(0) 水辺にて (rewrite ver.)

文字数 3,852文字



 その人はようやく歩みを止めて、前方を見晴かした。
 空は下方から上の方へ、藍の程度を強くして、海の際とは朱く混じり合っている。そして視界の下方に広がる海はどこまでも白く砂の色を映している。
「『再生の時』には間に合わなかった、かな」
 光炎が世界の向こうへ消え、影の時間が始まる「再生の時」。もっとも星海(せいかい)が美しい瞬間だ。最後に見てみたいと思いつつ、結局完璧に叶うことはなかった。
 目の前には星海。自分の周囲は全て白い砂。
 昼間によく見れば「星海」の由来である、赤と黄の砂粒がまばらに混ざっていることを確認できるが、今となっては全く分からない。
(駅からここまでが遠すぎた。歩くって大変だったんだな)
 それでも、自分が再生するのは星海でなければならない、と頑なに決めていた。理由はない。単に星海を見てみたかっただけだ。
 踵が痛む。靴と擦れあった皮が剥けている。見なくても分かる。それでもここまで来た証だ。甘い痛みにぼうっとなる。
 紺の上着を捲り、茶色く汚れた下着を捲り、腹を見てみる。真っ赤に色が変わっている。左手を当てると痛みだけは和らぐが、完全に消去はしない。跡は消せない以上、多少は痛まなくては不自然だ。
 喉も痛む。外側からは痛む原因が分からないが、右手を添えると赤く爛れているのが分かる。この程度のものは別に生きるのに影響ないが、喉が痛いのは辛い。のちの為に、完全に消去しておく。飲食するのにも喋るのにも不便だ。
「ああ、疲れたな・・・」
 空の朱は完全に青に置き換わり、上方はより黒く変化している。
(あ、そうだ・・・大事なことを忘れていた)
 その人は、慌てたように水際に近寄って海を覗き込む。
 遠浅の星海は艶やかにそこにある。しかしその面には何も映らない。視線の奥には白く浮かび上がるように光る砂が見えるだけだ。
(ああ、星海は何も映らないんだったか・・・今の私の顔は、大丈夫なんだろうか)
 汚れているのは構わないが、どこか何か変化していないだろうか。痛みがない分、何も想像出来ない。右手でつるりと撫でてみるが、何も分からない。
(まあ、いいや。多分、大丈夫だと思う)
「あ、髪っ」
 左手で、長く伸ばしすぎてしまった髪を引っ張る。一つにまとめてある髪の束を強く握り締めるが、何も変化しない。視界の端には青紫の乾燥した髪がみえるだけだ。
「どうしよう・・・これでは早々に見つかってしまう。何とか、色を変えられないか」
 しかし今更、どうしようもない。今まで気付かなかった自分の不明を悔やんだって遅い。そもそも一般的な染材で染め替えられるとも思えない。
(せめて、短く切ることが出来れば・・・ダメだ、今は何も持っていない)
 髪については諦めることにした。珍しいとはいえ、唯一無二の色ではない。たまに「人」もこの色を持つ者がいる。そもそも子どもの頃、同じ村にもう一人紫の髪の子がいた。
「まあ・・・あそこは特殊な場所だったけれど・・・。・・・ああ、もうあまり気力が残っていない。そろそろ、終ろう」
 もう一度、星海を広く見晴るかす。おそらく世界で一番美しい場所だ。本当に何もない。
 空には、赤星と青星がちょうど左右に隣り合って見える。明日からは十二月、もうすぐ一年が終わる。世界も再生に向かっていく。自分が再生するにはちょうど良い時だ。
 その人は両足を肩幅に広げ、砂を強く踏み締めた。
 両手を顳顬(こめかみ)に添えると、大きく息を吐いた。
「さようなら、私」
 全身がどんどん熱くなる。まるで光炎にでもなったみたいだ。十二月の夜なのに、とても熱い。
「初めまして、私」
 その人の呟きすら、熱にかき消されてしまった。





《≪・・・つまり『生命記録の紛失者(ライフログ・ロスト)』は、『アクマグイ』のエサになってしまうということです。そのため、みなさんはぜったいに『生命記録』をなくさないように、気をつけましょう。
                   (「たのしいどうとく」より一部抜粋)≫》





(さて、ここはどこだろう)
 その人は、ぼんやりと考える。
 辺りは暗い。自分の足先がやっと見える程度の明るさしかない。
 しかも恐ろしく寒い。無風だが身体が締め付けられるような寒さに包まれている。
 視線の先には、見渡す限り水しかない。ずっと先の方で、水と空が曖昧に境界線を造っているのが見えるが、それ以外は何もない。
 足元に視線を向ければ、白い砂にまばらに黒い粒が混じっているのが辛うじて判別できる。その砂場と水も曖昧に境界線を描き、時折緩やかに揺れる。
 足には黒い靴を履いている。紺色のズボンを履き、見える範囲では紺色の上着を着ている。何かの制服のようであるが、それが何を示すのかは、その人には分からない。
(気付いたら、知らない場所にいる、という経験は初めてのような気がする)
 その人は、ふと思いついて、一つに纏めてある青紫の髪をギュッと引っ張った。想像していたより長かったのか、驚いたように頭を振った。
(あれ、こんなに長かったかな。いや、分からないけど、もっと・・・違っていたような)
「おい、お前!何やってる!!」
 その人の背後から突然声がかかった。怒気を強く吹きつけ、声の主は姿を現した。
 その者は、間違いなく静かに空から降ってきた。ふわりと着地すると、いきなり彼の人の腕を掴んだ。
「何だ、お前、自殺でもする気か!?」
 頭ごなしに怒鳴りつけた。それを彼の人は驚くでもなく、ゆっくりと振り仰いだ。
「あ、私ですか?」
「他に、誰がいるんだよ」
 苛々しながらその者は言った。左腕は離さず、ぐいっと自分の方へ引きつける。
「・・・ああっ・・・お前、生命記録(ライフログ)はあるか?」
 その者が瞳の奥を覗き込む。彼の人は慌てて顔を背けた。
「あ」
「お前、生命記録、無くしてないか?」
「・・・生命記録」
「持ってないんだな、そうか・・・やっぱり」
「・・・」
 その者は、自分勝手に何かを納得して、黙考する。彼の人は茫然としてその終わりを待っている。
 随分長い思考の後、その者は重々しく口を開いた。
「俺は『拾助者(キャッチャー)』だ。・・・お前、俺の助けがいるだろう?」
「きゃっちゃー・・・? ・・・ すみません、聞いたことのない言葉ばかりで、理解出来ないです」
「ああ? ・・・ええっ・・・どういうことだ?」
 その者は、全く予想していなかった反応に明らかに戸惑っている。え、とか、どうして、などとボソボソ言っている。その妙に親しみの湧く様子に、彼の人は安心したように口を開く。
「私、気付いたらここにいたんです。それまでのことが思い出せないみたいで。私、これからどうしたらいいんですか? 貴方、私のことをを知っているんですか?」
 言葉の内容とは裏腹に差し迫った様子がない。
 拾助者と言った者は、大きく溜息をついて、言い捨てた。
「お前なんか、知らん」
「あ、そうですか」
「でも、お前がこれからどうするか、は知っている」
「・・・どうしたらいいんです?」
「俺に大人しくついてきて、大人しく俺の指示に従う」
「・・・本当に?」
「本当だ」
 拾助者と言った者の、威厳たっぷりに言う様子に、若干の不審感を滲ませながら、彼の人はうなづいた。妙に晴れやかな笑顔を浮かべている。
「・・・まあ、いいでしょう。何が何やら分からないまま、ここに立っていても仕方ありませんから。どんな危険が待っているとしても、ここにいるよりはいいんでしょう」
 独りでぼんやりしていて、おそらく少しは心細かったのだろう。安心したように息をついた。
 それを大きな溜息で吹き飛ばし、その者は微かな声で言った。
「ここにいたら『悪魔喰い(ダストホール)』に食われるぞ」
「?」
「・・・それも忘れているのか」
「・・・知らない言葉です」
「お前、村学校で習わなかったのかよ、アクマグイに食われる話」
 その者は、心底呆れて投槍に言う。そして彼の人を置いて、歩き出してしまう。ちょうど水辺を背にして、大きく音を立てながらどんどん歩き去っていく。
「・・・多分、覚えていないだけだと思います」
 村学校は聞いたことがある気がする、とブツブツ言いながら、その人は慌てて、空から降りてきた者の後について歩き出した。
「前もって言っておくけど、ここから、すんごく遠いからな、俺の家」
「?」
「・・・もう、いいや、面倒くせ。・・・ああ、俺はタカトウだ。そう呼ばれている」
「はあ」
「お前の呼び名は・・・覚えてないか」
「いえ、それは知っています。マルヤマです」


(こいつ・・・俺が上から降りてきたことに気付いているはずなのに、驚かなかった。まさか、同族か? ・・・いや、おそらく、その意味が分からないのか・・・)
 青紫の髪。それは、その人が、純粋な「人間」でない事を表している。
(多分、俺はヤバイモノを拾ってしまったんだろう・・・あー面倒くせ)
 タカトウは長い足で砂を蹴立てるように歩きながら、そっと額を押さえた。
 そして、後ろからついて歩くマルヤマが、足音を殆どたてない事も、彼を不安にさせている。
(・・・もし同族だったら・・・こいつ自身が『給仕(ホールキーパー)』の可能性も、あるか・・・)
「いいえ、私は、ほーるきーぱー、じゃありません。・・・ような気がします」
「ああ? ・・・お前、俺の心を読むのか」
「声が漏れています」
「・・・そうか?」
(本当に?)
 タカトウは、もう何も考えずに歩くことに集中することにした。
(こいつは危ない・・・得体が知れない)
 周囲はほとんど闇に沈んでいる。しかし二人の姿は危なげなく、その闇の中に消えていく。
 世界の再生まで、あと一月。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み