第1話

文字数 1,985文字

 これは家族のためなんだぞ、ほかの成金志望とは違うじゃないか――。
 そんな願いも聞き入られることなく、株価はまっすぐに落ちていった。オレはいつも運がない。最近元気を感じるときがないし、常になにか重たいものがまとわりついているようだ。株価が落っこちている間。オレは自分の中の声を聞いた。邪気を払えと。
 だから盛り塩を置いてみた。
 アリがたかっている。
 あら塩にしたのに粒の大きさが全然違う。妻に尋ねると、息子がうっかり崩したのを誤魔化した際に砂糖と間違えたという。息子から話を聞くと、あっさり認めて謝った。このくらい子供にはよくあることだ。次からは正直に言えと軽く伝えて終わらせた。
 “盛り砂糖”については当然処分しようと思っていたのだが、息子が、巣から“盛り砂糖”に向かうアリの行列を見て、その姿に興味を持ったので、そのままにしてほしいと頼んできた。最初は断っていたが、妻も入って二人がかりで説得された。何かに興味を持った息子の気持ちを無下にはできず、結局残すことにした。しかし家の玄関先に放置するのは見栄えが悪いので、家から離れた物置の軒下に残すことで決着した。移動させて一日も経つと、アリたちは餌場と巣とのルートを変え、新しい黒い道ができていた。それを見て息子はなおさら面白がった。
 毎日飽きもせずアリの観察を続けていた息子は観察日記をつけ始めた。夏休みはまだだというのに、自由研究のテーマにすると言う。オレに比べてしっかり者だ。いまどきの子供は、一日中YouTubeに釘付けだとか、ゲームを仕事にしたいからと、日がな一日ゲームに費やすとか聞いていて、息子も同じになるかという不安も少なくなかったが、そんな息子の姿を見ると不安も紛れ、誇らしい気持ちにもなった。
 アリは日増しに増えていったが、悪い気もしなくなっていた。働きアリが行列を作って、せっせと砂糖の山へ向かう様子を見ていると、なんだか胸を打つものがあるとさえ思えてきた。楽して糧を得ようなど、命あるものの本道ではないのだろう。そう感じ、仕事にも精が出た。
 息子の誕生日に、ほしがっていた虫の図鑑を買ってやった。家に帰るや真っ先にアリのページを開いた息子の姿を覚えている。アリの姿が見えない夜や、雨が降る日は夢中で図鑑を見ていた。得た知識や気になることを夕飯の食卓でひっきりなしに語ってきた。オレがそれにつけ足してやれる知識はほとんど、いや、なにひとつなかったが、疑問に対して一緒に考える時間を息子は楽しんでくれた。妻の笑顔も見られた。休日は一緒にアリを観察した。物置の周囲に花を植えた。オレに美的センスはないから、花は妻と息子が選んでくれた。植えこむときには土の柔らかさ、生き物を育てる包容力を感じた。豊かな時間だった。
 八月の某日。学校は夏休みで、その日息子は友達と虫取りに行った。週末で留守を任されたオレは“盛り砂糖”を観察した。以前と同じようにアリが集まっていたが、家からの物置まで、アリを一匹も見なかったのが気になった。砂糖の山は一面蠢く黒に覆いつくされて、まるで“盛りアリ”だ。なのに巣まで帰っていないのか?
 うじゃうじゃ蠢く黒い山の全体を眺めていると、山の下がやけにツヤを帯びている。近づいてその正体を確かめた。瞳だ。群れ全体の瞳が光を放っている。アリたちは下を見ている。瞳の先は皿のさらに下へと続いている。皿をどけてみた。
 物置の下にアリ一匹分の穴があった。アリはそこへ潜っている。下に巣をつくっているようだ。息子が誘導でもしたかなどと考えていたが、そこでハッとした。土が柔らかかったのは、下にアリの巣があるからか?
 オレは物置から家に向かって歩いた。一歩一歩踏みしめる土が柔らかく、足をとらえた。こんなところまで巣が伸びているのか?祈る気持ちで足を前にのばしていく。と、玄関前で足が沈まなくなった。どうやら家まで来てはいないらしい。
 青空が突然雲に覆われ雷鳴が聞こえると、雨が降ってきた。オレはじょうろを手に取った。
 息子が雨に降られて帰ってきた。オレは自分の部屋から玄関のドアが開く音を待ったが、しばらく音は聞こえてこなかった。
 その日の夕食で、雨で流されたアリのことを話し、妻と二人で息子を慰めた。仕方ないよ。大体そんな意味の言葉を、手を変え品を変え投げかけた。息子は頷かなかったが、妻の一言で食事を口にしてくれた。アリは現れなくなった。
 息子は相変わらず虫の図鑑を見続けている。なにを見ているか覗こうとしたが、息子はかたくなに見せようとしない。それどころかオレが家に帰ると、常に気配をうかがうようになった。根はいい子だから憎まれ口は叩かないし、オレが学校のことなど聞けばちゃんと答えてくれた。あれは仕方のないことだった。みんな納得してくれたんだ。
 オレはまた盛り塩を自分の部屋に置いた。
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