではと考えてしまい、萌佳の一方的な声だけが陽和のスマートフォンの通話口から響き渡る。どう返事をしたらいいのかわからない。そんなことは無い萌佳さんは萌佳さんの人生を歩んで欲しい。簡単なセリフが喉奥で詰まって言えない。
「私は萌佳さんがいなくても平気です。言ったはずです。安心して東京に行ってください。」
 まただ。息をするように嘘をつく。これではこもれびにもう萌佳さんは必要ないと言っているみたいで、でもこうでも言わないと萌佳さんに安心して次に進んでもらえないと思った。
「良かった。陽和がきっぱり言ってくれたお陰で東京に行く決意ができた。」
 安堵した萌佳さんの声が伝わった。
「こもれびを頼んだよ。これからあまり顔を出せないけれどまたこっちに戻ってきたときは必ずこもれびに行くわ。」
 萌佳さんと陽和はまた会おうと約束した。陽和は思った。もう二度と会えないわけではない。こもれびは私と彼女を繋ぎ合わせてくれた縁のある場所だ。再会した時に思い出話に花を咲かせればいい。これで終わりでは無い。
 通話終了のボタンを押す頃には二人の心は晴れ晴れとしていた。

 あれから数日後。
 萌佳さんは彼と共に東京へと旅立った。当日朝早くこもれびで陽和は彼女とお別れの挨拶を交わしていた。彼女の目は赤く腫れ上がるほど涙を流し別れを惜しんでいた。
「別れじゃないですよ。きっとまた会えます。ここカフェこもれびで。」
「そうだね。またね、陽和。」
 だんだんと遠のいていく彼女の背中を見つめながら陽和はこもれびへと戻っていく。

ーーー
 
 萌佳さんとの思い出に胸を馳せ、改めて祖父の言葉が頭を過ぎる。
「陽和。実はなこの店をもう閉じようと思うんだ。」
明日もう一度考えを改め直すように提案しようと自分に言い聞かせ寝床へ向かうも頭の中でそれはすんなりと受け入れを拒んだ。ベットに寝転ぶなりふとテーブルに置いてあったチラシが視界に入る。
 (広告デザイン募集のお知らせか・・・そう言えば興味本位で手に取ったけな)
 あの時は何も考えずに手に取ったチラシ。興味本位で取ったものの捨てようかと思えば気が進まない。捨てたくないという答えだった。そして気づく。自分の中で気持ちに変化が現れていることに。
 萌佳さんがこもれびを去ってから縁や繋がりについてより意識するようになり誰かにとって縁のある場所でありお客さんとお客さんを繋ぐカフェにしようという新たな思いも芽生えていた。けれど、祖父から閉店の意思を聞いて以来、より広告デザイナーについて意識するようになり、無意識だったものが、確実に夢であると気付かされる。
 (私は今あの頃の萌佳さんのように選択をしなければならない時が来ているのでは。)
今になってより萌佳さんの気持ちがわかる気がした。どちらも好きだから幸せだからこそ選ぶ辛さが痛烈に突き刺さる。心のどこかで祖父が閉店と口にしてくれたことに安堵している自分がいるも萌佳さんとの約束はどうなると思い始めた。萌佳さんが帰ってきたときこもれびがなかったらどう思うだろうか。思いを託され私は薄情者だと思われるだろうか。

 モヤモヤと葛藤したまま翌朝を迎える。
 祖父と改めて話し合うことにした。
カフェこもれびを忘れないで欲しいという気持ちと今度は自分がこもれびよりも新たな夢を追いたいと思い始めていることを全てを話した。
「陽和、思っていることを全て話してくれてありがとう。おじいちゃんこそごめんな。いつしか陽和とこもれびを続けていくことが楽しくて、でもそれはずっとではないと思っていた。陽和が新たな夢を見つけようとしているのにその壁になるのが嫌でね。突然閉店すると言ってしまって。」
祖父は思いを続けて語りかける。
「こもれびは縁を繋ぐ場所にしたいと以前言っていたね。例えここを閉じても終わりでは無い。思い出の中でこれからに繋がって存在していく。」
その言葉に陽和は広告デザイナーという夢も原点はこもれびの存在のおかげだと思い出す。気持ちの変化に恐れ閉店することすなわち裏切りであり忘れることだと勝手に思い込んでいたがそうではない。萌佳さんには自分からきちんと伝えれば分かってくれるはずだ。それに・・・
「私、広告デザイナーという夢を叶えたらいつか自分のお店を建てます。その名前はこもれびで。」
カフェこもれびはひとつの区切りを迎えるが、終わりでは無い。形を変え受け継がれていく。今全てを選ばなくてもいい。一つ一つ向き合って進んでいけばいい。夢は変わっていくも根底にある誰かを笑顔にしたい、人と人を繋ぎた思いは同じである。
「陽和ならきっとできるよ。」
 祖父の温かく優しい言葉は彼女の背中をそっと押した。


 ーーーーー

「私はこのコンセプトに対して次のような広告デザインを考えました。」
 緊張感ある会議室の中で一人の女性がパワーポイントを手馴れた様子で操作しながらチラシのデザインをプレゼンしている。会議が終えるとすっと緊張が抜けた様子でオフィスを後にする。
 (手応えはあったかな。企画上手く通りますように。)
 目をぎゅっと閉じ心の中で願う陽和の姿があった。
 カフェこもれびが閉店してから5年の月日が経った。陽和は数々の試練を乗り越え、閉店から2年後に広告デザイナーの夢を勝ち取り今では様々な仕事をこなす日々を送っている。
 仕事終わり陽和は行きつけのクッキー屋さんへと向かう。行きつけだけあって店員さんともお互い顔見知りだ。
「日下部さん。」
「多崎さんこんばんは。」
 多崎円(たざきまどか)さんは旦那さんと二人でこのクッキー屋さんを切り盛りしている。二人のアイデアは素敵で味も美味しい。
「多崎さんの作るクッキーは美味しいです。」
 「そう言っていただけて本当に嬉しいです。お客さんの笑顔を見るのが私たちの幸せですから。こうして日下部さんと出会えたのも不思議な縁ですね。」
「そうですね。」
 陽和は満面の笑顔を覗かせた。自宅へ帰宅する途中、一件の通知音が鳴る。
 (萌佳さんからだ。今度こっちに戻ってくるんだ。嬉しいな。話したいことがたくさんあるな。)

 5年ぶりの再会に胸を鳴らしながら、陽和は明日も前に進み始める。こもれびにまたお客さんの笑顔が戻る日を夢みて。


 

 
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