第1話

文字数 1,956文字

パチン。
耳慣れているはずの音に驚き、美緒は思わず「あ」と声をあげた。
「What?(なに?)」
ルーカスが訝しそうに美緒を見た。
「何でもない。夜に爪を切ると親の死に目に会えないっていう言い伝えが日本にあるの。夜だから音にちょっと驚いただけ」

ルーカスは爪切りを手にしたまま少し寂し気に笑った。
「ごめんなさい。こんなこと言って」
美緒は慌てて謝った。

ルーカスの父親は十年前に事故で亡くなった。
家族が病院に駆け付けた時にはもう既に息を引き取っていたらしい。
父親はもしかしたら長い出張に出かけているだけなんじゃないか、って今でも思う時があるんだ。ルーカスが美緒にそう言ったことがある。

彼の母親も昨年、癌で亡くなった。優しい人だった。
ルーカスと美緒が病院に到着した時、義母の意識はもうなかった。
普段は悲しい映画を見ても滅多に泣かない彼が、ベットの前にひざまずき、まるで子供のように涙をぽろぽろとこぼしながら「Mum(お母さん)」と繰り返すのを見て、美緒は親の死に目に立ち会うことの大事さと難しさを知った。


幼い頃にピアノを習っていたせいかもしれないが、美緒は爪が少しでも伸びていると落ち着かない。ところが爪が伸びていることに気付くのはいつも職場だ。キーボードを打つ時に、爪が美緒にだけ聞こえる耳障りな音をたてるからだ。
だがまさか職場で爪を切る訳にもいかないから、明日の出社前に切ろう、と決めて、その日一日我慢する。それなのに翌朝になるとすっかり忘れて家を飛び出してしまうのだ。
何日かそれを繰り返すと、爪が気になって仕方がない夜がある。


「里帰りももちろんするけど、お母さんに何かあったらすぐ駆けつけるから心配しないで」
「ケアンズから?」
オーストラリアへ旅立つ日、空港で美緒がそう言うと母親は驚いた顔で言った。
「もちろん。日本までたったの7時間だもの」
「そうね。いまは便利な時代ね。じゃあ頼りにしてるわよ」
美緒はいたって真面目だったが、母親は信じていないのか、にこにこと笑うだけだった。

東京からケアンズまでは、確かに「飛行機に乗ってしまえば7時間」だ。だが、どれだけ便利な時代になっても外国はやはり遠いだろう。
美緒は母親に心の中で謝った。
ごめんなさい、いつもお母さんの近くにいることが出来なくて。

運命の出会い、なんて信じていなかったのに。
だが仕事で東京に住んでいたオーストラリア人のルーカスと、付き合ってたった半年で結婚しようと決めたのは理屈ではなかった。やはり二人の間には運命的な何かがあったとしか思えなかった。

「僕と一緒にオーストラリアに帰ってくれませんか」
帰国を間近にしたルーカスの突然のプロポーズに、二つ返事で了承して一番驚いたのは、他の誰でもない美緒自身だった。

自分はとんでもないことを決めてしまったのではないのか。
渡航の準備を始めた美緒は、そんな思いに駆られ何度もその手を止めた。
離婚してから女手一つで一生懸命育ててくれた母親を置いて行くのが申し訳なくてたまらなかった。ぐずぐずと言い訳して、用意を遅らせる美緒に母は言った。

「未練たらしいわ。覚悟を決めなさい」
母は、美緒の母への罪悪感にも、新生活に対する怯えにも気付いていたらしい。

「子どもは巣立っていくものだから、これが当たり前。私のことなんて気にしなくていいの」
母が美緒の肩を抱いた時、美緒は幼い頃のように甘えたくなって思いきり泣いた。
だが心の中で誓った。甘えるのはこれで最後にしよう。

これから母親はどんどん年を取る。母だってこれからの生活が不安に違いない。
これから先、もし私が悲しい話ばかりすれば、母はいつまでも心配するだろう。
それだけでなく、もしかして私が離婚すればまた一緒に住めると思ってしまう日だってあるかもしれない。だが母のことだから、娘の不幸を一瞬でも願ったことを後で悔やむだろう。

私が出来る一番の親孝行は、私がルーカスとケアンズで幸せに暮らすことだ。
これでよかったのだと、子どもの幸せが何よりなのだ、と母親が何度も思うほどに幸せになることなのだ。
今は里帰りするたびに元気な顔で迎えてくれる母だが、いつか別れの日は来る。
私を幸せにしてくれた母にできる恩返しは多くない。

「爪、気になるの?」
ルーカスの声で美緒ははっと我に返った。
「え、どうして?」
「さっきから人差し指で親指の爪こすってる。それは美緒が爪を切りたいって思ってる時だから」
美緒は、彼と結婚して本当によかったと思った。
こんな些細な癖に気付いてくれる人が側にいる。それは人として一番幸せなことだ。

「じゃあ明日の朝に切ってね。忘れないように爪切りを美緒の目につくところに置いておくから」
夫の背に向って美緒は、「ありがとう。いつも本当にありがとう」と言った。
ルーカスは振り返り少し不思議そうに美緒を見た。
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