【一話完結】

文字数 2,114文字


いつものように気づいたら路上で寝ていた。携帯を探そうと、目を閉じたまま周辺を探した。そうすると何かが手に触れた。「ん?なにこれ…」と、片目をうっすら開けると手の先には、携帯ではなく人の肩があった。誰かが自分の寝顔を覗き込んでいた。うっすら開いていた瞼(まぶた)が、一瞬で全開になった。
「すみません、驚かせてしまいましたか––––私は未来からあなたの夢を十億で買い取りに参りました」と、見知らぬ男は言った。
––––
『あと十分だけ…』と、高野薫(たかのかおる)は自分に言い聞かせた。
人生にこれと言った目標もなく、裕福で過保護な親の過剰なほどの仕送りを酒と遊びに費やし、ダラダラと(毎日)過ごしている。昨日も酒を浴びるように飲み、足の踏み場もないような部屋で適当に寝ていた。
結局、その後もアラームのスヌーズ機能と格闘し、起きたのは時計の針が十一時を回って少ししてからだった。
眠い目を擦りながら、そこら辺に落ちていた、いつ買ったのかもわからないカップ麺を食べ終え、薫は大学へ向かった。
––––
「かおりん、また遅刻ぎりぎりじゃん」と井上圭介(いのうえけいすけ)は言った。
圭介は小学生の時代からの友達で、SFオタクであまり人と連(つる)まない薫とは対象的で、昔から誰とでも仲良くでき、友達も多い奴だった。かおりんというあだ名も彼が命名し、最初は女の子っぽくて嫌そうにしていた薫だが、今では慣れてしまっている。
「うるせえ」と、薫はいつものように答えた。
「てか、ゼミの配属志望書書いた?」
「やっべ、書いてねえわ」薫は眉をひそめた。「お前は?」
「俺はかおりんと違ってやりたいことあるからさ」
「やりたいことね…」
深いため息が、薫の口から漏れた。
圭介の『かおりんと違ってやりたいことがある』という言葉が、薫の頭の中で何度も反響した。
昔から性格こそ違うが、成績も、運動神経も同じくらいで似たもの同士だと思っていた圭介が、あっという間にどこか遠くへ行ってしまったような感じがして、少し寂しかった。
––––
「申し訳ございません、驚かせてしまいましたか––––私は未来からあなたの夢を十億で買い取りに参りました」
驚きすぎて言葉が出ない薫に、男は続けて言った。「いま、ご自身が何をやりたい時期であるのか、わからないでしょう?」と、男は見切ったように言った。
さっきまで驚きで声も出せなかった薫だが、十億という言葉の響きだけでこの状況をすんなりと受け入れた。
「で、夢売ったら十億くれんの?」と、身を乗り出して薫は訊いた。
「左様でございます」と、男は言った。「場所を移しましょうか。美味しいコーヒーを淹れてくれる喫茶店があるのでご案内しますよ」

喫茶店に着くと、マスターがコーヒーを淹れてくれた。薄暗いゴミ捨て場で話した時は気づかなかったが、スーツに革靴と身なりはとても清潔にしており、営業スマイルも上手く、こういう奴が出世するんだろうなと、薫は思った。
––––男によると、どうやら未来では他人の思考の一部を抽出することができ、それを売買できるらしい。特に「夢」の部分は高価らしく、未来では十億円ほどで取引されているようだ。
「ここに、十億円があります。ご確認ください」と、男はアタッシュケースを取り出し、薫の目の前に置いた。アタッシュケースを開くと、札束がぎっしりと詰まっていた。テレビでしか見たことがないような光景に、薫はごくりと喉を鳴らした。
「どうですか、悪い話ではないでしょう?」
薫は十億あったら何ができるかを想像した。まず、高級車を買おう。そして、都内のタワーマンションに住み、美人な彼女も夢じゃない。––––でも、それで幸せなのか。他人からもらったお金で自分の欲しいものを買って、本当に幸せなのか。苦労もせずに手に入れて何がいいのか。薫は、目の前にある十億円をすんなりと受け取るほど、落ちぶれてはいなかった。
数十分悩んだ末、「いや、いらない」と答えた。男は案外、すんなりと引き下がり「では、ここで」と、言って出て行ってしまった。薫はそんなにすんなり帰るものだと思わなかったのでほんの少しこれでよかったのかな、と思ったが、いや、これでよかったのだ。と自分に言い聞かせた。
それからは、薫は人が変わったように勉強に励み、半年後、ずっと気になっていた税理士の資格をとり、アルバイトでコツコツ貯めたお金でずっと欲しかったバイクを購入した。
「やっぱ、自分で稼いだお金で買うのが一番だな」と、薫はバイクに乗った。
––––
ニュース速報です。十億円の偽札を所持及び使用していた疑いで、都内在住の三十六歳、無職の男を逮捕しました。調べによりますと男は「俺が作ったんじゃない。スーツの男に夢を売ってくれと言われたから受け取っただけだ」と容疑を否認しています。警察は男を通貨偽造罪の容疑で調べを進めています––––

この家だな。ええと、二十八歳で引きこもり。将来に対する希望はなし、か。こういう奴は社会にいらない存在だ。殺すこともできないし、檻の中に居てもらうしかないな。
「こんにちは」男は、徹底された笑顔で言った。
「あ?誰だよお前」
「あなたの夢を十億で売ってくれませんか?––––」
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