第1話

文字数 16,476文字

Otsuka’s B-boy

目覚まし時計による7回目のアラーム。いつも通り、朝4時半、目が覚める。なぜだか腕が痺れている。けど僕は、すっかり変わってしまっていた。喉を傷めるから、一晩中冷房はつけていない。起きると、大抵首筋にうっすら汗をかいている。今日もそうだ。枕の隣に置かれていたタオルで拭う。上体を起こしてから脚を床に下ろし、ベッドに腰かける。窓は開いていて、夏の匂いを含んだしめっぽい風が部屋に吹き込む。レースのカーテンは茜色に染まり、それがゆるやかに膨らんだ。いつものように、外から可愛い小鳥のあくびが聞こえてくる。気怠そうに車は動き、新聞配達のバイクのエンジンが小気味よく動いては停まる。いつも通りの朝。
無意識に手が枕の下を探っていたが、違和感を覚えたときにはじめて、自分がスマホを探していたことに気づく。しかし、おかしい、スマホがない。けど、まだ眠いから、しっかりとは探す気が起きない。しばらく、そのままの体勢でじっとしていた。目を閉じ、一度深呼吸する。夢と現実はまだ曖昧で、混同してくる。だから惑わぬよう、きちんと「今日」について考えようとした。けれど灰色の意識下では、今日が何日なのかさえはっきりしない。顔を両の手のひらで覆う。今日、僕は、なにをすればいいんだ?
 目を開き顔を上げると、目の前には縦50センチ横1メートルくらいの、引き出しなどない薄いオーク材のシンプルな四角い黒い机が壁にぴったりとくっついた形で置かれている。その上には電気スタンド、開かれたままのマックブック、マイク、ノート、日記帳、あとはレジュメなどが散乱していた。
 机のものをつぶさに確認しようと立ち上がる。マックブックは電源がつかない。充電が切れていた。続いて日記を手にとる。ページをめくると、最後に書かれた日付は6月〇日の金曜日となっていた。すると今日は6月〇+1日の土曜日か。ともすると、僕は早朝バイトへ行かなければならない。夜は、ああ、そうか…。徐々に頭が醒めてきた。そして改めて気づく。やはり、僕は変わったんだ。昨日とは違う。おそらく、「それ」が、僕を変えたということだけがはっきりとわかっていた。バイトまでまだ多少時間がある。だから、僕を変えた「それ」を、変わった自分を確かなものにするために、日記を読み返そうと思う。立ったまま、読み始める。その日記は、一五時から始まっていた。

 何にも内容がないような日記を僕は日々詳細に綴りつづけなければならないと決めていた。

 6月〇日 金曜日 ハレのち✖✖✖(判別できない)

村上春樹、ポール・オースター、ジャック・ロンドン、チャールズ・ブコウスキー
ふむ。
サリンジャー、ミラン・クンデラ、レイモンド・カーヴァ―、ドストエフスキー
だめだ、一冊も読んだことがない。気分転換にと思って背後の壁に埋め込まれた本棚を漁っていたが、この喫茶店にはまともな本がなかった。どうりでコーヒーが濃すぎるわけだ。まともなコーヒーの濃さではない。濃すぎて、口のなかがすっきりとすることがないから、いつまでも濃くて、段々と脳がくらっとしてきて、飲み続けたいつの日にか、きっと僕は狂ってしまうにちがいない。けれどこいつはいつもだらしのない僕の脳天に一撃を浴びせるから、なかなかやめられない。捻った首を正面に戻し、またひとくち飲んだ。頭がぶっとぶ。カップを置き、鼻からコーヒーの香りを吸って口から吐く。そして、ふたたびノートに目を落とす。自分の書いた詞を、小さく声に出して読んでみた。だめだ、ぜんぜんクールじゃない。大きく頭を振る。消しては書いてまた消して書いてを再三再四繰り返す。合間にコーヒーを飲む。ぶっとぶ。書く。消す。ビーチサンダルなのにさっきからやたらと外反母趾が痛む。痛むが気にせず書き続けた。
やがて疲れ果て、ノートから顔を上げる。店の時計は15時を大きくまわっていた。机の上には、ノートとペンのほかにとっくに空になったカップとグラスが置かれていた。グラスに付着していた水滴は余すことなくすべて下に落ち、机の一部分に小さな水たまりを作っていた。水を貰おうとグラスをひょいと持ち上げて店員に合図を送るが、彼はカウンターに肘をつきながらジッドとかいうやつの本を読んでいて、こっちのことなんてちらともみやしない。声を出そうにも、店内はかなり騒々しかった。先日、レトロな喫茶店特集という雑誌に紹介されてから、人が阿呆みたく来るようになったらしい。この店に月曜日にシフトに入っているアルバイトのナナちゃんが、僕に嬉しそうな顔で報告してくれたのを思い出した。もちろん彼女は「阿呆みたく」とは言ってなかった。でもこの店でレトロさを感じるものといえば、空調から年中無休で吹き出すカビの臭いと冷淡な青い目をもつ、気味悪い3体のフランス人形くらいではなかろうか。そいつらはレジの後ろにいて、会計時に必ず目が合うんだ。店を見渡すと、1組のカップル、4人組の女子大生、あとはたくさんのおばさんたち、がうるさい。会話が10坪程度の狭い店内を埋め尽くす。おしゃべりの間断から、キースジャレットがケルンで弾く美しいフレーズが微かに聞こえてくるものの、まったく気晴らしにならず、却ってこの種の騒々しさは、僕を寂しくさせる類のものだったので、もう飲むものもないし、空調が効きすぎているせいで肌寒いし(かび臭いし)、コーヒー一杯230円という採算度外視みたいな代金を払って扉を開け、店を出た。

そういえば、今日は人形と目が合わなかったな。

 外は暑かった。けど空気は爽やかで、穏やかだった。よく晴れた空の下、初夏の日差しが僕を照りつけた。バックパックからヘッドフォンを取り出しそれを首にかけ、頭の中で適当にbeatをかける。誰かの詞はいらない。自分で適当につけていく。そして、家までの道のりを歩きだす。

(僕は徹頭徹尾、誰かの視線を気にしながら生きているから、この日記でさえ、もしかしたら誰か見知らぬ人が読むかもしれないことを念頭に書いているので、たまに自己紹介的なことを挟んでいたり、文体がおかしかったりするがどうか気にしないでほしい)

僕は豊島区生まれ大塚育ち。友達はいない。一人もいない。だけど構いやしない。何度もみてきたこの街を、肩で風切る軽快なリズムで歩をすすめ、まっすぐ駅へと向かった。家は駅の向こう側だった。喫茶店は坂の中途にあるので、ここから駅まではほとんど下り坂で、すいすいと軽い足どり。サンダルをペタペタとふみ鳴らす。
坂を下りきると、ふつうの住宅街。区民体育館、図書館と通り過ぎ、あとは家・家・家を一軒ずつ通過する。街を観察するため、すこし速度を落とす。耳を澄ませば、多岐にわたる鳥の声が聞こえてくるし、目には色彩豊かな誰かに大切に育てられた小さな花々が映る。悪臭の中にも郷愁を感じる生活の匂いが鼻孔に侵入してくる。僕は陽を浴び、生きていると実感する。平坦な道は、のんびり進むのがいい。ゆったりとしたBeatが頭のなかを流れていく。

 JR大塚駅に着く。北口から南口へとエキナカを通過。夕方は帰宅時間。多くの人たちが行き交う。改札前であの娘とすれ違った。僕は気づいて、思わず声をかけた。彼女がふりかえる。駅の音声案内や人々のざわめきのなか、無言で3秒みつめあう。そのあとほぼ同時に、2人とも邪魔にならぬよう通路の端によった。なんだか芝居じみた動作だったなと思う。
 「久しぶり」と僕は言う。彼女も久しぶりと返す。声をかけたはいいが、咄嗟のことで言葉に詰まる。彼女はじっと僕の顔をみつめていたが、とくに用がないのだとわかると、彼女の視線が顔から僕の着ていたTシャツへと移った。
 「それってピストルズ?」と彼女が訊く。
僕はセックス・ピストルズのGod Save The QueenのTシャツを着ていた。
 「うん」と答えた。いいねと彼女は言った。すると彼女は「ママから聞いたんだけど、晴哉、いま〇〇のスーパーでバイトしてるの?」
 また、うんと僕は答えた。

 ここで一時日記を中断。
(バイトか)
ベッド脇に置かれた時間だけしか示さない安物のアナログ時計をちらと見る。あと1時間で家を出なければ。けど、まだ大丈夫。日記を一度机に置き、目を瞑る。この時の彼女の姿を瞼の裏に映し出す。真新しい紺のスーツとスカート、それに黒のパンプス。髪は後ろで縛っていたが、下ろして前に持ってくると、おそらく彼女の乳首の位置に当たる長さになるのだろう。彼女の綺麗でつやのあるまっすぐな黒髪を、僕はこんな朝から独り部屋で立ったまま想像している。相変わらず、彼女は美しかった。鼻が高く、きゅっとした唇に冷涼な目元。リサ、僕の可愛い自慢の幼馴染。目を開いて、再び日記に向かう。

「そういえば、就活終わった?去年は残念だったね。晴哉のママから聞いたよ。このまえ偶然そこのドンキで会ったんだ」彼女がちらと振り返る。
「うん。今年はしたよ、内定決まった(本当はしてない)」
「おめでとう!(かなり長い沈黙)そう、じゃあ、行くね」
僕はもっと話がしたいと思ったから、駅前のスタバかロイホでスイーツでも食べないかと誘った。すると、彼女は、いきなり、あの目をしたんだ。一瞬だったけど。彼女はあの時のことを忘れてなんかいなかった。そのあと残念そうな顔を無理につくり、ママが夕飯作ってるから、帰らなきゃと僕の誘いを断った。彼女は踵を返し、さっさと北口へ歩いていく。
「あのさ!」と群衆のざわめきに負けないよう大きな声を出し、呼び止めた。大股で彼女に近づく。
「俺、いま、ラップやってるんだよね。よかったら聴いてほしい。YouTubeとかsound cloudにあるから」と勢いで言ったはいいものの、赤面しているのが自分でもわかった。
「なんて名前?」
「WAPS(ワップス)」
「どういう意味?」
「We all poopers」と早口でいう。
「ふーん。変な名前。ちなみにそれは、わたしもってこと?」
「もれなく」
彼女が口元をわずかにゆるめた。わかった、聴いてみる。じゃあ、さよなら。そういって今度は確実に去っていった。群衆の中に彼女の姿が、そして影までもが完全に溶け込むまで、僕は彼女の可憐な後姿を目で追った。
 
このまま家に帰りたくなかった。手で触れたら、頬がやっぱりものすごく熱かった。その触れた手はぶるぶると小刻みに震えていた。真っすぐ進めば家だったが、左に曲がり、高架横の狭い路地へと誰かから身を隠すようにして入った。騒々しい駅前から逃れて、いますぐに簡易的な静寂が欲しかった、誰にも邪魔されずに自分の思索に思う存分ふけられるよう。思惟はいつだって自己を救済してくれる。
路地に入り、しばらくは無心で歩いた。歩いてたら落ち着いてきたので、彼女との会話の再現を試みた。もうすでに、いろいろな種類の恥ずかしさがこみ上げてくる。自分で話しかけといて、話すことがなかったのが、まず駄目だ。「うん」という音声を僕は中空に放つ。「ラップやってるんだよね」ともいう。勇を鼓してお茶に誘ったがすげなく断られた。それにあの目。あのときの、いやあのときから卒業まで続いたあの目。昔、彼女の目はかなり好意的だったように思えた。それがあの出来事を境に一瞬にして変わったんだ。あと、ラップやってるってなんだよ。存在を認めてほしくてきっと僕はああ言ったんだろうけど、まだ彼女には聴いてほしくなかった。すごく後悔している。はぁと大きくため息をつく。時間を戻したい。反省した今ならもうすこしうまくやれるはずだ。誘ったが、拒否された。久しぶりにあの目が僕の目の前に現れた。記憶の中で幾度となく蘇ったあの目が。そのたびに心が疼いた。今もまた心が痛い。

あれこれと内省をしているうちに、いつのまにか通っていた小学校の前に来ていた。

それは懐かしい桜色の校舎だった。グリーンの校庭には一周100メートルの青色のトラックが描かれていた。アスファルト舗装だったので、転ぶと、痛みが皮膚を超え骨にまでよく響いた。十七時の鐘が鳴った。校庭では、子どもたちがサッカーをしていた。クラブ活動ではなく、私服だったから、単なる遊びなんだろう。みんなして額に汗を浮かべながら白黒のボールを追いかけていた。運動している姿は、誰彼ともわず、こちらをなんだか清々しい気持ちにさせる。人がスポーツする姿をみるのは好きだった。

ここで不思議な体験をした。僕の目が、いきなり、目の前の光景を異常なまでにくっきりと映しはじめた。まるで逆白昼夢みたいに、すべてがあまりに鋭敏だった。子ども、ボール、校舎、遊具そのすべての輪郭が妙にはっきりとしていた。理由はわからない。けどそのおかげで、僕は彼らの動きを冷静に観察することができた。イマドキの子は、とてもサッカーがうまかった。個人技なんか、ブラジル人よろしく、踊りのようなフェイントを繰り出す子がいて吃驚した。それに、縦横無尽にただ駆け回るというより、両チームに2人ずつ指揮系統がいて、彼らがうまく指示を出しながら、ひとつの秩序ある動きを作りあげていた。遊びのそれじゃないなと感心した。しばらく彼らのプレイに見惚れていたが、ここでまたひとつ気づいたことがあった。このなかに黒い羊がいる。明らかに一人だけ、パスを貰えていない子がいた。彼に気づいた瞬間、他の子たちのことはもうどうでもよかった。もう一人目立つ子がいたが、それはやけにパスを、それもゴール間近で貰って接待みたくゴールを決めていたからだ。その子は皆に囲まれ常に笑顔で、幸せそうだった。組織的な素晴らしい動きも、なんだか彼一人のためにやってるように思えてきて、気味悪くなった。
一方、黒い羊はだんだんと動かなくなっていき、徐々に積極性も失われ、校庭の隅っこで体育座りをして、それでもやっぱりパスが貰えないことがわかると、校舎の裏へとぼとぼとひとり消えていった。誰もそれをみていなかった、僕を除いては。
校舎の裏には、小さい人工の田んぼがあった。コンクリートで仕切られた土地に肥料がまかれた泥をしいて、水をはり、どこかの農家から貰ってきた苗が等間隔で植えられている。さらに奥へ進むと、うさぎ小屋がみえてくる。小屋といっても立体的に建物があるわけではなく、土を深く掘っていて、うさぎが生活できるようなスペースを作り、そのうえに金網で蓋をしていた。地面には、鼻の孔みたく寝床用の小さな穴が2つ掘られていた。雨に濡れないよう、ケージから3メートルくらいの高さに錆びたトタン屋根が付いている。小屋の隣には栗の木が植えられていて、秋になるとゴンっと音を立て小屋の屋根に実が落ちる。彼は小屋の前に立って、なかの様子を伺っていた。小屋には白い雌のうさぎが一羽、淵が少し欠けた白い皿に入った水を飲んでいた。近所のボス猫くらい大きく、少年には彼女の緩慢な動きがふてぶてしく思えてならなかった。しかしそう思うと同時に、彼女のその余裕な態度を羨ましくも思った。彼女になつかれたい、認められたいと思った。どうにか関係を持ちたい一心で毎日近づくも、なかなかうまくいかなかった。この学校の生き物係は、自分たち以外の人間が「ユキ」(なんて安直な名前なんだ!)に近づくのをよしとしていなかったから、自由に接近することさえままならなかった。タイミングよく近づけたとしても、ユキはあまり彼のことが好きじゃなかった。それは彼が子供っぽい、例えば気に入らないことがあると、すぐにケージの網をガンガン叩いたり、大きな音で怖がらせたり、網の隙間から小石のようなものを投げつけたりするからだった。だから、今日もユキは彼の姿をみとめると、穴倉のなかに一目散に身を隠した。彼は周りを確認してから、金網をそっと外し、足からそっと彼女の住居に侵入した。このときの彼はもう、すべてが気に入らなかった。委員会が所有していることも、ユキという彼女の名も、彼に懐かないことも。あとは彼がいじめたあいつ、そのことで自分のことを裏切った友だち。日々の受験勉強、自分のことを白い目で見る担任、そして家族。すべてに嫌気がさしていた。小屋の中に入ると、うさぎが逃げた穴に躊躇なく手を突っ込む。そこはトンネルみたくなっているかと思っていたが、案外浅く、まさぐるとすぐにごわごわした毛に触れることができた。触れた瞬間、ユキがひどく震えているのがわかった。それがかえって、彼の中に潜む棘を刺激した。かまわず、首の付け根辺りを感覚で見当し、そこを強く掴んで引っ張り出す。ユキは激しく抵抗した。脚をぐるぐる必死に動かし、キィキィと喧しく鳴く。彼は力をこめてラグビーボールのように抱えこむことによって制圧しようとしたが、なかなかうまく抱くことができなかった。ものすごい力で逃走を試みるので、それに対抗するエネルギーを必要とした。彼も負けたくなかった。ここで逃がすのは、男として恥のような気がしてならない。耳がピンと直立し、彼にはユキの筋肉が硬くなっていくのがわかった。暴れつづけるユキに彼は苛ついて、地面に叩きつけようかと一瞬考えた。けどやめた。やっぱり、仲良くなりたかった。しばらく我慢して掴んでいると、彼女の動きが、徐々にだが、緩慢になってきた。疲れてきたのかもしれない。ユキと同様に少年の腕も疲れてきたので、うさぎを地面にそっと置いた。けど逃がさぬよう、お尻と後首の部分は掴んだままだった。ユキは抵抗せず、全身の力が一気に抜けたかのようにぐったりと横たわった。しかし耳はまだ立ち、口はしきりにもぞもぞと動き警戒していた。少年はこう考えていた。(こんなにユキと触れ合ったのは今日が初めてだ。つまり、いま、僕は彼女を所有しかけている、あと一息だ)小屋は日陰だが蒸し暑く、彼の前髪はべっとりとして額に張り付き、脇汗がシャツに染みていた。自分の嫌な汗の臭いを少年は感じた。彼は腕を休ませることに専念した。もう一度、確実に抱くために。ユキの後頭部を左手で優しく撫でた。長い耳がだんだん寝てくる。ユキの耳が完全に寝たのを確認すると、彼はそのままゆっくりと腕をまわし、やさしく抱え込んだ。髭が腕に触れ、くすぐったかった。彼女が愛おしくておかしかった。腕の中にその重みと熱を感じた。汗とユキと小屋の混ざった香ばしいにおいがする。そして、この瞬間、遂にユキは彼のものとなった。
もし、その後ゆっくり彼女を下ろして「じゃあ、また!」といえば、二人の間には友情が芽生えたかもしれなかった。少なくとも、軽いおしゃべりくらいは断続的にだが続けられるような関係に落ち着いたかもしれない。しかし彼は愚かにも、出来たばかりのまだ浅い絆を確かめようと、無理矢理、目を合わせようとしてしまった。手をユキの脇の下に入れ赤ん坊を高い高いするように向かい合う形に彼女を動かす。目が合う。その瞬間、再び兇暴な力で暴れだした。だから彼は、それは間違いなく自分への強い拒絶だとわかり、その拒絶をどうしても受け入れたくなくて、そのまま彼女の後頭部を地面に強く打ち付けた。栗が屋根に当たるような鈍い音がし、目や鼻から血がぴゅっと噴き出た。即死だった。彼はじっとユキの肢体を見下ろす。辺りは静かだったが、自分の鼓動の音がうるさい。そして肩が上下に激しく揺れだした。手が震えている。空気が必要だった。呼吸を意識的に大きくする。鼻孔が限界まで膨らみ小屋の臭い、ユキの匂い、血の臭いをすべて嗅ぐ。下にはユキの死体があって、それはもう完全に取り返しのつかないことであった。
ふと視線を感じた。振り返ると、小柄な影と目が合う。3秒ほど見つめあったあと、影は校庭の方へと走り去っていった。呆然と、その方を見つめていた彼は、我に返ると下をもう一度みて、それを、食べ残した給食を道具箱に隠すように、100点じゃなかったテストを排水溝に捨てるのと同じ感覚で、穴の中に押し込み、その場から逃走した。

 「どうかされましたか?」門の向こう側にいるおじさん(先生だろうか)が、口調は優しいものの、顔は険しく訝しげに眉をひそめて話しかけてきた。おじさんの後ろでは、引き続き熱い攻防が繰り広げられていた。
「いや、なんだか懐かしくて」そう言いながら、僕は後ずさりをしそのまま背を向けて、また別の路地へと入ってゆく。後頭部が熱かった。子どもたちの声が段々と遠ざかっていき、住宅地特有の静かな夢のような閑寂さが戻ってきた。聞こえてくるたのは、鳥の声、バイクのエンジン音、赤ん坊の泣き声。もちろん、完全な静けさというものは、この街には存在しない。インストゥルメンタルみたいな空間が広がっている。この街にはいつだって主体的な「声」がない。

 陽が陰り、標識などの背景が灰色に染まる。住宅街を進むと、左手に教会がみえてくる。僕が小さい頃からある古びた教会。昔は白かった壁が、今では砂埃や雨によってかなり薄汚れていた。やっぱり白は汚れが目立つな、なんて考える。正面の大きな木の扉は、いつ来ても完全に閉じられていた。その扉をみて、僕はこう思う。できることならば、扉を無理にでもこじ開けて中に入り、告解などしてみたいと。僕は無神論者だけど、気持ちが暗然としたときには、自分と全く関係のない、けれど信頼できそうな人に話を聴いてほしい。聴くだけでいい、意見などいらないから。導師を求めているわけでもない。導師がいたとしても、僕の世界はきっと変わらないだろう。けど、そんな都合のいい人はいない。話を聴くだけというのは、なかなか誰にでもできることじゃない。僕は無神論者だけど、何かに縋りたくなるときがある。けれど、縋るに値するものは見渡す限りどこにもない。もしくは、かの聖者みたく突然光に照らされ、それを境に180度生まれ変わりたいと願う。変わりたい、助けてほしいと希望の目で教会をみるが、相変わらずの静寂さと威厳を保ったまま、教会はうんともすんとも言わなかった。そんなことは、当の昔にわかっていた。教会の前の掲示板には「マタイによる福音書第26章47-52節」(何年も変わらないから、覚えてしまった)が印刷され、画鋲で張り付けられていた。この言葉に関して言えば、真理だと信じているし、世界はそうあれと願っている。僕はまた歩きだす。このときの僕は、世界に対して、慎ましさと自分の弱さをさらけ出そうとして、あえて道路の端を歩いていたような気がする。

 空が再び晴れてきた。住宅街を抜け、車の往来が比較的激しい道路を2つ横断すると、今はもうすっかり緑の桜並木が真っすぐに伸びている。この道は上りになっているので、テンポよく歩きたくて、好きな宇多田ヒカルの曲を頭のなかで流すことにした。「Travelling」なんか、ちょうどいい。

 上を見る。狭い空は青色、木々はみどり、すこしまえまでは一面にピンクの花が咲き誇っていたことを思い出す。ふいに黄色のタクシーが横を通る。それによって起こされた風をひょいとまたぐ。坂をのぼり、頭がくらりとした。目を閉じると浮かぶ桜はいつも、僕と同じで風の中で揺れていた、やがてまたくる春を思いながら。

 春はこの通りにたくさんの人が集う。カップルが楽しそうに自撮りしていたり、仲睦まじげな老夫婦が花びらが舞い散るなかをゆったりと歩き、その横では必死にその花びらを掴もうとする子供たちがいて、反対側の道には、もう桜なんか目もくれず、酒を呑み騒ぐ大人たちが胡坐をかいている。楽しげな春の昼下がり。僕も、彼らと同じように、歩き、酒を飲み、花びらを懸命に追ったことがあった。けれど、花が散るように、独り涙がほろりと落ちるばかりだった。
 
 暖かな風が頬を撫でた。ふいに我に返る。

 目の間で遮断機が降りた。荒川線の通過を待つ。本来なら、僕はこの赤い車体に乗って、大学へと行かなければならなかった訳だが、今日もまた気が進まなかった。去年は8単位しかとれなかった。親は落胆し、しばらく口をきいてもらえなかった。僕は、来年こそはと嘘をついた。

 あと5メートルばかりで家だったが、帰るのにはなんだか気が進まず、公園に立ち寄った。砂混じりの土が全面に敷かれていて、ほんのすこし遊具があるだけなので、園内はがらんどうとしていた。とはいっても住宅街にあるのでだだっ広いわけではない。公園の四隅にはベンチが置かれていて、その真ん中では4人の子供たちが野球(みたいな球戯)をしていた。彼らの他に人はいない。バッター・バッテリー、外野に守備一人。公園全体を眺められるよう、僕は入り口から一番遠い、右奥のベンチに腰をおろした。
バッターは、なかなか打てなかった。青のプラスチックバットはボールにかすりもしない。するとピッチャーが敵なのにもかかわらず、こういった。
「腕の力を抜いてごらん。ボールを最後までよくみて、腰を回転させて打つんだ」
バッターは素直に頷くと、ピッチャーの方をしっかり見据えた。ピッチャーはキャッチャーのサインに頷くと、ここまで投げ続けたストレートと思いきや、まさかのカーブを選択した。ずるいなと思ったけど、バッターは動じず、脱力した構えから体を開かずにボールをよくみて、うまくミートし、守備している子の頭上をやすやすと越す特大アーチを放った。僕は「ないバッチ!」と叫んだ。バッターは被っていたキャップをひょいと持ち上げた。穏やかな日だった。遠くに見えるサンシャインは、オレンジ色に染まっていた。

 ここで突如尿意を催したので、日記を置きトイレに駆け込む。濃い臭気のきつい朝の小便を出す。豪快な放屁もした。
 部屋に戻ると、カーテンが金色に光っていた。机に目をやると、日記の下に文字がびっしりと書かれたレジュメが目についた。手にとって読むと、6月〇日と書かれていて、それは僕の筆跡でこう書かれていた。
「今日は、きっといい日になるだろう。昨日は、3時になってもうまく眠れなかった。朝の光が待てず、眠れなかったので、またあれに頼った。奥歯で何錠もかみ砕いた。朝方、頭の後ろがひんやりとし、重くて、もう死にたかった。バイトがなかったので、しばらく布団の中にうずくまっていた。9時になったら起きて、いつものようにシリアルを食べようとしたけど、キッチンではママがパンケーキを焼いていた。『珍しいね』と声をかけると、『今日、有給とったの』といった。メープルシロップたっぷりのパンケーキを朝から2枚平らげた。久しぶりにすこし2人で話をした。テレビでは朝の占いをやっていた。ラッキーアイテムなんかはきかない。順位は12位だったけど、今日は何だかいい日になる。そんな気がした」

 日記に戻る。

 僕はベンチに身体をあずけて、両手を股の上で組んだ状態で首を反らして空をみていた。銀杏の木の遥か上空を点になった旅客機が飛んでいた。その下か上かを雲がゆるく流れていた。時間もどこかゆったりと流れている。そして信じられないけど、この空の下のどこかでは、大きくて悲惨な戦争が続いていて大勢の人が今この瞬間にも死んでいる。それが、本当に、信じられないんだ。大きな戦争のことはよくわからない。けれど確かなのは、大きな戦争を起こすのは僕らではないし、被害を受けるのは僕らだということだ。この場所も、時間を遡れば、空にはアメリカの戦闘機がブンブンと飛びまわり、爆弾を投下しまくっていて、たくさんの人が死んだ。周囲の風景も、すべて灰燼となり消えていった。未来を考えるなら、いつかの日かドローンや空飛ぶ車なんかが蚊柱みたく飛びまわり僕らの空を奪うのだろう。想像するだけで不快な気持ちになる。アインシュタインいわく時間は相対的だから、いまの僕には、とってもゆったりと流れているというこの感覚は、絶対的に間違いではない。日が暮れなずむ。深く息を吸うと、それは最悪なタイミングだった。甘い香りが僕を誘うように顔を掠め、不快な気分が増す。目の前のベンチで男がアイコスをふかしていた。いつのまに現れたのか。彼は前のめりの体勢でこちらをじっとみている。30代前半くらいで、髪にはパーマが強くかかっており、日焼けのせいか頬が牡丹色に染まっていて口周りには青髭が色濃く残っていた。紺の作業着の下に長袖のぴっちりとした迷彩柄の派手なインナーを着ていた。土で汚れたワークパンツとこれまたかなり汚れた黒のワークブーツを履いている。目が合うと、うす気味悪い笑みを浮かべてきたので、僕は急いで顔を背けた。その笑みは目じりにくっきりと皺を刻む類のものだった。これまたとても不快な顔だった。しばらく俯いた後、少し顔を上げ目の端で彼を捉えることにした。彼はスマホをいじりながら、ウォッカを瓶からそのまま飲んでいた。再び目があう。彼がうなずいて、立ち上がった。僕も後に続いて立ち上がった。

 ポケットのなかの汗でくしゃくしゃの万札を握りしめ、508号室のドアの前に立つ。鍵を小銭入れから取り出し、ドアに差し込む。洗面所に入り、手を洗って、服を脱ぐ。汚穢にまみれた細く白い身体を鏡に映す。背中が曲がっていて、僕は貧相な鷺みたいだった。みていると急に吐き気を催し、洗面台に吐こうとしたが、白い痰以外は何も出てこなかった。軽くシャワーを浴び、服を着替え、リビングへ。右横から「おかえり」と言われた。キッチンでママがコロッケを揚げていた。僕は返事もせずその後ろ姿を見つめた。謝りたい気持ちがこみ上げてきて、今すぐ後ろから抱きしめ、すべてを話したかった。だが何も言えず、深緑色のソファに座った。夕刊を読み、テーブルの上を片付け、僕は2人分の白米とナスの味噌汁をよそい、ママはコロッケをサラダと一緒に大皿に盛りつけそれをテーブルへと運んだ。向かい合う形で食卓に着き、いつも通りの2人の静かな食事が始まる。時々口の中で苦味が起こるが、それを水を飲んで薄める。食べたものがそのまま出てきそうになるのでバレないようテレビをつけ、野球中継を熱心にみているフリをした。
「今日、パパに会った」とママが言った。
「そう」と僕は答えた。目を合わせるのが辛かった。食べ終え、自分の食器を流しにもっていき、洗剤をつけてスポンジで洗い(洗いながらリリックを考え)、拭いて(拭きながらもリリックを考え)食器をもとの場所に戻し、in my room。スイッチを入れると、蛍光灯が白く点るが、中に溜まったコバエの死骸が目につく。蒸し暑かったので、窓を開けた。日は沈み、外には青黒い薄暗がりが広がっている。ここからだとサンシャインシティがよくみえる。栄光のサンシャインシティが白く輝く。音楽がはっきりと聞こえてきた。どうやら隣の部屋の住人も窓を開けたらしい。隣は、確か、高校生くらいだった気がする。顔はみたことないが、制服を着ていて女の子だったと思う。彼女の部屋からは、いつもジャズが聞こえてくる。今日もそうだった。彼女のお気に入りはコルトレーンだ。僕も好きだったので、上の階の酔っ払いから怒鳴られることがあっても、無視して僕も彼女もかまわず同じ音楽に聴き入っていた。部屋に会った飲みかけのペットボトルはぬるかったので、飲まないでベランダに置かれたトマトの苗木に全部やった。リリックを書くため机に向かったが、なんだか気持ちが落ち着かないし、何も思いつかないので貧乏揺すりが段々と激しくなっていき、下の階の人に地震と勘違いされたら困るかなと思って、外に出ようとドアを開けた。家を出る前にリビングをちらと覗くと、ダイニングテーブルでママが、額に手を当てながら眉間に皺をよせ、家計簿をつけていた。
 
 さきほどの公園に戻る。夏を知らせる虫の音が聞こえ、遠くでは車が忙しく往来しているのがわかる。誰もいなかった。今度は入り口に一番近いベンチに座った。穏やかな夜の、やや湿った風が、時折身体を撫でつける。自販機で買った缶コーヒーを握りしめ、頭のなかでビートを流す。僕はよくこうやって、思考を言葉にして、頭を整理するのだ。

「ここに越してきてたのは12歳の頃、といっても駅の反対側のアパートに住んでいただけだ。そのときから何も変わらないこの光景。13,14,15,16あの頃から独りで過ごした夜中の公園。現状はいまもずっと平行線。20を超え、21,22,23。もう後戻りはできねぇと自らに言い聞かす」
「これといったバックボーンはない、普通の一般家庭。いつまでも白うさぎを追い続ける小学生から変わらない虚弱な知性で、現実からいつも逃げてきた。マイクの持ち方で、初めてのライブで、ネットにアップした曲で、これまで何度も高笑いされてきた。ママにたくさん嘘をついてきた。そのたびに無駄なものに頼り、現実と向き合うことから逃げてきた。けど、そろそろ嘘にも倦み果ててきた頃だった。僕はもう、そんなことやめたいんだ。ただ歌いたい。高級車も社会的地位もなんにもいらない。拝金主義でも物質主義でもない。だってマテリアルビッチじゃこの先無理だから。やりたいからやる。みんなを楽しませたいからやる。僕には、これしかないと思ってる。端的な表現で繰り返す破壊と再生。やるごとに変革する己自身、を目指してただやるだけ」
「僕に与えられた運命に、堂々と立ち向かえるかとここで自分に問いかける。いや、やっぱり、わからない。僕にできるのかな?未完成だし、不安定で、未来に当てなんてない。普通に大学を出て就職しようかな。僕はまだ、たかが23じゃないか」

 夜の散歩をしようと思いつき、公園を出る。線路を渡り、コンビニエンスストアで350mlの缶コーラを買った。変わらず脳にはbeat、片手にコーラ。両手を広げ感じる夏の夜風ほど気持ちいいものはない。下る並木道、いつ来ても閉まっている教会、いつまでも卒業できない学校、ほろ酔い気分で街を闊歩する。夜の静寂のなか、ひときわ白く光るコインランドリーに吸い寄せられた。入口のガラスドアのところにはスプレーでたくさんのアルファベットが落書きされていた。ドアは開け放されていて中から美しい詩が聞こえてきた。覗くと、浮浪者のおじさんが洗濯機相手に身体全体を使って素晴らしいリリックを生み出していた。彼の口から出てくる言葉たちに、そのあまりの豊かさに、僕は敬意を払わざるを得なかった。その奥には、白いヘッドフォンを付け、紺と白のヨットパーカーを着たボブの女の子が、ビーサンを脱いで、素足のままベンチの上で胡坐をかいて、眠そうに非常に円環的な運動を見つめていた。こちらの視線に気づいたのか、彼女と目が合う。猫みたいだなと思った。よっという感じで彼女が手を挙げたので、僕も手をふった。なぜだか、彼女とはまたどこかで会えそうな気がした。まだまだ歩く。無意識にいつもの場所に着いたが、今日はそこへは行かず、バチバチというネオンが漏電している音に導かれるよう階段を昇る。そこはバッティングセンター。1回300円。万札を崩す。100㎞の打席に立つ。最初の3球は空振り。けどあの言葉を思い出す。「腕の力を抜いてごらん。ボールを最後までよくみて、腰を回転させて打つんだ」僕はあの子と変わらないようなきれいなホームランを打った。清々しい気持ちで、打席を退く。けどここは近いうちに閉店してしまうらしい。だから、この日記に忘れられないよう記しておこう。腕にかすかな疲労を覚える。
大塚駅に戻ってきた。人々のざわめきのなかで、ひとり目をつぶる。もう、この街は、これ以上はないというほど、十分に感得した。どこでもいいから、はやくでたい。けどno moneyじゃあ、ここを抜け出す方法がねぇ。だから、明日もバイト、帰宅したら音源を作りつづけよう。そしていつまでも、さらに遠くへ命ある限り進んでいきたい。
 飲み屋がひしめく商店街を通る。コロナも明け、マスクを外し、金曜の夜はみな好き好きにのむ陽気な雰囲気。サラリーマンがひとり、アスファルトのうえに四つん這いになって道の端でえずいていた。なかなか分解できないアセトアルデヒド、それをよく眺めていると、口から豆腐のサラダ、ポテト、枝豆がまざったものが出てきた。おお、ゲロのしぶきは…やっぱりただのゲロでしかなかった。
 遠くに見えるのは池袋。ここは豊島区、消滅可能性都市。店の中では、いい年した大人たちがスマホを片手にみんなで、ハイチーズしてそれから鏡月のソーダ割を飲んでいた。僕はインスタに載ってるようなクソみたいな人生は歩みたくない。それはただの一瞬で消えてしまうような、誰の記憶にも残らないチープなモノガタリだからだ。夜は酒飲み、休日は家でゲームなんて終わってるから、そういうやつらは死ぬほどダサいと思ってる。
明日の夜、僕は、2回目のライブがある。また笑われるかもしれないけど、もうやるしかないんだ。

 ふいに雨の匂いを感じる。夜だったからわからなかったけど、いつのまにか空を分厚い雲が覆っていた。降り出すまえに急いで帰らなければ。

 にわかに雷鳴が轟いた。随分と近くに落ちたらしい。突風がものすごい勢いで僕の周りを駆け抜けた。これから嵐がくる。急いで帰らなければと考えて、家まであと10メートルの道を走ろうとしたそのとき、僕は本能で立ち止まった。その身体に容赦なく雨が鞭のように当たる。身を知る雨とはこのことか。篠突くような大雨が、わが身に降り注いだ。線路沿いには、薔薇が咲いていた。雨の痛さがあまりにも心地よかったので、さっきのサラリーマンみたく膝をつき、映画「プラトーン」よろしく両手を天にひろげる。すると、鋭い光が僕の目を突き刺し、破裂音が耳をつんざき、なにも見えなく、なにも聞こえなくなった。しばらくすると、雨の音がきこえ視界も戻ってきた。僕はどうしてだか、一歩も動けなかった。それから雨は、僕の弱さと臆病と未熟を洗い流した。再び閃光が矢のように僕を突き刺す。光のなかで一瞬の静寂が訪れた。光が治まると、再び雨の音がきこえた。長い時間うたれたせいで、呼吸ができなかった。雨が僕を溺れさせる。再び光が僕を刺す。静寂が訪れる。それが何度も何度も繰り返された。やがて、すべての感覚が失われ、段々と意識が朦朧としてきた。苦しい。誰か助けてくれ。呼吸をしようにも、雨で、吸えない。みようにもみえない。聴こうにもきこえない。声を上げようにも、喉の奥がきつくしまりうめき声以外は何も出てこなかった。両手を地につけ、僕はもはや祈ることしかできなかった。そしてとうとう、意識的に呼吸をすることをやめた。誰かに助けてもらうこともやめ、自分の中に深く深く入り込むことにした。このまま眠ってしまいそうだった。すると、頭のなかであのビートが流れてきたんだ。ふいに我に返った。気づくと雨は止んでいた。薔薇の花びらはすべて地に落ちていたが、僕は死ななかったんだ。立ち上がって急いで家に戻り、身体にすっかり張り付いた服をはぎ取って洗濯機に入れ、シャワーを、もう一度長い時間かけて浴びた。すっかり冷えた身体をしっかり温めた。目と鼻を丹念に洗う。清潔な白のバスタオルで体を拭き、髪をドライヤーで乾かし、パジャマを着て、歯を磨いて、部屋に入りドアを閉めた。机に向かう。水で喉を潤す。マックブックからフリービートを流し、そこに浮かんだ言葉をのせる。
僕は、小節にすべてをかける。それをここで誓う。僕にはこれしかないから。
僕に与えられた運命に、堂々と立ち向かえるかとここで再び自分に問いかける。まだ、たかが23じゃないかと浮かんだがいや、されどもう、23なんだ。歩む道が妄想だと言われても、実は間違っていても、もうそうだといいきかすしかないんだ。アドバイスは有難迷惑で余計なお世話、道は自分のやり方で切り拓く。いや、時には重要か。非難や糾弾、助け、すべての声を、この耳で受け止めたい。

 僕は、死ぬ前にすべてを感得したい。見えるもの全部、見たい。聞ける音全部、聞きたい。目に見えないものとも、出会いたい。そのことで親に勘当されようとも、死ぬ間際に感動できるのならその方がずっといい。しかし出来れば勘当はされたくないし、家族は必ず守っていこうと決めている。どうなるか、わからないが。
ペンを握り、今日のことを余さず日記に記しておく。スマホなんか邪魔だから、捨ててしまえ。さっきが嘘のように外は静かだった。電気を消し、不安だけど自分ののびしろを信じ、奮えながら眠ることにした。部屋に月の光が射しこみ、机の上のものたちを黄金色に輝かせた。大丈夫、きっとうまくいく。錠剤はゴミ箱。僕は変わる。それをここに証言する。最後に、話はこの文章の最初に戻る。
                  終
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