第1話
文字数 1,989文字
きのう、隣のじいさんが老人ホームから脱走してきた。
学校をサボって家でごろごろしていた俺が何気なく窓の外に目をやると、隣の家の生垣越しにつっ立っているじいさんが見えたのだ。
「おーい」
窓から身をのり出す俺に、じいさんはあわてて人差し指を口に当て首を振った。
脱出してきたな、と直感的にわかった。
「じいさんち、旅行で留守。ウチ来いよ。俺だけだし」
じいさんは半年前、老人ホームに入居した。
自らすすんで志願したとか。
以来、隣家から聞こえる笑い声が増えたのは否定できない。
ガキの頃から偏屈なじいさんに懐いていた俺の目にも明らかだ。
「気に入らねぇことでもあったの」
「そんなことで逃げ帰るほど、ヤワじゃない」
出がらしの玄米茶をすすってじいさんは顔を顰める。
おまえは相変わらず学校へも行ったり行かなかったりのゴクツブシか。
逃げてばかりの人生なぞロクなもんじゃない。わしが16、7の頃は第二国民兵役として命懸けの毎日を――云々。
「うるせーな。だから嫌われんだよ」
やべ。言い過ぎか。
ズズズッと茶をすすりあう音が狭い居間の中、響く。
湯呑を見つめながらじいさんが言いにくそうにつぶやいた。
「頼みがある」
写真を置き忘れてな。
「写真? ばあさんのか」
言いにくそうに口をもごもごさせている。
「わかった、例のヤツだな?」
じいさんの文机の上にずっと置いてあった写真の戦友。そいつの話を遊びに行くたびに耳にタコができるほど聞かされてきた。
教科書でちらっと見たくらいでしか知らないフィリピンの戦い。
太平洋戦争末期だ。
部隊の壊滅後、ルソン島にとり残された日本兵だったじいさんはジャングルをさまよいながら数名の仲間と共に戦いをつづけていた。
物資や食料の補給を断たれた当時、餓死で亡くなる者も多かった。じいさんを含む部隊も例外ではない。
その最中、流れ弾がぶち抜いたのは仲間をかばおうとした男の左胸ど真ん中。直後に崩れ落ちる大きな体。
駆け寄ったじいさんの耳元で、俺ガ死ンダラ、皆デ残サズ。そうつぶやきヤツは息を引き取った。
「いつもの阿呆みたいなうすら笑いを浮かべてな」
何が残さず、だ。キサマの不味い肉なんぞ誰が食うものか。
話すたびにじいさんは膝の上に置いた握りこぶしをぶるぶると震わせた。
おかげで今日まで生き延びおおせたわ。ざまあみろ。
呻いたあと写真の中で笑うヤツに毒づいてみせる。
それがじいさんの日課だった。
「で、ヤツの写真を取りに戻ったと。家族面会のときにもってきてもらえば」
そんなことできるか、みっともない。
吐き捨てるじいさんの頬が紅潮している。
「そのうちおばさんたち戻るし。今日はもうホームに帰れよ」
口を一文字に引き結びかぶりを振る。
「鍵ねーだろ。俺にコソ泥の真似しろって?」
七十周忌なんじゃ。明日が、あいつの。
よっこいせ、とじいさんは炬燵に手をつき立ち上がった。
「じゃましたな」
杖をつきドアを開け出て行くしょぼくれた背中。
二階の自室の窓から通りを挟んだバス停にたどり着いたじいさんを見届ける。
たたずむ姿は風に吹かれるボロボロの案山子のようだ。
いまにも倒れそうで、カラスにも馬鹿にされちまう。
翌日2時間目の授業が終わると同時に、俺は鞄を片手に教室を出た。
「おま、追試はぁ? 落としたら人生詰むぞ、十六で!」
赤点仲間に手を振り、校門を出たのが一時間前。
先ほどから震えの止まらぬ手の指を噛みつづけること十秒。
決死の覚悟で隣家の庭石を持ち上げ、窓を叩き割って家の中へ踏み入る。
靴は脱いだが、立派な家宅侵入であることにはちがいない。
慣れ親しんだ居間。
だが、心拍数がヤバい今。
口から心臓がとびだしそうだ。俺ってこんなにビビりだったのか。
おばちゃん、水一杯! と言いたいところだが奥の和室へと移動する。
襖を開けるなり俺はあっと叫んだ。
ほぼ片付いたと思しき殺風景なじいさんの部屋。
もう戻ることもないのだという空気がひどくよそよそしい。
痕跡を残すのは隅に追いやられた文机のみ。その上にはほこりをかぶった写真立てがぽつんと置いてあった。
木目の額縁に囲まれた、お馴染みの締まりのないヤツの笑顔。
いっしょに来てもらうぜ。
ありがた迷惑かもな。
だがこの世でいちばんあんたのことを思ってるのは、まちがいなくじいさんだ。
まぁ、毎日クソミソに言われるだろうが、今に始まったことじゃねえ。
腐れ縁だと思ってあきらめてくれよな。
じいさんのこと、見守ってくれ。
よろしく、頼みます――
アーケード下の酒屋を通り過ぎざま手みやげ用にかっぱらった一升瓶。
ヤツの写真の入った鞄を抱えた窃盗罪兼住居侵入罪であろう無一文の十六歳。
両親への留年決定の報告に悩みつつ、老人ホーム行きのバスに揺られながらなぜか緩んでくる頬をどうしようもできないでいる。
完
学校をサボって家でごろごろしていた俺が何気なく窓の外に目をやると、隣の家の生垣越しにつっ立っているじいさんが見えたのだ。
「おーい」
窓から身をのり出す俺に、じいさんはあわてて人差し指を口に当て首を振った。
脱出してきたな、と直感的にわかった。
「じいさんち、旅行で留守。ウチ来いよ。俺だけだし」
じいさんは半年前、老人ホームに入居した。
自らすすんで志願したとか。
以来、隣家から聞こえる笑い声が増えたのは否定できない。
ガキの頃から偏屈なじいさんに懐いていた俺の目にも明らかだ。
「気に入らねぇことでもあったの」
「そんなことで逃げ帰るほど、ヤワじゃない」
出がらしの玄米茶をすすってじいさんは顔を顰める。
おまえは相変わらず学校へも行ったり行かなかったりのゴクツブシか。
逃げてばかりの人生なぞロクなもんじゃない。わしが16、7の頃は第二国民兵役として命懸けの毎日を――云々。
「うるせーな。だから嫌われんだよ」
やべ。言い過ぎか。
ズズズッと茶をすすりあう音が狭い居間の中、響く。
湯呑を見つめながらじいさんが言いにくそうにつぶやいた。
「頼みがある」
写真を置き忘れてな。
「写真? ばあさんのか」
言いにくそうに口をもごもごさせている。
「わかった、例のヤツだな?」
じいさんの文机の上にずっと置いてあった写真の戦友。そいつの話を遊びに行くたびに耳にタコができるほど聞かされてきた。
教科書でちらっと見たくらいでしか知らないフィリピンの戦い。
太平洋戦争末期だ。
部隊の壊滅後、ルソン島にとり残された日本兵だったじいさんはジャングルをさまよいながら数名の仲間と共に戦いをつづけていた。
物資や食料の補給を断たれた当時、餓死で亡くなる者も多かった。じいさんを含む部隊も例外ではない。
その最中、流れ弾がぶち抜いたのは仲間をかばおうとした男の左胸ど真ん中。直後に崩れ落ちる大きな体。
駆け寄ったじいさんの耳元で、俺ガ死ンダラ、皆デ残サズ。そうつぶやきヤツは息を引き取った。
「いつもの阿呆みたいなうすら笑いを浮かべてな」
何が残さず、だ。キサマの不味い肉なんぞ誰が食うものか。
話すたびにじいさんは膝の上に置いた握りこぶしをぶるぶると震わせた。
おかげで今日まで生き延びおおせたわ。ざまあみろ。
呻いたあと写真の中で笑うヤツに毒づいてみせる。
それがじいさんの日課だった。
「で、ヤツの写真を取りに戻ったと。家族面会のときにもってきてもらえば」
そんなことできるか、みっともない。
吐き捨てるじいさんの頬が紅潮している。
「そのうちおばさんたち戻るし。今日はもうホームに帰れよ」
口を一文字に引き結びかぶりを振る。
「鍵ねーだろ。俺にコソ泥の真似しろって?」
七十周忌なんじゃ。明日が、あいつの。
よっこいせ、とじいさんは炬燵に手をつき立ち上がった。
「じゃましたな」
杖をつきドアを開け出て行くしょぼくれた背中。
二階の自室の窓から通りを挟んだバス停にたどり着いたじいさんを見届ける。
たたずむ姿は風に吹かれるボロボロの案山子のようだ。
いまにも倒れそうで、カラスにも馬鹿にされちまう。
翌日2時間目の授業が終わると同時に、俺は鞄を片手に教室を出た。
「おま、追試はぁ? 落としたら人生詰むぞ、十六で!」
赤点仲間に手を振り、校門を出たのが一時間前。
先ほどから震えの止まらぬ手の指を噛みつづけること十秒。
決死の覚悟で隣家の庭石を持ち上げ、窓を叩き割って家の中へ踏み入る。
靴は脱いだが、立派な家宅侵入であることにはちがいない。
慣れ親しんだ居間。
だが、心拍数がヤバい今。
口から心臓がとびだしそうだ。俺ってこんなにビビりだったのか。
おばちゃん、水一杯! と言いたいところだが奥の和室へと移動する。
襖を開けるなり俺はあっと叫んだ。
ほぼ片付いたと思しき殺風景なじいさんの部屋。
もう戻ることもないのだという空気がひどくよそよそしい。
痕跡を残すのは隅に追いやられた文机のみ。その上にはほこりをかぶった写真立てがぽつんと置いてあった。
木目の額縁に囲まれた、お馴染みの締まりのないヤツの笑顔。
いっしょに来てもらうぜ。
ありがた迷惑かもな。
だがこの世でいちばんあんたのことを思ってるのは、まちがいなくじいさんだ。
まぁ、毎日クソミソに言われるだろうが、今に始まったことじゃねえ。
腐れ縁だと思ってあきらめてくれよな。
じいさんのこと、見守ってくれ。
よろしく、頼みます――
アーケード下の酒屋を通り過ぎざま手みやげ用にかっぱらった一升瓶。
ヤツの写真の入った鞄を抱えた窃盗罪兼住居侵入罪であろう無一文の十六歳。
両親への留年決定の報告に悩みつつ、老人ホーム行きのバスに揺られながらなぜか緩んでくる頬をどうしようもできないでいる。
完