第3話 性の目覚め

文字数 1,929文字

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 当時、僕の母はここに住む若い女子たちを郷里の親御さんに代わって見守る、皆の母親的な存在だった。元のオーナーであった父が早くに亡くなり、その跡を継いで女手一つでこの大きな賃貸住宅を切り盛りして来た。

 つまり寮母でありオーナーだ。そして僕は生まれた時からずっとここに住んでいる。

 昭和三十年から四十年代、この国が高度成長期真っ只中だった当時、中学や高校を出たばかりの、いわゆる〝金の卵〟と呼ばれる若者たちが、地方から都会に集団就職で大勢やって来ていた。その若者たちを安心して預けられる受け入れ先として、ここは最適な住居だった。

 安い。清潔。安心。三つ揃った寮だから美芳館は一階と二階合わせて三十六室あったが、いつもほぼ満室だった。朝と夕方には多くの若い女性たちの出入りで賑わっていた。

 朝の早い労働者たちの就寝は早く、午後十一時には皆早々と眠りに就いた。テレビもすぐに砂嵐だし、深夜の娯楽と言えばラジオぐらいだろうが、都会の生活に慣れない若者たちは、体を休めて明日の仕事に備えることを優先した。皆、まじめな若者たちだ。

 前述した通り、かつてここは女子寮ではなかった。建てられた当時の美芳館は独身限定で男女は問わず、しっかりした保証人さえいれば誰でも部屋を借りることは容易かった。しかし、近隣に数軒の大きな病院やその病院の経営する看護学校があるものだからいつのまにか住人はその関係の、しかも独身女性に限られて行った。

 病院の人事部と契約している不動産屋が毎年春になると高校を出たばかりの若い女子を大勢連れて来る。彼女たちは、病院で働きながら看護学校に通うナースの卵たちだ。

 また看護学校を卒業して資格を取っても居心地が良いのかそれなりの給金をもらっているにもかかわらず、ずっとここに住み続けるベテラン看護師や助産師たちもいた。まあそれだけ母は内にも外にも信用されていたのだろう。

 当時はまだ、若い独身女性が安心して住める安い賃貸物件が少なかった。そこで、父が亡くなった後、引き継いでここを経営している母が、最後の男性住人が出て行くのを機に独身女性専用のアパートに方針を変えた。

 理由は単純だ。母一人で大人数を管理しなければならないこと、そしてアパートの治安を守る義務があることだ。男はただでさえ薄汚いのに酒を飲んで騒いだり、中には隣室の女性にちょっかいを掛けたり、母一人の手には負えないことも多く、何かと物騒だ。

 単純に言えば、部屋を貸すに当たって男は信用ならない。つまりはそう言うことだった。それ以来、幸か不幸かここに男は僕しかいない。

 学校で男友達たちに「お前、いいとこに住んでるなあ」と羨ましがられることもしばしばあった。当時の僕にとってここはハーレムだったのか? いやとんでもない。女性は男とはまったく異なる別の生き物で、常にきらきらしたイメージを抱いている男性たちの夢を壊して申し訳ないが、僕はよく知っている。そいつは妄想以外の何物でもない。

 女であっても同じ人間。一歩家を出ると美しく別人のように着飾った女たちも、あるいは、病院で白衣の天使などと称される彼女たちも、ここへ帰り、化粧を落として部屋着に着替えた途端、色気もそっけもない一人の〝人間〟に戻る。

 中身は僕たち男と何も変わらない。夏ともなれば、例の洗濯場での水浴びもそうだが、廊下ですれ違う女性たちは皆どの子も化粧っ気はなく、よれよれのTシャツにショートパンツ姿で、スリッパをぺたぺた音を立てて中年男のようにだらしなく歩いている。朝の洗面では男同様に手鼻もかむし、もちろんオナラだってする。同性しかいない生活の場では肌を晒すことにも、シモのことにすら自由奔放だ。

 僕の母に見つかると、口煩く、「若い女子がはしたないからやめなさい!」とよく叱られていたが、彼女たちも「エヘヘ」と笑う始末だ。

 しかしあまりに破廉恥なことをして母の逆鱗に触れ、親元に呼び出しが掛かり退居の運びとなることもあった。それが良いのか悪いのかは判断しかねるが、僕は今までそんな女性たちをたくさん見て来た。

 そういう女ばかりがわんさか住んでいる場所で生まれ育っただけあって、僕は他の男性よりも性の隔たりと言うものをほとんど気にしたことはなかった。

 だが、僕はある日を境に変わった。以前は何とも思わなかった、物干し場で干された下着を見ただけで興奮する一人の男に成りつつあった。

 そのきっかけとなったあの日、僕は初めて宮崎ユキさんに出会い、そして目覚めたのだ。あれはおそらく、真の意味で僕にとっての遅い初恋であり、性の目覚めであったに違いない。
                                    続く
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