第五章 これ、なんてメイドの仕事でしょう

文字数 2,691文字

 玄関が閉め切られると、屋内は得体の知れない嫌な気配に支配される。
「いいか、何か動くモノを見たら、とにかく撃て」
 矢狩がそう言った途端、やけに大きな何かが遊来の横を通り過ぎ、次の瞬間には空気が(ほこり)っぽくなった。
「い、今の……」
「ムカデ」
「……はぁ!?」
 僅かな間をおいて背後で張り上げられた声に、彼は肝を抜かれ振り返る。
「うるせえな! そんなに驚く事じゃねえだろうが!」
「いや驚きますよ! あんな大きなムカ……」
 言いかけて彼女は絶叫した。
「何だよ!」
「う、上……」
「ん?」
 天井を見上げた矢狩はまた引き金を引いた。
 巣を張っていた座布団並みの蜘蛛は一瞬で煤になり、二人の頭上に降り注ぐ。
 その煤を被った遊来はまた叫ぶ。
「お前さぁ、その絶叫で魔獣死ぬんじゃねえの? つか、お前も銃持ってんだから見つけたら撃てよ。さっきみたいに煤になっちまうんだから、別にどうって事ねえだろ?」
 矢狩は呆れた様にそう言うと、薄暗い廊下を進み始めた。
「足元は片付けてやるから、そこら辺の天井にいる奴、片っ端から片付けてくれよ」
 床を、壁を這いまわる、A4サイズのゴキブリを次々と撃ちながら、矢狩は奥へと進んでいく。
(こんなの聞いて無いよ!)
 遊来は背筋が寒くなるのを感じながら、恐る恐る天井を見やる。
 天井に、これまた座布団並みの蜘蛛が一匹張り付いていた。
 気色が悪い。
 だが、撃ってしまえば煤になる。
 恐る恐る銃口を天井に向けると、途端にそれが降ってきた。
 彼女は天地がひっくり返りそうな悲鳴を上げて後ろに飛び退く。
「何……」
 振り返った矢狩は、それを見るや否や、咄嗟に引き金を引く。だが、弾が通じない。
「雑魚じゃねえのかよ!」
 魔法玉では倒せない。
 銃を手放し、腰に携えた小刀を引き抜いたが、一瞬遅かった。
 大蜘蛛は飛び上がり、遊来に襲いかかった。
 彼女に逃げ場は無い。
「いやぁ!」
 混乱に飲まれ、どこに向けたか分からない銃口から弾丸が放たれる。
 矢狩の刃が振り下ろされるより先に、大蜘蛛の姿は消えていた。
 彼は立ち(すく)む遊来を見て苦笑した。
「葡萄実の巫女の生まれ変わり、か……」
 小刀を鞘に戻し、彼は彼女に歩み寄る。
「お前はやっぱり特別だ。自信持って撃ち殺せばいいよ」
 少しだけ笑って彼は振り返る。
「さ、行くぞ」
 彼は銃を拾い上げ、再び奥へと進み始めた。



 矢狩は台所の扉の向こうに意識を向ける。
 まだ、香貴は来ていない。
「ここは俺一人で片付ける。もし、外に出た奴がいれば撃ってくれ。くれぐれも、他の部屋の扉は開けないようにな」
 遊来は息を呑んだ。
「じゃ、俺が開けるまで待ってろよ」
 ちらと後ろを振り返ってそう言うと、矢狩は素早く引き戸を開け、その隙間から闇に飛び込んだ。
(だ、大丈夫……じゃないみたい……)
 引き戸が閉め切られると同時に、何かが壁に打ち付けられた様な、何かが蹴り飛ばされた様な、穏やかならぬ音が聞こえてくる。
「げっ」
 引き戸の向こうから出てきたわけではないが、どこに居たのか特大サイズのゴキブリが遊来の足元を這う。
 慌てて撃ち抜いてふと横を見ると、やたら大きな羽根虫がこちらに飛んでくるのが見えた。
「え、えぇぇ?!」
 細い羽根虫だった。おそらく蜉蝣(かげろう)だ。だが、それにしても大き過ぎる。
 悲鳴を上げると同時に放たれた弾丸は、その細い体に命中し、不気味な影を塵に変える。
(え……どこ、狙ったっけ……)
 自分でも、なぜ、それが撃てたのか分からない。
 首を傾げていると、物騒な物音は止み、引き戸が開かれた。
「入ってくれ、食器棚の中を掃除してくれ」
 僅かな時間であったが、矢狩は酷く疲れた表情だった。
「は、はい」
 遊来は言われるまま、台所の土間に踏み込んだ。しかし、その地面は、靴底を通しても違和感があった。
 見ると、一面煤けて塵に覆われている。
「え……これ、まさか」
「バカでかいネズミの大将さんが居るかと思ったら、それ、小さいネズミの集合体でさ。もうゴキブリだかネズミだか訳が分からねえの、全部片付けたらこの様だよ」
 矢狩は壁際に置かれた机の煤を容赦なく床に払い落とす。
 遊来は銃の置き場所に困った様子であたりを見回した。
「あ、それ、預かるよ」
 気がつくと、矢狩の手から銃は無くなっていた。そして、彼女が渡した銃も、彼の手から一瞬で消える。
「じゃ、そこの棚の中の食器、洗ってやってくれ」
「は、はぁ……」
 机の向かいにある和風な食器棚を開けると、棚の中だというのに食器は煤けていて、重なった茶碗の一番上には、うっすらどころではない煤が溜まっていた。
「結界を張った時に中の有象無象を駆逐しちまったらしい。その残骸だ」
 遊来は眉を顰め、矢狩を見た。あまりの量に、配管の詰まりが心配になった。
「あ、あの、この煤……」
「あー、それなら床に撒いたらいいよ。どうせまだ部屋に押し込んでる有象無象の始末もあるし。取れない分は洗い流してやってくれ」
「は、はい……」
 遊来は色々と解せないまま、重なった茶碗の一番上に溜まった煤を床に落とした。不思議な事に、二段目の茶碗にも、三段目の茶碗にも、煤が溜まっていた。
「あぁ、やっと来たな。何してたんだよ」
 開かれた勝手口に向かい、矢狩は呆れた声を掛ける。
「裏庭に蛇が居たんだよ……結界、あんまり効いて無かったらしい」
 入ってきた香貴の青ざめた顔を見て、矢狩は座っていた机から飛び降りた。
「おい、お前、大丈夫か?」
「まあ、な……」
 矢狩は眉を顰め、香貴を壁際の机に座らせる。
「無茶しやがって」
「あんなの、前は大した事無かったんだよ……つい、この前までは」
 香貴は壁にもたれ、食器に溜まった煤を捨てる遊来の後姿を見た。
「……やっぱり、限界かな」
「香、こんな事を言うのもあれだが、あれはお前の」
「やってみたよ」
 矢狩は目を丸くする。
「だから、なんとかなったんだろう。あの血は魔力の糧として、一番の効き目だったからな」
「それでも……」
 矢狩は拳を握りしめた。
 最高の糧を得ても、銃を手にしながら蛇に苦戦するのは、その限界が近い事にほかならない。
「……もう、時間が無い。決断した方がいい」
 矢狩は悲しげに香貴を見た。
 だが、香貴は台所に立つ女の姿を見ながら、一抹の迷いを覚えていた。
 何十年という間、動く事の無かった時が、今、動いている。
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