我が家
文字数 1,997文字
それは、私が物心が付く前の話です。
私の家は古風な造りの一軒家。昔の家は、皆そうであろうと思うのですが、裕福な家でも無いのに、床の間の部屋があり、家族が寛ぐ部屋とは襖一つで隔たれていて、両親と私はそこを寝室替わりに使用していたのです。
寝室の南側は、障子を隔てて廊下があり、その向こうは庭へと続いておりました。
廊下と庭の間にはガラス戸と木製の雨戸があり、家の外と内側を隔てています。色々なモノが徘徊する外の世界とは、この雨戸で一線を画していたのです。
この家には東側にも、玄関から便所の前を過ぎて別の部屋へと続く廊下がありました。
因みに便所なのですが、当時は当然ですが、汲み取り式の便所と云うことになります。
汲み取り式と言っても、浄化槽のある奇麗な水洗トイレなどではなく、純粋に壺の様な所へ直接落とすと言った、現代では考えられない様な構造の代物でありました。
皆様の多くは、この様な便所など見たことも無いと思われますので、尾籠な話で申し訳ありませんが、この家の便所について少々説明をさせて頂きます。暫しご容赦くださいませ。
我が家の内部には基本的にドアがありません。部屋と部屋は障子や襖で区切られているだけで、鍵のある扉で隔てられているのは、家の内と外の境目だけです。
ですが、ただ便所だけは扉がロックする機構になっておりました。そして、内からロックすると、スライド部にある穴が赤く塗られた位置に移動して、使用中であることを示すのです。
便所の構造は簡単で、半畳程の板張りの床に、陶製の金隠しが嵌め込まれた穴が開いているだけです。
さて、この様な構造ですので、暖かくなると蛆が大量に湧くことになります。これも悍ましいのですが、これを餌にする蝦蟇が居り、それを毎日の様に食しているのも、何か不気味な光景でありました。また、冬には下から冷気が沸き上がってきて、暖かい部屋から来て尻を出すと、冷たい手で尻を撫でられた様な不気味な感覚に襲われるのです。
さて、大体の当時の我が家の構造と、幼年期の私が感じていた、この家に対する恐怖を、少しは理解頂けましたでしょうか?
その夜、私はどうにも寝付けませんでした。
既に隣の部屋の灯りも落とされ、欄間からの光も漏れておりません。当然、父母も寝入っており、寝息も聞こえぬ程に静かに横になっております。
こういう時は、特別な音などしないと分かっていても聞き耳を立ててしまうものなのです。私は意識したという訳ではないのですが、耳を聳 てました。でも、そんなことをしても、音など何も聞こえて来ないだろうとお思いでしょう? そんなことはありません。
天井板や柱の軋り、何か分かりませんがドンという音、夏ですと、蟋蟀の鳴く声、竈馬や油虫の蠢く音、何かしら色々な音が聞こえてくるものなのです。
ですが、その夜は、その様な音に変わって別の音が聞こえてきました。
それは、何やらベチョベチョする粘性の物が床を引きずる様な、何だか判別の付かない音が、東の廊下の方から聞こえていたのです。
私はすぐさま起き上がり、その音の正体を確かめ様かと考えましたが、臆病な私に、その様なことが出来る筈もありません。結局、私は布団を被って怯えておりました。
そう言えば、寝付かれぬと言って、先程私は便所に行ったのですが、便所の扉を閉め忘れた様な気がします。それで、我が家の結界は便所から破られてしまっていたのです。
その物音の主は、卓袱台の部屋を通り、床の間のある寝室へとやってきました。
私には、襖の開く音など聞こえなかったのですが、そいつはどうやったのか、この寝室にやって来て、私の直ぐ脇に立っているのです。私は布団の隙間から、物音の正体を覗いてみました。
それは何か分かりませんが、黒い影だったのです。
黒い影は私の父に覆い被さると、煙の様に形を変えていき、父の口からどんどんと中に入っていくのです。私は子ども心に、父がこの化け物に憑りつかれていると云うことが分かりました。
結局、黒い影が父の体内に入ってしまうと、その後は何も起こることはありませんでした。私もそのまま寝てしまい、何事も無かったかの様に朝を迎えます。
この後、突然父が妖しい行動を取ったとか、今まで以上に不思議な現象が起こったと云うことは全くありませんでした。
その父も今は亡く、私はそれが、単に私の見た夢だったのだろうと思っております。
それに、そもそも私が便所の扉を閉め忘れたことなど、一度や二度ではありません。その度ごとに何かに憑りつかれていたら、私の家族は今一体何者になっているのでしょう?
でも、そう言えば、私自身、三歳より以前の記憶が何故か全くありません。もしかすると、それ以前の私は、私が憑り殺してしまったのかも知れません。
私の家は古風な造りの一軒家。昔の家は、皆そうであろうと思うのですが、裕福な家でも無いのに、床の間の部屋があり、家族が寛ぐ部屋とは襖一つで隔たれていて、両親と私はそこを寝室替わりに使用していたのです。
寝室の南側は、障子を隔てて廊下があり、その向こうは庭へと続いておりました。
廊下と庭の間にはガラス戸と木製の雨戸があり、家の外と内側を隔てています。色々なモノが徘徊する外の世界とは、この雨戸で一線を画していたのです。
この家には東側にも、玄関から便所の前を過ぎて別の部屋へと続く廊下がありました。
因みに便所なのですが、当時は当然ですが、汲み取り式の便所と云うことになります。
汲み取り式と言っても、浄化槽のある奇麗な水洗トイレなどではなく、純粋に壺の様な所へ直接落とすと言った、現代では考えられない様な構造の代物でありました。
皆様の多くは、この様な便所など見たことも無いと思われますので、尾籠な話で申し訳ありませんが、この家の便所について少々説明をさせて頂きます。暫しご容赦くださいませ。
我が家の内部には基本的にドアがありません。部屋と部屋は障子や襖で区切られているだけで、鍵のある扉で隔てられているのは、家の内と外の境目だけです。
ですが、ただ便所だけは扉がロックする機構になっておりました。そして、内からロックすると、スライド部にある穴が赤く塗られた位置に移動して、使用中であることを示すのです。
便所の構造は簡単で、半畳程の板張りの床に、陶製の金隠しが嵌め込まれた穴が開いているだけです。
さて、この様な構造ですので、暖かくなると蛆が大量に湧くことになります。これも悍ましいのですが、これを餌にする蝦蟇が居り、それを毎日の様に食しているのも、何か不気味な光景でありました。また、冬には下から冷気が沸き上がってきて、暖かい部屋から来て尻を出すと、冷たい手で尻を撫でられた様な不気味な感覚に襲われるのです。
さて、大体の当時の我が家の構造と、幼年期の私が感じていた、この家に対する恐怖を、少しは理解頂けましたでしょうか?
その夜、私はどうにも寝付けませんでした。
既に隣の部屋の灯りも落とされ、欄間からの光も漏れておりません。当然、父母も寝入っており、寝息も聞こえぬ程に静かに横になっております。
こういう時は、特別な音などしないと分かっていても聞き耳を立ててしまうものなのです。私は意識したという訳ではないのですが、耳を
天井板や柱の軋り、何か分かりませんがドンという音、夏ですと、蟋蟀の鳴く声、竈馬や油虫の蠢く音、何かしら色々な音が聞こえてくるものなのです。
ですが、その夜は、その様な音に変わって別の音が聞こえてきました。
それは、何やらベチョベチョする粘性の物が床を引きずる様な、何だか判別の付かない音が、東の廊下の方から聞こえていたのです。
私はすぐさま起き上がり、その音の正体を確かめ様かと考えましたが、臆病な私に、その様なことが出来る筈もありません。結局、私は布団を被って怯えておりました。
そう言えば、寝付かれぬと言って、先程私は便所に行ったのですが、便所の扉を閉め忘れた様な気がします。それで、我が家の結界は便所から破られてしまっていたのです。
その物音の主は、卓袱台の部屋を通り、床の間のある寝室へとやってきました。
私には、襖の開く音など聞こえなかったのですが、そいつはどうやったのか、この寝室にやって来て、私の直ぐ脇に立っているのです。私は布団の隙間から、物音の正体を覗いてみました。
それは何か分かりませんが、黒い影だったのです。
黒い影は私の父に覆い被さると、煙の様に形を変えていき、父の口からどんどんと中に入っていくのです。私は子ども心に、父がこの化け物に憑りつかれていると云うことが分かりました。
結局、黒い影が父の体内に入ってしまうと、その後は何も起こることはありませんでした。私もそのまま寝てしまい、何事も無かったかの様に朝を迎えます。
この後、突然父が妖しい行動を取ったとか、今まで以上に不思議な現象が起こったと云うことは全くありませんでした。
その父も今は亡く、私はそれが、単に私の見た夢だったのだろうと思っております。
それに、そもそも私が便所の扉を閉め忘れたことなど、一度や二度ではありません。その度ごとに何かに憑りつかれていたら、私の家族は今一体何者になっているのでしょう?
でも、そう言えば、私自身、三歳より以前の記憶が何故か全くありません。もしかすると、それ以前の私は、私が憑り殺してしまったのかも知れません。