第3話

文字数 1,337文字

 久仁町は周囲を山に囲まれている盆地な割には、それなりに大気の流れが安定しているため朝の湿度が程よい日が多いように思う。
 真っ青な空と気温が上がる前の、僅かながらヒンヤリとした空気。このまま続けば夏場の理想郷なのであるが、真に残念なことに散歩日和なのは後一刻程度だけだろう。それ以降は地上の全てを焼かんとする日差しと、うだるような熱気の立ち込める灼熱地獄が出来上がる。
 つまり活動は早い方が良い。
 適当に入ったホテルのモーニングコールを受けて目を覚まし、洗面所にてヒンヤリとした水で顔を簡単にバシャバシャ洗う。それから己の毛がやたらと落ちてはいまいかとベッドを確認して部屋を出た。
 「起きているかね?」
 隣の部屋の扉を叩く。間もなく出てきたのは、なんとも弱ったような顔をしたヒバリの姿だった。
 「どうしたのかね、その顔は?」
 「このような場所に入ったのは初めてでして、とても怖くて……。」
 聞いてから昨日の出来事を思い出す。
 そう言えば部屋を別々にすると決めた時に、一回のロビーではまったく気にした様子は無かったがいざ部屋の階まで上がるとガタガタと震え出し、同じ部屋に泊まれないかと執拗に尋ねて来たのだった。
 今いる階は地上より凡そ三十メートル、木の上程度までしか経験のないヒバリには高過ぎたのだろう。
 「慣れる事だな。人の世では利器により高い場所へ行く機会もそれなりに出て来るぞ。」
 「そんなぁ……。」
 絶望に打ちひしがれた声だ。今、飛行機の話をしたらどうなるだろう。そんなイタズラ心はそっと隠して、ヒバリの部屋も同じように確認し少しばかり片付けてからチェックアウトに向かった。
 このまま山に帰ってしまうのではないかと心配になるほど悪かった顔色は、エレベータにより一階のロビーまで下りてしまえば元通り。寝不足の影響と緊張からの解放により多少瞼が重くなってしまっているようだが、歩いているうちに目は覚めるだろう。
 ダメなら適当な場所で昼寝でもすれば良い。
 外は既に多くの人が行き来している。スーツ姿が多い事から、これから仕事へと向かう一団であることが容易に分かった。
 「問題だ。今通り過ぎたバスに乗っていた人間で、タヌキが化けていたのは何人だ?」
 唐突な問いに不意を突かれたようにワタワタと慌て、既に目を凝らせば唐牛で後部の窓が見える程度までに離れてしまったバスをヒバリは探した。
 「えっと、えっと……七人?」
 「ハズレ、ゼロ人だ。」
 ヒバリは“え?”という顔で吾輩を見る。それから意地の悪い問いを出されたのだと理解して、その頬を怒ったフグのように膨らませた。
 「そう膨れるな、毎日こうやって見破る力を養っていくのも大切ということだ。」
 カカ、と笑ってそう諭す。
 そう言われてもヒバリの方は面白くないらしく、膨れた頬は暫くそのまま萎むことは無かった。
 ヒバリを連れ立って商店街へと向かい、そこで適当な店に入って適当な食事を取った。
 食事の際に利用する道具の使い方は思った通り全くダメで、箸はグーで握り、フォークで卵を割ろうとしたりスプーンを魚に差そうとしたり。あまり人目の多いところでの食事はしない方が良いかもしれない。
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