第1話 禁忌

文字数 1,765文字

○昭和二十年八月三十日、埼玉県西部の限界集落

 和香(32)は、東京市から人口の少ない農村に嫁いで来た。実家は人形町の呉服屋なのだが、農大で学ぶため人形町に下宿していた亡夫の貞吉と知り合ったのだ。いまだ女盛りなのは、言うまでもない。しかし、子はなく、夫ももう既にこの世にない。

 「長沢さーん、郵便でーす」
いまだに機能しているのだろうか、日本政府から夫の死亡通知が届いたのは、玉音放送から二、三日してからのことだった。
 「貞吉からかい?元気にしとるかねえ」
認知症になった義母が力無く笑うのが、和香をいっそう悲しく心細いものにさせた。
 義父は、長い過酷な農作業のせいで還暦を待たずにすでに他界している。
 
 「ボクはねえ、農業技術だけで農家を救おうとしてるんじゃない。いずれ、小作人と地主という不仁な社会関係を打破して…そうさ、アメリカのような一軒一軒独立した農家を目指すのが理想さ、そうならなきゃいけないんだ」
 貞吉の理想に燃えた目に惚れて一緒になったものの、戦地で夭折してはそれも淡く虚しい記憶でしかなかった。

 後で聴いて分かったことだが、こうした貞吉の姿勢は特高に目をつけられ、貞吉は四年制大学を卒業していたのにもかかわらず、一兵卒として南方戦線に投入されたのだった。兵站線がきれての餓死であったという。

 和香がエンドウ豆畠の草取りが終わった昼下がり、握り飯で昼をしていると東京市から買い出しの客が来ていた。
 「お金はないんです。その代わりにこの、長襦袢で芋3キロと交換してほしいのです」
 瓜実顔の美しい女、歳も和香と同じくらいの女がいまだ張り切った胸元の汗を日本手拭で拭き取りながら懇願している。

 この食糧難の時代に長襦袢一枚で芋3キロと交換とは法外とは思ったが、女の双眸に悲しみを見てとった和香は、この人も寡婦なのではないかと思い、込み入った事情は敢えて聞かずに女の申し出を快諾した。
 「ええですよ」。

 日中の農作業が終わり、和香は義母と夕食をすますと、薪を炊いて釜風呂で一風呂浴びた。
 村全体が夕闇に包まれる風呂上りの午後八時、この頃から和香は急に寂しい想いにかられる。それは、女盛りの情念が漁火のように燃えるほどに倍化するからだ。

 義母は、隣の部屋で既に寝息を立てて寝んでいる。和香は、網戸を閉めると、部屋入って蚊帳をつり、中で全裸になって団扇で涼んだ。身体の愛炎が痛い程に燃えている。

 和香は、蚊帳の中で昼間のタケノコ生活で女が持ってきた白襦袢を纏ってみた。それな絹でできており丈はぴったりであったが、胸が大きい和香には胸元が少々きついように思われた。

 「はー」、和香が熱い吐息を漏らした。
インテリらしい理想に満ち愛情豊かであった亡夫の貞吉、死亡通知が間違いで今夜にも帰ってくるのではと夢想する日々、毎晩のように彼に貫かれることを想像するたび和香の秘部は人知れず濡れた。

 和香は、自ら気がつくと貞吉と結婚する前に実父染太郎に薦められた見合いの相手、愛之助を想起していた。不謹慎な事であり、禁忌でもあり内心熟知たるものがあるものの。

 愛之助は、深川の鰻料亭「花月鰻八」の一人息子で、料亭の主人と実父染太郎とは昵懇のなかであった。

 花月鰻八は、江戸時代に吉原の上客を相手に商売を始めたのを起源とし、明治には政府高官が出入りしていたこともあり、芸者衆も毎晩のようにあがり、呉服屋にとっていい商売先であった。
 
 (ああ。親の勧めに従っていたら、愛之助さんと一緒になっていたら。こんなにも毎日農作業にあけくれなくても、鰻料亭の若女将として意気揚々としていたかも…)
不謹慎なことである。和香は、いつの事からか貞吉ではなく、愛之助を想起して秘部に指を這わすようになっていた。
 それに罪悪感を感じず、自らを正当化しようとする自らの運命が怖かった。

 ボーン、ボーンと義父が残した長時計が九時を知らせ、和香は、はっと現実に引き戻された。和香は、悪いこととは知りつつも貞吉の遺品である英和辞典の1ページを引きちぎり、それで人知れず秘部の愛液を拭きとった。(紙不足なんだからしょうがないわ)と自らに弁解しながら。

 そして、長襦袢の胸元を直すと蚊帳を出て、井戸水で冷えたサイダー水を取りに行った。

 燃え盛るオンナの情念を鎮火させるために。





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