第1話

文字数 2,714文字

誰かが死んで、悲しくて泣き、そのうち涙が出なくなる。泣くことに飽きてしまったかのように感じられる、その瞬間がとても嫌いだ。永遠に涙を流し続けることなどできないとわかっていても、自分が酷く薄情な人間のようで眩暈がする。ならば一層のこと、泣けない方がいいとすら思う。重い思いをいつまで抱え続ければいいのだろう。その荷物を下ろして体が軽くなった瞬間、自己嫌悪に苛まれどこまでも堕ちてゆく。
 
カナリヤが死んだと聞いたのは、昨日の夜だった。カナリヤは、鳥ではない。加鳴谷という私の友達で、けれど鳥のように高い声で笑う、少し変わった男だった。
彼が笑うと私は決まって、
「囀ってるねー」
 と言い、
「囀ってねーよ」
 と彼が返してくるのが面白かった。言わば私たちの合言葉のようなものだった。
 そのカナリヤが、死んだ。
 知らせてくれた別の男友達の声は淡々としていて、感情が読めなかった。なので私もどこで驚き、どこで嘆けばいいのかタイミングがわからなかった。
 カナリヤとはもう長いこと会っていなかった。時にして、一年くらいだろうか。大学時代は毎日のように顔を合わせ、真面目な彼の講義ノートをコピーさせてもらっていたのに、お互い就職してからは会う回数も片手で数えられるほどになった。
 最後に会ったとき、カナリヤに特に大きな変化は見られなかった。大学の頃と同じでくだらない話で盛り上がり、斜に構えた政治批判を繰り広げた。でも、それも一年前のことだから、その後彼に何かあったとしても不思議ではない。
 カナリヤの死因は不明だ。彼の家族が言わないらしい。だから、彼と仲が良かったメンバーも誰も知らない。けれど、それを探ったところで彼が生き返るわけではないのだ。

 昨日カナリヤの訃報を聞き、私は今日一日を悶々とした気分で過ごした。
 葬儀も既に家族内で済んでいるらしく、線香をあげに行こうにも彼の実家の住所を知らなかった。
彼の死が受け入れられない。実感も湧かない。ただ漠然とした怠さみたいなものが、体に取り憑いて離れなかった。
 私の友達でカナリヤとも仲のよかった佐野ちゃんは、彼が死んだと知った瞬間泣けてきたと言っていた。今日の昼に佐野ちゃんと電話したときも、カナリヤの話になると彼女は鼻をすすりながら、
「カナリヤぁ、若すぎるよお……」
 と泣いていた。
 私はいつまで経っても涙が出てこなかった。
実感が湧かない、などと言っているがそれは言い訳なのではないか、と思えてきた。泣けないくせに、気分だけは曇天の空模様のように暗く、重かった。
 考えがまとまらず注意力も散漫で、仕事でも単純なミスを連発してしまった。上司に、
「いつまで新人気分なんだ」
 と的外れな怒られ方をし、さらにずんと落ち込んだ。
 私はカナリヤと違って、真面目ではない。彼は馬鹿みたいにお人好しで、誠実なヤツだった。
「沙知もカナリヤを見習えばぁ?」
 よく佐野ちゃんにそう言われていた。
「沙知は不真面目なことに、真面目なんだもんな」
 カナリヤが目を糸みたいに細めて甲高い声で笑い、私は何だか救われたような気持ちになったのだ。

 実家暮らしの私は、家に帰るとご飯が用意されている。残業で遅くなり食べられないこともたまにあるが、それでも食べるものが食卓に並んでいるのはありがたかった。今日みたいに落ち込んで帰ってきたときなんかは特に、作ってくれる母や祖母の暖かさをしみじみと感じる。
「沙知、ご飯よそっていいのかい?」
 祖母が洗面所で手を洗っていた私に尋ねてくる。
「うん、お願い」
 答えてから、少なめって言えばよかったと思った。
 食卓に座ると、鯖の味噌煮の柔らかくも香ばしい匂いが漂った。食欲をそそられる。身はほろほろとすぐにほぐれた。
「美味しい。おばあちゃんが作ったの?」
「そうだよ。うまくできてるかい?」
「うん、美味しいよ」
 祖母は私の向かいに座って、ほうじ茶を啜った。私はあさりの味噌汁を飲みながらふと、祖母に聞いてみたくなった。
「ねえ、おばあちゃん。友達が死んじゃったときって、どうすればいいの?」
「どうすればいい、って?」
「死んだってことが信じられなくて、泣けないの。悲しいかどうかもわからない。ショックではあるけど、涙が全然出てこない。なのに気持ちはすごく重いの。何にも手がつかないの。どうすればいいの」
 ちょっと聞いてみるつもりが、思いの外縋るような声が出た。
「沙知は気持ちが重いのは嫌なのかい?」
「嫌だよ。だってすごく辛いし、仕事でもミスしちゃった」
「それは大変だねえ」
「でもその辛さって、自分本位の辛さでしょ。死んじゃった人を思って辛いわけじゃない」
「沙知はよくわかっているね」
「どうにもできないの。自分勝手で薄情なヤツみたいで、自分が最低で大嫌い」
「そうねえ」
 気づけば必死になって、祖母に問いかけていた。私は私の苦しさから、とにかく逃れたかった。カナリヤのことを純粋に思いたかった。彼の死を、悼みたかった。
「沙知、その辛さはね、沙知が持っていてあげるんだよ」
「え?」
「自分勝手で薄情で、最低でどうしようもない。そんな自分をずっと持っているの。その気持ちを手放しちゃ駄目だよ。どうにもならない気持ちと向き合うことが、死者への弔いになるんだよ」
「弔い……?」
「そう。死んだ人を思って悲しむことだけがいつも正しい行いだとは限らないよ。その人の死を通して汚い自分、最低な自分と向き合うことも死んだ人への供養だと、おばあちゃんは思うよ」
 そう言って、祖母はまたほうじ茶を啜った。私はしばらく呆然としていたが、微かに鼻をくすぐる鯖の味噌煮の匂いで我に返った。
「沙知は本当に、友達思いだねえ」
 祖母が微笑んだ。糸みたいに細くなった目が、カナリヤのそれと重なった。

 次の日、会社に行く途中で名前のわからない小鳥を見かけた。ピチチチッと鳴いて私の頭上を飛んで行った。
「囀ってるねー」
 小声で言ってみたが、合言葉のもう片方を返してくれる人はもういない。この世界の、どこにも。
 ああ、こういうことか。
 私はこのとき急に、カナリヤが死んでほとんど初めて悲しくなった。
「化粧、崩れちゃうじゃん……」
 通勤や通学途中の人たちが足早に通り過ぎて行く道の上で、立ったまま、私は涙を流し続けた。声は恥ずかしいから出さなかったけれど。涙って急に来るんだなぁと、今更ながら気づいたのだった。
 カナリヤの囀るように高い笑い声が耳の奥で微かに聞こえた気がしたが、それもそのうち遠くなって消えていった。
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