第1話

文字数 9,137文字

 全国大学対抗駅伝は、名古屋市の熱田神宮から伊勢市の伊勢神宮までの8区間106.8キロメートルで競う。
 新春の風物詩となった東京箱根往復駅伝は関東地方の大学の競技会だが、全国大学対抗駅伝は文字通りの全国の大学が対象である。
 かつては、三十里ごとに置かれた宿駅から宿駅に、手紙や物資を運ぶ人馬が業務をつないだことに由来する駅伝。いまは、若者たちが努力の絆をつなぐ。
 第七中継所で武者ぶるいしている田口博もその中の一人である。
 田口は青春の晴れ舞台にいる自分が信じられなかった。
 経済的な理由から高校進学さえ危うかった田口は、遠縁の骨折りで中学三年の後半から高校卒業まで、女子短期大学理事長の書生として過ごした。
 仕事は大学事務局での小用と夜警。
 各分野の教授たちが出入りする環境が、田口の学問への意欲を培った。
 田口は学舎の一角にある茶室に隣接する小部屋で寝起きし、朝夕食は敷地内にある女子寮の食堂で、寄宿生のお姉さんたちに面倒を見てもらっていた。
 何やら楽し気に会話しながら厨房に立つ彼女たちの姿は見目麗しく、その清々しい雰囲気が田口は好きだった。
「女の中に男が一人」の田口に対して、彼女たちは決して分け隔てることはしなかった。
 頭のよさそうな女子、容姿のいい女子、美しい声で話す女子、田口はみな好きになってしまった。
 クレヨンでひげを書き、理事長室の椅子にふんぞり返って撮った写真は、テレビをを見るために寄宿生に開放された理事長室での彼女たちのお茶目。
「ぼく、がんばって」
 そのお茶目たちが群集の中から田口に声援を送っている。
 久しぶりに聞く「ぼく」に、田口は嬉しく思いながらも、周りを気にせずにはいられなかった。
 案の定、高校時代から競い合ってきた他校のランナーたちから声がかかった。
「ぼくって、お前のこと?」
 田口はお茶目たちに目礼をしてから、他校の好奇心に返事をした。
「ああ、母親代わりの人たちだったから、いまでも、ぼく、なのかも」
 遠巻きながら、田口たちの会話を聞き留めたお茶目たちが、異口同音に暖かみのある響きで不満を漏らした。
「母親じゃないでしょ、お姉さんでしょ」
 丘の上の女子短期大学で過ごした少年時代。
 田口は感極まるのをこらえながら、優しく包み込んでくれた彼女たちに感謝していた。
 強豪校はすでに襷をつないでいた。
 田口が襷を受けたのは、それからおよそ十分経過してからだった。
 七区の筒井秀介から渡された襷に田口は、一日にして成ったわけではない仲間たちの日々が頭をよぎりとてつもない重みを感じていた。
 田口が背負った使命感と責任感、十九キロまでは快調を維持させた。
 その奮励の結晶であるゴールまであと七キロほどだった。
 伊勢神宮宇治橋の前では、襷をつないできた仲間たちが、地区予選が免除される上位八までに田口が入ることを信じて待ち受けていた。
「微妙だな」
 コーチの神谷清三は、後を追ってくる城北大学の橋本和生が持つ一万メートルの記録が、田口をやや上回っていることを懸念していた。
 田口はともすれば乱れがちになる呼吸を、規則的に保とうと、
「I win You lose」を喉元で軽快に反復していた。
(来たか)
 突然大きくなった沿道の声援と共に、右手に並んだ橋本の姿が田口の視野に入った。
 耳を澄ましたが、橋本の呼吸に乱れはなかった。
「おい」
 力強い走りで田口を一歩リードした橋本が、振り向いて田口に声をかけた。
(お先に、ですか)
 インターハイの五千メートルで抜かれたときがそうだった。
 ラスト一周の第三コーナーで、それまでトップだった田口を抜いた橋本が、田口を一瞥して残していった言葉が、「お先に」だった。
(また、得意げな顔をしているのだろうな)
 田口が橋本の方に顔を向けた。
「あっ」
 そこに見たのは、中学時代の同級生、高山英雄の姿だった。
(「お前がどうして、ここに」)
 声にならないでいると、高山がついて来いというふうに、笑顔を浮かべて顎をしゃくった。
 あの時と同じ笑顔だった。
 桜の季節、転校生だった田口に用意されたのは、高山の真後ろの席だった。
「陸上部に入らないか」
 授業中にもかかわらず、黒板に背を向けて話しかけてきた高山とすっかり打ち解けて、終礼のころには幼馴染みのような会話を交わしていた。
 一日約五千メートル、田園風景の中を駆け抜ける練習は、都会で育った田口には新鮮で、走る度に記録は伸び、部員との時計の競い合いが日日の張り合いになっていた。
 高山は文武に長けていて、陸上部のエースだった。
 そんな高山に、多くの生徒たちが畏敬の念を抱いていることを、田口は後に知った。
 外来者の田口が、速やかに級友たちに溶け込めたのは、温かい校風もさることながら、親友のように接してくれた高山の威光も、無縁ではなかったのではと田口は思っている。
 その年の夏、田口は高山と共に、中学陸上二千メートルでの県大会出場を果たした。
 稲穂競技場での力走。
 先頭に立った高山が後方の田口を振り返って、笑顔で顎をしゃくった。
 田口は必死で食らいついていって、見事、一位二位を独占した。
 そんな充実した夏休みも、残り少なくなった頃だった。
 汗だくで自転車をこいできた学級委員の大河内太一から、蝉のなく玄関先で、高山の訃報を聞かされた。
 避暑地での水難事故だった。
 高山は人生もまた、誰よりも速く走り抜けていった。
 その高山が、目の前を走っている。
 どうなっているのだ?
 おれも心臓麻痺かなんかで、あの世に来てしまったのかな。
 さっきまで、息が上がってあんなに苦しかったのに、今は妙に心地いいもんな。
 半信半疑の田口は、速度を上げて高山の背中を追った。
「城北橋本が前に出ました。抜かれはしましたが南陽田口もぴったりとついています」
 テレビ、ラジオはシード権争いを伝えている。
「たぐちぃ」
 沿道の前方から、若い女性の声援が田口の耳に届いた。
(あ、平石さん)
 声の軌跡を目で追うと、田口の視野が懐かしい顔を捉えた。
 中学を卒業してからもしばらく、近況のやりとりをしていた学級委員長だった平石光子。
 いつだったか、早朝の教室で持参した切り花を活けている彼女のうしろ姿を目にしたときから、田口の意識の中に彼女が宿った。
 才色兼備でありながら、その地味な献身が新鮮でもあり、朝陽に映えるその立ち姿は美しく、印象派の絵のようで田口は見惚れてしまった。
 友情を超えた気持ちを伝えることなく、市立図書館の中庭でさよならをしたのは、自らの家庭環境の劣等感からだった。
 石鹸メーカーの社長令嬢である平石との交際に、未来があるとは田口には思えなかったからだった。
 木漏れ日の中、付かず離れず歩を進めるとき、胸元にピアノの教則本を抱えた彼女の衣服からは、お日様のにおいがしていたことを、田口はつい昨日のことのように思い返していた。
 それにしても、彼女もあの世に来てしまったのか。
 平石からの、「たぐちぃ」の連呼を背中に、まさかだよなと、田口は不吉を頭から振り払った。
 女子に励まされると、力が湧いてくるよな。
 あの時もそうだった。
 小学校で席を同じくしていた岡本いずみは、算数の苦手だった田口を応援してくれていた。
 おかげで、中学に進んでからの初めての数学では、「負の数の演算」で迷路に入ることはなかった。
 両親の故郷に居を移すという理由で学校を去っていった岡本いずみ。
「どこに行くの?」の田口の問いに、彼女は「遠くよ」としか答えなかった。
 埠頭での見送りの日に撮った写真と、船上の彼女とつないだ紙テープは、今でも大切にしている田口だった。
 トッカータとフーガト短調。
 田口の頭にオルガンの響きが浮かんだ。
 彼女が授業の合間に、教室の片隅に置かれたオルガンで弾いていた曲である。
 応援というのは力になるよな。
 田口はあらためて感謝していた。
 これが恋人からだったら、もっと早く走れそうだな。
 こんなことなら、あの時、練習さぼってスキーに行っとけばよかったな。
 田口はぼやきながら薄命を悔やんだ。
 昨年末、田口は、スポーツセンターでアルバイトをしている学友の女子たちから、一泊二日のスキーツアーに誘われたことがあった。
 クリスマスイヴの白銀のゲレンデには、エロスが君臨していて、往路ではまだ距離のあった男女でも、帰路は寄り添う仲になっているという。
「ゴールが見えたっていうのに、なにブツブツ言ってんだ」
 前を見据えたまま、最後の頑張りに入った高山の叱咤が飛んだ。
 五十メートルほど先で、走り終えた仲間たちが、、声を振り絞って檄を飛ばしている。
 声援に引っ張られて、田口の走りに、ゴールに向かって落ちてゆくような加速がついた。
「Go!」
 前を行く高山の姿が、声と共に後ろに遠ざかっていった。
 田口が、ツバメの滑空のような爽快を味わったとき、人垣が大きくどよめいた。
 自分の体が宙を舞っている。
 田口は何が起きているのか分からなかったが、舞いながら、橋本がゴールに走りこんでくる姿を、その目でしっかりと捉えていた。
 地に足が着くと、今度は仲間の手荒い祝福が始まった。
「痛い! 痛いって」
 悲鳴を上げながら、田口は生きていることを実感していた。
「橋本に勝てたな」
 揉みあいの中で、中学からずっと一緒だった短距離の飯田健太郎が、満面に笑みを浮かべて叫んだ。
「高山が伴走してくれたんだ」
 歓声でよく聞き取れなかったのか、それとも、田口の言葉の意味を再確認したかったのか、「なんだって?」もともと甲高い飯田の声が、さらに甲走った。
「高山が伴走してくれたんだ」
 飯田に追随して、田口の声も裏返った。
 一笑に付されるような話だが、互いの気持ちが、共に汗した同じ頃を大切にしていたからだろう、「あ、うん」の呼吸が流れて、田口の思いは正確に伝わった。
「そうか、高山も走ったのか。この大会はあいつの夢だったもんな」
 飯田が思い出の中の絆に目を細めた。
 大太鼓の音が響いて、達成感の満ち溢れた校歌の合唱が始まった。
 あの間際に体感したのは何だったのだろう。
 周囲を見渡したが、高山の姿はなかった。
 田口は甘美な空想を好む人間ではなかったが、呼吸の鎮静化と共に、ごく自然に意識が中学時代に向いた。
 脳裏には、転校生の田口を温かく受け入れてくれた四十名の輝きが、レンゲ畑の紫色を背景にして浮かび上がってきた。
 気が合っても合わなくても、心地いい「十人十色」だった。 
 家庭環境の激変による、私立からの転校だった。
 母が父の友人と駆け落ちをしたのだ。
 そのとき田口は、雨の中足早に立ち去る母のうしろ姿を見ていた。
 目の前を市電が通り過ぎると、もう母の姿はなかった。。田口が母を見た最後だった。
 どこからか魚を焼くにおいがしてきて、田口の目頭が熱くなった。
 夕餉のしたくのけはいに、田口は自分にはもうない家族団欒を思ったからだった。
 その夜、田口は父と二人できしめんを食べた。
 だし汁におさまる平打ちのうどんの上に、かまぼこ、ほうれんそう、油揚げが添えられ、一つまみ加えられた花かつおが湯気に揺れる一品は田口の好物だ。
 温かい麺類を食べると鼻水が出るというが。
 後に、縁ある人と「お別れ」をしたとき、田口はあのときの父の鼻水の重さを知った。
 心労で父は病に倒れ、田口は祖母に育てられることとなった。
 慣れ親しんだ制服と教科書と無縁になったとき田口は、落ち葉になって川に流されて行くような寂寞を感じていた。
 当時提出を求められていた作文に、このことを書いた。
 級友たちに別れの挨拶をした後、田口が職員室に行くと、作文が地域のコンクールで入選したことを、目に涙を浮かべた女性教師から告げられた。
 田口の事情に対する涙に違いなかった。
 彼女の様子に、田口も胸が高鳴った。
 たとえ瞬時であったとしても、自分のことで感情を揺らした彼女の人となりに、田口は強く惹かれた。
 そして、彼女の吐く息が、田口の頬を撫ぜたとき、唇が触れたような気がして、田口の心臓にシンバルをたたいたような衝撃が走った。
 I Love You、初恋である。
 田口の転校でこの初恋は風化した。
「I Love You」は「やさしい人ですね」と、田口は訳すことにした。
 新しい制服、教科書に、希望を感じることはなかった。
 つまらない。
 田口は思いつめていた。 
 だが、わが孫の進路を、変更せざるをえなかった祖母の辛さが分かっていたから、口や態度にはけっして出さなかった田口だった。
 耳にしたことのある、灰色の人生とは、こんな感じなのかな。
 高山に出会ったときの田口は、そんな位置にいた。
 絶望という苦しみを抱えていたから、肉体の苦痛を感じるゆとりなどなかった。
 深層には、ぶっ倒れればいい。そうすれば、どれほど楽なことか。そんな不純があった。
 むちゃな走りが、驚異的に記録を伸ばした。
 周囲の賞賛とはうらはらに、自分の体をいじめていただけの田口に、競り勝つ快感はあっても、喜びはいつも憂鬱にかき消された。
 そんな田口を、明日に向かわせた大きなきっかけは、クラスのみんなで実現させた駅伝大会だった。
 冬季にはマラソン大会が恒例だったが、個人の力で決定付けられるから、走る前から結果は明らかで、不得意な生徒は本気で走らない。
 個々の力を結集する駅伝なら。
 提案したのは存命中の高山だった。
 影響力のある高山の発言は、頼まれたら嫌と言えない生徒会長を兼任している大河内を味方につけ、全校生徒も賛成という大きな輪となった。
 前例のなかった大会の実現に向かって、それぞれが、自分の分にあった役割を担い責任を果たした。
 みんなで力を合わせて、という美談だが、高山の頭には、わがクラスには陸上部員が多いから駅伝大会優勝の可能性は大だな、というちゃっかりとした計算があった。
「生徒会から学校にお願いした、クラス対抗駅伝大会開催が承認されました」
 校内放送で発表を聞いたとき、教室内には歓声があがり、田口は鳥肌が立った。
 達成感と共に、若さには無限の可能性があることを垣間見たからだ。
 流されてよどみに浮かんだ落ち葉だった田口が、息吹く大地を見つけた瞬間でもあった。
 それからの田口は、破滅に向かって走ることを止めた。
 モノクロームの景色しか映らなかった田口の目に鮮やかな色彩が戻り、行く手には色とりどりの花が咲き乱れているような気色に変わっていった。
 田口は、悲喜交々はこの世に生を受けている証であり、成長の糧なのだと考えることができるようになっていた。
 人生を棄権しそうになっていた田口を伴走したのも高山だった。
 母校のクラス対抗駅伝は今も受け継がれている。
 あのときおれは時空を超えて走っていたのかもしれないと、田口は考えた。
 いきなり高山が現れたときのおれは、中学生だったような気がする。
 だって、現れたのは中学生の高山なのだからと、田口の感覚は現実から完全に浮遊していた。
 ライバルの橋本の姿が高山に見えたとは、田口はどうしても思えなかった。
 たしかに、アンカーとしては知ったコースの記憶が田口には希薄で、中学時代に踏みしめた大地の感覚のほうが鮮明だったからだ。
 栄光の中でふわふわしている今よりも、高山が伴走してくれたあの場面に現実味があった。
 疲労で、まだ意識が混濁しているのかな。
 今はほんとうに今なのか。
 田口は確信を得ようと、神経を研ぎ澄ませた。
 すると、静寂が田口の身を包み、視界もゼロになり、思考力も緩慢になった。
「おーい」 
 そんな空白の中で、田口に聞き覚えのある声が耳に入ってきた。
 声の方向に視線を泳がせると、甘いにおいが鼻先をかすめ、やがてぼんやりと、女性の顔が見えてきた。
 陸上部のマネージャーをしている、伊藤幸子だった。
 幸子の髪の毛が、田口のおでこに触れるほど、幸子の顔が間近にあった。
 甘いにおいは、幸子のシャンプーの残り香だった。
 幸子の顔を、これほどの至近距離で見るのは初めてだった。
 埴輪みたいな顔だな。
 思いながら田口は、自分が毛布にくるまれて横たわっている状況を把握しようとしていた。
「ゴールして、倒れたんだよ」
 田口を覗きこんでいた幸子が、田口の戸惑いを察して説明を始めた。
「シード権確保したよ。みんなはいま、あそこでインタビューを受けているよ。動けるのなら、田口も行きなさいよ」
 幸子が示した先を見ると、息高らかに青春を謳歌する面々がいた。
「あのさあ」
 幸子が物理学科に籍を置いていることを思い出した田口は、いまさっきの不思議体験を証明してもらおうと話しかけた。
「ワームホール、時空を貫くトンネルからやってきたのね。その高山さんのいる世界からは可能なのかもね」
 田口は、幸子が、妄想よと一笑しなかったことが嬉しかった。
「お、気がついたようだな」
 幸子の手ぶりで、チームメイトが田口のところに集まってきた。
「自己ベストだ、おめでとう」
 神谷のねぎらいは、どうやら現実らしい。
 それにしても、ゴールしてそのまま眠り込んでしまうとは。
 周りには死力を注いだように映ったことだろう。
 田口は上機嫌で、自分は実は類まれな才能の持ち主なのかもしれないと、漠然とした優越に浸った。
 定年退職の送別会で、レストランの窓から東京駅のホームが見えたとき、田口はなぜだか、およそ半世紀前のこの時のことを思い出し、無性に少年時代が恋しくなった。
「あのころにもどりたい」
 田口は衝動的に三河安城行きの切符を買って、「こだま」の車中の人になっていた。
 愛知県安城市は田口の故郷である。
 日本のデンマークと呼称されるのにふさわしい田園地帯は、田口に朝な夕な様々な表情を見せてくれた。
 鳥のさえずりは、田口の身の回りの殺風景をにぎやかにしてくれたし、四季折々の草木や花は、田口の境遇を敏感に感じ取っているのか、色とりどりを装って田口の目を楽しませた。
 学び舎に続く道では桜やミモザの木々が、田口を見守るかのように堂々としていた。
 春、青空に映えるピンクと黄色のグラデーションは、明るい未来を象徴しているようで、級友たちの元気と共に田口に勇気をもたらした。
 これらの情景は、決して消えることのない田口の宝物である。
 齢を重ねてからの田口の話題は、この宝物に集中していた。
 何度も同じ話を聞かされた田口の妻や娘は、迷惑だったに違いない。
 同僚から贈られた花束は網棚に置いた。
(花嫁がいれば新婚旅行だな)
 およそ二時間半、どう過ごそうか。
 車窓から見える家々の灯りに、田口はかつての家族団欒を思った。
 けっして裕福とは言えなかったけれど、笑い声の絶えなかった3LDK。
 一人娘はとおに嫁いでいたし、妻はすでに先立っていた。
 遠目に目を細めていた視線を少しずらすと、初老の男の顔が車窓に映っていた。
(たそがれたな)
 それでも端正な顔立ちの面影が残っているおかげで、貧相に見えないのが救いだと田口は思った。
 新横浜でどこかの奥様らしき女性が、窓際の席を埋めた。
「どうぞ」
 田口が眠ろうかと目を閉じたときだった。温かい響きのあるささやきが田口の耳元でした。
 見ると女性が微笑んでいる。
「夜景を見ていらしたんじゃありませんか?」
 田口が窓辺に視線をやると、女性のほうを見る格好になるので、田口が気を遣ったことを女性は見抜いていた。
「セクハラだなんて言いませんから」
 女性の極端な表現が緊張をほぐした。
 気の利いた言葉でつなぎたかった田口だったが、思い浮かばなかった。
 なんらかの香り製品のにおいに混じって、かすかににおう女性の体臭に、田口はなぜか懐かしさを感じていた。
 会話を続けたくて、話題を賢明に模索する田口。
 沈黙を破ったのは女性のほうだった。
「夜景の中に過去を見てらしたのですね」
 挨拶程度の領域を超えた問いかけに、もしかして知り合い? 田口は女性を凝視した。
「あ、ごめんなさい。年配の方で、花束があって、定年退職なさった方が人生を振り返っている。そんなふうに見えました。推理小説が好きなのです」
 女性は手にしていた文庫本で唇を押さえた。
 本好きは田口も同じだった。
 小学生のころから、放課後には図書室を憩いの場として文学作品を熟読していた強者である。
「わたしもです」
 これでいっきに距離が縮まった。
 ああだこうだと書評で盛り上がり、熱海を過ぎたころには、互いに旧知の間柄のような口調になっていた。
「推理小説がお好きなら」
 田口は前置きをすると、言葉をつないだ。
「夜景を見て物思いにふけっていた男が、これから何処に行くのか分かりますか?」
調子に乗った田口の質問に、女性はしたり顔で答えた。
「簡単ですわ。安城南蘭中学校に行くのでしょ」
 田口は心の中を読み取られた驚きで、途中からは女性の言葉が耳に入らず、口元だけがパクパクしているのを見ていた。
 女性の携帯電話の着信音が鳴ったのをきっかけに、田口の耳に音が戻ってきた。
「ごめんなさい」
 席を立った女性が電話に出るためにデッキに向かった。
 尿意を覚えた田口もやや遅れて席を立った。
「駅からお電話をいただいて助かりました。はい、大丈夫です。たまたま父の隣の席が空いていましたので同席しています。父は自分の世界を生きていますがしっかりとしています」
 通路で女性の会話を耳にした田口は、女性の父親が病気なのかと一瞬は思ったのだけれど、すぐにはっとした。
「そうだったのか」
 記憶の曖昧は今に始まったことではなかったので、深刻には考えていなかった田口である。
 直近にあった人の名前を思い出せないことはあっても、休日、海辺に身を置いたとき、水平線までの距離を容易に計算できたから、思考能力の健在を確信していた田口である。
 似ているとは思ったけれど、隣席で言葉を交わしながら、当初から他人を装っていたじゃないか。
「少年時代のぼくに会ってくる」
 東京駅で見送ってくれた同僚たちも、田口の言葉に異変を感じていたのに違いない。
「誤解だ」
 男子用トイレの中で、田口は思わず声を上げた。
 この状況を覆すのは容易ではないぞと覚悟しながら、田口は席に戻った。
 長い道のりだったからな、疲れたのかな。
 再び車窓に目をやった田口は、通り過ぎてゆく夜景の中に、懸命に走り続ける少年の姿を見ていた。
                                        おわり

この物語はフィクションです。
実在の人物、団体、事件等とは、一切関係ありません。

 
 



 
 
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