BOY MEETS GENTLEMEN 

文字数 1,469文字

 沈みゆく日を背に、理知の果てへと折れ続く大海に、此の小柄な背丈の映しが何倍にもなって浮かんでいる。日増しに痩ける私の肋は、終には身皮が臓物と密着するまでに至った。愈々終りと云うことか。死に床などには尽きたくないものだが、此れがヒトの定めだと云うならば、それに従うのが、ヒトとして生きた証と成るのだろう。潮風が滲みた眼の球を、軋ませながら抉る。今に死に呑まれんとする我が身と心も、嘗ては此の海の果てに思いを馳せ、無謀にも世界の果てを目指した。其の日々を、走馬の紡ぎに朧にみることが、最近では屢々である。
 彼れは英國の紳士であったか。若く逞しかった私が、小袋片手に乗り込んだ国外船に乗り合わせた者の中に、スタンワードと云う、三等らしい身なりの、大男が居た。本家の支援のあった私は、二等の、其れもかなり良い部屋を取っていた。私が彼を見たのは、私自らが三等専用のレストランに赴いた時であった。無性にも、そう云う食事がしたくなったのである。猿真似とも云われる当時の日本の西洋風料理に慣れ親しんだ私の味覚には、西洋籍の其の客船が提供する、所謂“現地の味”は、否応にも、親しめるものではなかった。一頻りに胃の遺物を大海に吐き捨てた後、私は三等の雑魚椅子の様なものの上で、未だ沸き上がる吐き気を抑える様に、仰向けになって天照を喰らっていた。清々しい程に忌々しく今し方、二等の酒で此の渇きと悪感を洗い流そうと思い立ち、唸る胃を摩りながらに、ゆっくりと起き上がった。
 “西洋”を思わせる、異なる文化圏が創り出す五感に対する刺激。兼ねてより脳天まで浸っていた和の観念の全てを洗い流して、更には別の容器に入った西洋の観念に身の全てを浸けるような感覚が、二等のバーに入った瞬間に私を突風の様に襲った。しかし、酒を仰がんことには、此の吐き気と悪感が祓われることは無いだろう。直ぐに席についた私は、バーテンダーに任せて酒を作らせた。
「何か……食い物は無いか……何でも良い、人の食でさえあれば、私は直ぐにでも其れを貪りたい……」
 小腹がまともな食事を求めていることも云い加えた。余程に私の顔が疲弊していたか、バーテンダーの男は「簡単なものしかお作りできませんが」と前置いて、何やら肉粒を焼き始めた。立ち込める匂と煙。その番いの混沌が、私の腹を更に唸らせる。先に出された酒を、撒くように口に流して、吐き気と悪感を祓った。残すは、此の空き腹を満たすだけになった。慾に侵された大脳が、無意識に匂いの根源に熱い視線を送ってしまう。時折、瞬きをする様にバーテンダーの顔にも視線を送る。
「良い香りだな。私にも同じものを作ってくれないか」
 ハットを被ってタキシードに身を包む、英国紳士であった。大凡そんなことを、訛りの効いた“英語”でバーテンダーに云った。
「こんなところが此の船にあったなんてね、ドイツから乗っているのに知らなかったよ」
 丸グラスの酒を揺らしてそう云う。
「ドイツから?目的地はスペインだろう?何故こんな世界を巡廻する船なんかに……」
「何故僕がスペインに行くと思ったんだい?」
「そんなの簡単さ、あんたのその訛った英語。スペイン訛りだ。肌の色を見るに、スペイン以外無いかなと」
 男は笑った。
「ははっ、鋭いな。探偵かい?仕事は何を?」
 バーテンダーが合挽肉を炒めた飯をカウンターに置いた。
「あんたの分も今作るからね」
 軽く会釈をして、私は一口大に掬った其れを、大口に運んだ。暫し美味を楽しんで、男の問いに答えた。
「探偵なんかじゃない。俺は鉄雄。そうだな……旅人ってとこだ」
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