全1話

文字数 26,631文字

 美桜が突然姿を消した。ラインを打っても既読が付かないし、メールを送っても返事は帰って来ない。電話を掛けても「電源が入っていないか電波の届かないところに居る」旨のアナウンスが繰り返されるばかりだ。休憩時間に、また、ちょっとした合間を見つけて、何十回そんな動作を繰り返したことだろうか。その日一日、仕事にはまるで身が入らなかった。
 仕事が終わってからマンションを訪ねた。なんと引っ越してしまっていた。それも、慌てて引っ越したという事では無く、契約期間の満了に伴って退去すると言う話が以前から出ていて、きちんと挨拶した上で、管理人に鍵を返して昨日引っ越して行ったと言うのだ。引越し先は聞いていないと言う。週に一、二度部屋を尋ねていたので、管理人は私を知っている。交際していることを承知しているのだ。だから、引越し先は私の住まいだと思っていたようだ。逆に、引っ越しの手伝いに私が姿を見せなかった事で、忙しいのかと思ったほどだと言う。六十年配で人当たりの良い管理人は、私が美桜の引っ越しに付いて何も聞いていなかったことを知ると、驚き、且つ気まずそうに困惑した表情を浮かべた。もちろん、私の気まずさはその比では無い。思考を巡らす事も出来ず、上の空でそそくさとその場を離れた。
 美桜は既定の行動として姿を消した事になる。なんだこれはと私は思った。この状況を聞けば誰でも、何らかの理由が有って美桜は私から逃げたと思うだろう。しかし、管理人も承知している通り、私は美桜と交際していたのだ。ストーカーのように追い回していた訳では無い。だから、何が起きたのか推測すらも満足に出来なかった。
 一般的に言って、付き合ってはいたが、急に嫌になると言う可能性は無くはない。しかし、暴力的に支配していた訳でも無いのに、逃げる理由など無い。美桜と揉めていたり考え方にズレが出ていたと言う自覚さえも、私には無いのだ。美桜がそれらしい不満を訴えていた覚えも無いし、喧嘩もしていない。ならば何なのだと、私は思考の迷路に入ってしまった。
 コンビニ、スーパーを始め、ファッション・ショップからヘアーサロンまで、彼女が行きそうな店を巡ってみても、もちろんその姿を見付ける事は出来なかった。引っ越してしまったのだから、今迄の行き付けの店に現れるはずも無いのだが、そうせずにはいられなかったのだ。
 そんな馬鹿なと思いながらも、一方では、私を嫌って姿を消したと認めざるを得ないのかとも思った。何ヶ月も前から、契約期間満了に伴って契約を更新せずに立ち退く事は決まっていたのだ。その間に私は何十回となく美桜に会っているのに、彼女は私に、引っ越しの話は一度もしていない。私が騙されていたと言うことなのか? そう思った。

 付き合っていた彼女が或日突然姿を消す。ニュースなどで時たまそんなケースを目にすることは有る。結末は大抵、女性が事件に巻き込まれたか、結婚詐欺のどちらかだ。美桜は既定のこととして引っ越しているのだから、事件に巻き込まれたと言うことは考え難い。当然、結婚詐欺と言うケースにも当てはまらない。私が美桜の為に使ったのは、通常のデート費用と誕生日などに贈ったちょっとしたプレゼントのみだ。世間並みの金額で、分不相応な金額を使った訳では無い。指輪さえまだ贈っていないのだ。だから、そう言う目的で美桜が私に近付いていたと言う可能性も有り得ないのだ。これでは、警察に相談することも出来ない。何かの手掛りを見付け、それを元に自分で探すしか方法は無いのだ。

 美桜の実家は群馬県の館林市だが、城沼公園の近くというだけで、それ以上詳しい住所を私は知らない。まだ、結婚を決めた訳でもないので、実家を訪ねる必要も無かった。メアド、電話番号を知っていて、日常はラインの遣り取り。現住所であるマンションに出入りしているのだから、それで十分だった。実家の詳しい住所など知る必要も無かったし、コロナ禍で美桜自身も一度も実家には帰ってはいない。改めて考えてみると、私は、美桜を探す手掛りを何も持っていないのだ。

 初めて美桜に会ったのは、この春の事だ。令和三年四月から実施されていた「地域観光事業支援」の県民割が令和四年七月十四日宿泊分まで延長されたため、ブロック割り目当てに私は一人旅に出た。大抵、旅は一人で行く。学生時代に四、五人の友達と沖縄旅行を計画した際、中々日程が決まらず、決まったと思ったら都合が悪くなったと言い出す者が二人も出て、結局流れてしまった事が有った。楽しみにしていただけに、苛立ちだけが残った。それ以来、人を誘うのが面倒になり、一人旅を好むようになった。海外にも一人で行った。国内旅行の場合は、休みが取れて懐具合に問題が無ければ、思い立ったら直ぐに出掛ける。予約無しで出掛ける事さえ有る。途中でスマホから予約を入れるとか、当日、部屋が空いていなければ、観光ホテル・旅館ということに拘らず、ビジネスホテルだろうが、最悪、サウナ、ネットカフェだって構わないと思っている。
 しかし、やはり観光ホテルは泊まり心地が格段に良い。その旅では、水上(みなかみ)に有る“松乃井ホテル”で露天風呂を満喫した。庭園の中に木々の間を縫う形で、それぞれ特徴の有る露天風呂が三つも配置されていた。食事にも満足し、快適な部屋で一晩を過ごす事が出来た。
 ただ困ったことが一つ生じていた。問題は地域ブロック割りの一部として貰える二千円のクーポン券の使い道だった。マンションでの一人暮らし。近所付き合いも無いので、ホテルの売店で土産物を買う必要は無い。観光は前日に済ませていたので、直ぐに帰ろうと駅まで行った。駅近くの店で使えば良いと思ってのことだったのだが、クーポンを使えるところが全く無いのだ。まず、駅近辺に店が少ない。有るのは食堂や喫茶店だけなのだが、半分は閉まっている。それに、ホテルのビュッフェ式朝食を腹いっぱい食ってしまっているので、食事どころかドリンクを飲みたいと言う気も起こらないのだ。自分のものを何か買おうと思っても駅の近くには売店は元よりコンビニすら無い。商店街は駅からかなり離れていて、歩いて行けないことは無いがバスで行くほどの距離が有る。松乃井ホテルは、駅近くに有るのだが、所謂温泉街からは離れていた。温泉街の近くには道の駅が有る事が案内板で分かったので、そちらに向かって歩き始めた。しかし、百メートル程も歩いたところで、急に、クーポン券を使う為にだけ歩く事が億劫になってしまった。「クーポンが無駄になっても仕方が無い。面倒臭いからもう帰ろう」そう思い直し、踵を返して、私は駅の方に向かって歩き始めた。
 戻りかけて前方を見ると、こちらに向かって歩いて来る若い女性の三人組が目に入った。同じホテルに泊まっていた観光客だと直ぐに分かった。家族連れ、中年女性のグループ、老夫婦、若いカップルなど泊まり客は様々だったが、私の知る限り若い女性の三人組は一組だけ。ホテル内のレストランやロビー、廊下などで何度か彼女らを見掛けていた。
 距離が近付いてすれ違う寸前に不意に思い付き、私は躊躇いもなく彼女らに声を掛けた。
「あのー、松乃井に泊まっていた人たちですよね」
 女性達は、いきなり話し掛けられて構えたのだろう。
「ええ、そうですけど……」
と一人が不審げに答えた。ショートヘアーの似合う、クリッとした大きな目が印象的な女性だ。マスクをしているので目の印象は強く残る。
 こちらは、ナンパしようなどと思って声を掛けた訳では無いので、全く緊張してはいなかった。
「いきなりすいません。いえ、クーポン券使う為に商店街まで行こうと思ったんですが、時間が余り無いので帰ろうと思うんです。ホテルでお見掛けした人達だと気が付いて、使って頂ければ無駄にしないで済むと思いまして……」
 そう言って私はクーポン券を差し出した。三人は一度、互いに顔を見合わせた。
「何ヶ月か使えると思いますよ」
と最初に返事した女性が応じた。
「その間にまた来る予定も無いし、捨ててしまうのは勿体ないでしょう。使って貰えれば生きると思ったんですが……」
 また三人は顔を見合わせ、二人が頷く。
「そうですか。そう言う事なら頂きます。有難う御座います」
「こちらこそ、有難う御座います」
 そう言ってクーポンを渡すと、直ぐに向き直って、私は駅に向かって歩き始めた。用件が済んでいるのに、その後も何か話し掛けたりしたら、やはり下心が有るのではないかと勘ぐられると思い、そこは、素早く爽やかにと意識して行動したのだ。実際、下心など無かったので、彼女らがクーポンを使ってくれればと楽しい気分になった。
「すいません」
 駅に向かって歩き始めて数歩離れた時、そう声を掛けられた。
「クーポン使ったら写真送ります」
 振り返るとショートヘアーの女性が微笑んでそう言った。私より少し年下の二十四、五くらいか。
「三人で写真撮って、こう使いましたって報告します」
 そう言われ、私は少し慌てた。
「いえ、そんな気を使わなくて結構です。無駄にしないで済んだと言うだけで十分ですから」
と、『俺、なんか良い人ぶってるな』と自分で思いながら言った。
「貰いっぱなしより、ちょっと報告させて貰った方が気が楽ですし……」
 女性にそんな風に言われて嬉しく無い訳も無い。まして好みのタイプと気付いた後なので、少しドギマギしてしまった。
「いや、気にしなくて、ホントいいんですけど」
と、一旦は言ったものの、結局、
「 ……そうですか、じゃあ」
と言って、私は名刺入れを取り出し、個人のメアドを裏に書いて、仕事用とは別に分けて持っている、数枚の名刺の内から一枚を取り出して渡した。格好付けたままより、気を楽にさせてやった方が良いだろうと言うのは自分に対する言い訳で、実は少し舞い上がってしまい、縁が繋がればと言う密かな期待が生まれていた。
 別れ際に「有難うございます」と他の二人も笑顔で言ってくれて「お気を付けて」とショートヘアーの女性が言った。それが美桜だった。

 一時間くらい後、電車の中の私にメールが届き、写真が貼付されていた。テーブルの上のスイーツを囲み三人が笑顔で写っている。二人は曲げた五本指と掌で作ったハートで頬を挟んで笑っている。そして、左端のショートヘアーの彼女は、右手の親指と人差指を交差させて小さなハートを作っている。左手で自撮りのスマホを構えているのだろう。
『ありがとうございます。おいしく使わせていただきました。左から、ミオ、ユキ、カンナでーす。おいし過ぎて、二人はハートの中に入っちゃってまーす』と、メッセージが添えてあった。頬の両側でハートを作るのは、近頃TikTokで流行りのポーズだ。嬉しく思いながらも私は『二十代半ばになっても、まだそんな乗りなのかな?』とも思った。それに、礼とは言え、知らない男にメアド知らせることに不安は無いのかなとも思った。しかし、万一迷惑メールが送られるようになったら、メアド指定して拒否設定をすれば良いだけの事。きっとそう考えているのだろうと気が付いた。『キチンとした性格なんだろうな』と勝手に思い、益々好感を持ってしまった。

 学生時代には彼女が居て何時も一緒だったので、羨ましがる友人さえ居た。しかし、大学を卒業して数ヶ月で喧嘩して別れてしまった。卒業後彼女が実家に戻った為、少し遠距離恋愛となってしまっていた。お互いの環境のせいも有って会える機会が減り、行き違いも生まれていた。そんな折、或る時電話で喧嘩をしてしまって、結局別れてしまったと言うことだ。
 考えてみれば全て私の“自己中”が原因だったのだ。急に会いたくなって、予め都合を聞くでもなく、いきなり電話して「一時間半くらいでそっちに行くから出て来て」と勝手な事を言った。「叔母が来るので、家を空けられない」と彼女は言った。どんな用件で叔母が来るのかも聞かず「そんなの理由にならないだろう」と突っぱねて、出て来るように重ねて促した。「ちょっと無理」と彼女は言った。思い通りに行かない事に苛立ち、私は勝手に腹を立てた。そして、言ってはならない言葉が口から出てしまったのだ。
「会いたくないならいいよ。別れよう」と言って、私は電話を切ってしまった。もちろん腹立ち紛れに言っただけで、本気で分かれるつもりなど無かった。すぐに謝ればまだ良かったのかも知れない。だが、妙な意地が有ってそれが出来なかった。馬鹿な私は、謝りたい気持ちを抑えて痩我慢をし、彼女の方から連絡して来るのを待っていたのだ。そして、ひと月ほど経ってしまった。彼女から連絡は無かった。痩我慢も限界となる一方、全く連絡して来ないと言う事は、彼女の方が別れたいと思っていたのではないかと言う不安が湧き上がって来た。「叔母が来るから」と言う到底納得出来ない理由と併せて考えると、その可能性の方が大きいように思えて来た。今更電話して謝ったとして、もし「実は別れたいと思っていた」などと言われたら最悪ではないかと思った。連絡するタイミングを、私は完全に失ってしまっていた。そのまま時が経ってしまった事もあり、結局、その恋はそのまま終わった。

 考えてみれば、それが私のモテ期の終わりだった。会社に女性は居るが、誘って断られたり、仮に少し付き合って分かれるような事になったりしたら、会社での居心地が悪くなってしまうと思い、積極的に動く事は出来なかった。自然に親しくなれば良いのだろうが、現実にはそんな風には行かない。何も起こらないのだ。仕事以外で女性と近付く機会も無かったし、ラウンジなどで声を掛けてナンパしようともしたが、上手く行かなかった。そうしているうちにコロナが流行り始め、合コンどころか、会社の飲み会も、仲間内の飲み会さえも無くなってしまった。そんな風にして、私は今、二十七才になっている。

 水上温泉から帰って数日の間、私は悩んでいた。メールを打つべきかどうかをだ。だが、つまらない拘りの為に学生時代の恋を終わらせてしまった私だ。『有難う御座いました。フォト見ました。クーポンが生きて私も嬉しいです』と書いてメールを返そうと思った。それで終わりだ。それ以上の事を期待しても思惑通りには行かないだろうと思って、その文言だけのメールを返した。
 数日後、予期せぬ事に、また、美桜からメールが届いた。『この間は、クーポン頂いて有難う御座いました。フォトでお知らせしたように、三人でスイーツを満喫させて頂きました。わざわざ返信も頂き有難う御座いました。三人で貴方の話題になり、“どんな人なんだろうね”と盛り上がってしまいました。お名刺で勤務先を見てびっくり。私の勤め先と近いんです。お暇な時、また、メール下さい。一応自己紹介しておくと、私は近田美桜と言う名前で、住まいは中央線沿線です』そう書いてあった。
『え?』と思った。『これって脈有りじゃん』思わずバンザイして飛び上がりそうになった。近いと言う勤務先が気になった。逸る心を抑え『慌てるな。よくよく考えて文章を練った上で返信しろ。慌てて送ったら、馬鹿な事を書いて軽く見られる事になるかも知れない』そう思った。
 その日は我慢し、翌日になって美桜にメールした。
『メール有難う御座います。私のことで盛り上がったって、何を言われていたのか少し気になりますね(笑い)。埼玉県川口市から新宿まで通っています。職場が近くと聞いて、機会が有ればお話したいと思いました』
 驚いたことに、すぐ返信が有った。
『私もお名刺で職場が近い事が分かり驚いたんです。私の職場はアイランドタワーに有ります』
との事。
『えーっ! 赤い“LOVE”のオブジェの有るアイランドタワー? カッコいいところにお努めで』
と直ぐ返した。
『ご近所さんですよね』
とテンポ良くメールがまた返って来る。
『ええ、私の職場は住友三角ビルですが、靖国通りの西新宿駅近くまで、昼飯食べに行ったり良くしますよ』
『驚き。アイランドの前しょっちゅう通っているって事ですよね。導線が交錯しているから、何度もすれ違っているかも』
『ホントだ』
『水上でクーポン頂いてなかったら、何度すれ違っていたとしても、お互い、大勢の中の一人でしか無かった訳ですよね』
『そう…… なりますね』
『なんか不思議な気がします』
『僕もです。一度、お話出来ませんか?』
とメールでの会話はとんとんと進んだ。
『アイランドのロイヤルホストご存知ですか?』
と美桜は聞いて来た。既に、誘いへの答えはイエスと言っているも同然の質問だ。 
『ええ、もちろん』
と返す。
『じゃあ、ランチご一緒しません?』
と来た。
『昼食時間がバラバラなので、出来ればアフター・ファイブがいいですね。と言っても、六時、七時になってしまうこともあるんですけど』
 実際そうだったし、慌ただしいランチの時間では無く、ゆっくりと話したかった。
『明日はどうですか?』
と美桜が積極的に聞いて来た。
『多分定時に上がれると思います。遅くなるようなら、分かった時点で早めにメールします』
『そうですか。では、また』
『はい、楽しみにしてます』
 最後のメールを送信すると、私は右手の拳を握って「よっしゃあ!」と独り小さく叫んだ。

 その後、美桜とは時々会うようになり、デートの後は送って行くようになった。最初は国分寺の駅まで、三回目のデートでキスしてからは、彼女のマンションまで送るようになった。間も無く私は美桜を抱き、その後部屋にも出入りするようになった。交際は、全て順調だった。
 自己中の為に終わらせてしまった前の付き合いを反省し、私は、美桜の気持ちを大事にするよう心掛けていた。美桜も感情の起伏の激しい女性ではなかった。本気で喧嘩した事は一度も無い。
 思い出す光景と言えば、抱き寄せようとする私の腰の辺りに躊躇い勝ちに手を回し、少し上向きに顔を上げて、僅かに微笑む姿だ。抱き寄せると、美桜の指先に力が入るのを感じた。色白で肌理の細かい肌を持った顔。小ぶりな唇に塗られた程良い赤さのルージュが、何時も私の欲情をそそった。

 水上で一緒に居た二人は職場の同僚ではなく、学生時代の親友だという。少し遠ざかっていたが、コロナ禍で人との繋がりが貴重と思うようになってまた連絡を取り合うようになったのだと言う。そして規制が緩んだのを期に、あの時一緒に旅行していたのだそうだ。その後四人で会う事は無かったし、彼女達の連絡先を私は知らない。あの二人、ユキかカンナに連絡を取る事が出来れば、何らかの手掛りが掴める可能性は有ったのにと思ったが、その可能性も閉ざされている。

 残る方法は一つしか無かった。早退してアイランドタワーのロビーで退勤する美桜を待つ。それしか無い。
 しかし、それはとんでもなく難しい事となる。まず、地上四十四階、地下四階のこのビルで働く人は一万人以上居るのだ。一斉に退勤する訳ではなくとも、その人波の中から美桜を探し出す事自体恐ろしく困難な事になる。しかし、駅で待つよりはマシだろうと思った。だが、仮に美桜が私を避けているとするなら、待っている私の姿を先に見付けたら隠れるだろう。そんな状況を作ってしまったら、それこそ私はストーカーでしか無くなってしまう。そう思うと酷く暗い気持ちになった。

 美桜は、何も告げず突然に私との連絡を断った。第三者から見れば、私から逃げたいと言う理由しか出てこないだろう。ところが、私にはそう思い当たる事が何も無いのだ。この有り得ない矛盾をどう受け止めれば良いのかと、私は踠いた。

 手掛りは一つしか無い。確かめるには美桜の退勤時に待ち伏せると言う方法しか、私は思い付かなかった。学生時代の付き合いが終わった時のように、真相が分からないまま終わりにしたくは無かった。
 美桜が消えた翌日にはメールが届かなくなり、電話をした時のメッセージも「お掛けになった電話番号は現在使われておりません」に変わってしまった。
『仕事も辞めてしまっているかも知れない』
と思った。もしそうであれば、待っても美桜は現れない事になる。セキュリティー・カードが無ければ、美桜の勤務先が有るフロアーまで上がる事も出来ない。
 一階のロビーで退勤者の群れを一日だけ見張ってみても、結論を得られる可能性は少ない。かと言って、そう何日も早退してアイランドタワーに通う訳にも行かない。自力で探す事の限界を感じた。
『何故なんだ!』
 信じられないと言う想いと苛立ちが私を離さない。
『こんな事態に至る兆しなど、何処にも無かった』
と思う。
『美桜が自分から連絡を断つなんて未だもって信じられない。夢をみているのか?』
 天井を見詰めながら、私は思っていた。思い出されるのは美桜の笑顔だけだった。

 改札を出て行く美桜を中から見送り、振り返った美桜が笑顔でちょっと手を振ってくれるのに合わせて私も手を振る。そして、美桜の姿が陰に見えなくなるのを見届けて踵を返し、ホームへの階段を駆け上がる。前二回の別れ際はそんな風だった。
 だが、その日私は、美桜に続いて改札を出た。振り返った美桜の顔に驚きは無い。
「家の前まで送るよ」
 私は、笑ってそう言った。少し微笑んで、美桜は黙って頷いた。その日私達は街中の小さな公園の隅で、初めてのキスを交わしていた。その流れで自然に出来た行動だった。
 北口の右側に有るマクドナルドの角を曲がり、線路方向に少し戻って左折する。
「あと、ここ真っ直ぐ。五分くらい」
 ちらっと私を見て美桜が言った。車が来たのを切っ掛けとして、私は、美桜の肩に掌を掛けて引き寄せる。
「中野か高円寺辺りの方が便利じゃない?」
 何か喋らなければと思って出た質問だ。特にそう思っていた訳では無い。
「特快で三十分で着くから。遠いとは思わない。ざわついた街より、落ち着いた街が好きだから」
「そうか……。安全そうだしね」
「オートロックじゃないけど、管理人さんいるし。オートロックって、なんか無機質で寒々しい感じしない?」
「管理会社から派遣されてて、日によって違う人だったりするの? 中には偏屈な人も居るだろう」
「ううん。おんなじ人、ずっと。いい人よ。下見に行ったとき感じ良かったから決めたの。お家賃もまあまあだし」
「そう。…… 心配な事が一つ有る」
と私は言った。
「何?」
と美桜がくるりとした目で私を見る。
「その管理人さんって、若くてイケメンって事無いよな」
「はあっ?」
と、美桜の表情が崩れて笑いに変わった。
「何言ってんの? 若くてイケメンの管理人が居るマンションなんて何処に有るの? 見たことも聞いた事も無いわ…… バッカみたい」
「いや、俺よりイケメンの管理人だったら許せないと思ってさ」
と言って私も笑う。
「何それ。言ってる事が見えませーん。おじいちゃんよ。普通そうでしょ」 
「うん。なら良し」
「なら、良しって…… ひょっとして貴方って拘束したいタイプ?」
「違うよ。……ちょっとだけ心配してるだけだ」
 私がそう言うと、美桜の表情が急に神妙になった。 
「有難う。そう言ってくれる人が居て、私ホント幸せだわ」
 ポツンとそう言った。
「まぁた、心にも無い事言ってるだろう」
と、私は混ぜっ返した。
「心に有るもん」
と、美桜は少し向きになる。
「ふうん……そう」
と、私は感心してみせる。
「嘘じゃありません…… なんって、ホントは私、嘘つきだったりして」
 あっけらかんとした表情に変わり、今度は美桜の方が混ぜっ返した。
「なんじゃ、そりゃ」
「一緒に居ると楽しい。それは嘘じゃ無いですよーっ」
と楽しそうに言う。
「ほんと?」
 小さく頷いて、美桜は私の肘の辺りを攫んで来た。私は人差指と親指で輪を作り、それで美桜の鼻の頭を軽く弾いた。
「イッターイ。何よ! もうー」
 そう言って、美桜は私の肘から手を離し、平手で私を叩こうとした。それを透かして、私は走って逃げる。
 足を止めた私の上着の裾を美桜が攫んで、背中を軽く叩いた。

「あ、ここ」
 少し歩いた後、美桜が足を止めて右側の建物を指して言った。
 見ると、十階ほどの建物で階段を少し上がった所に玄関が有り、コンクリート状のアーチ型の玄関、二階以上は煉瓦模様の壁。ベランダが道路側に張り出している。
「送ってくれて有難う」
 そう言って美桜が右手を出した。その手をそっと握って、
「いや、送りたかったから」
ど私は言った。私達は道路の左側を歩いていたのだが、小さく頷いて、美桜は道路を渡った。
 ミントのハイネックの薄手のセーター、白いタイトスカート。オフホワイトの短い丈のダウンを羽織ったショートヘアーの美桜は、小さく手を振ってから向こうを向き、玄関に続く十段ほどの階段を上がって行った。

 そんな光景を思い出すと、胸が痛くなる。 
 私は決心した。金が掛かっても仕方が無い。興信所や探偵の類を使うしか無いと思った。それならば、美桜が以前の仕事を続けているかどうかも分かる。しかし、美桜の意思に反して現住所を突き止めるような事にもなる。そんな後ろめたさは有ったが、最早、止むを得ないと思った。
 調査費用は経費込みで七万円ほどになった。それは仕方無かったと思えたのだが、調査結果に、私はさらなる衝撃を受ける事になった。
 美桜が勤務先として私に告げていた大手ファースト・フード・チェーンの本社には、そもそも『近田美桜』と言う名の社員は初めから存在していないと言う。そして、マンションの契約名義は彼女の父とされる人物だった。住民登録も住んでいたマンションには無かったと言う。移転先をそこから辿る事は出来なかった。引越作業をしていた人物は男二人。アニマル引越センターの制服を着ていたが、その日、アニマル引越センターが美桜の住んでいたマンションからの引越を請け負った記録は無いと言う。
「ちょっと、色々不思議な要素の有るケースですね。今回のご依頼内容からするとご報告は以上となりますが、更に調べてみる価値は有ると思います。例えば、ご実家とされる館林の方に付いても調べてみるとか……」
 三十年配の細身の調査員は、意味有りげにそう言った。追加料金が掛かっても良ければ、まだ、方法は有ると言うことなのだろう。追加依頼をしないかと言う誘いと感じた。恐らく何か掴んでいるのだろう。
「少し考えます。お願いするようでしたら、ご連絡します」
 その情報を知りたいと言う気持ちは強かったが、費用が嵩む事になる。少しクールダウンして考えてみる必要が有ると思って、私はそう言った。
「そうですか。では、ご報告は以上となります」
 そう言って、調査員は報告書を差し出した。
「お世話になりました」
 私は報告書をカバンにしまい、興信所を後にした。 

 頭の中は混乱していた。引っ越し業者を偽装していたとしたら、個人的に誰かに頼んだと言うレベルの話では無い。何らかの組織が絡んでいる可能性が有るとしか思えなくなった。ハニートラップ、スパイという単語が私の頭を掠めた。実際、東洋の某大国が日常的にやっている事だ。大使館職員の身分で入国しているスパイが、別人に成り済ましてターゲットに接近し、必要な情報を盗る。そんな事件は過去にも実際に有った。美桜の父親と言う人物に付いて調べて貰えば、何か掴めるだろう。もし予想通りだとすれば、その人物は、金を貰ってマンションの契約に名義を貸しただけで、美桜と言う娘など居ないか、居たとしても全くの別人であると言う可能性が出て来る。そんな考えが浮かんで来た。
 しかし、そんな絵空事のような事が私の身に起きていると考えるのは穿ち過ぎではないかとも思った。
 まず、美桜はどう見ても日本人にしか見えなかった。外国訛など瞬間的にも感じた事は無い。だが、大国のスパイなら訛で直ぐばれるような事はしないだろうとも思う。例えば、日本生まれで日本育ちの同国人を使えば言葉で疑われる事は無い。日本人になり切れる人間を使うはずだ。
 では、目的はなんなんだろうと考える。私の勤務先は精密機械メーカーである。大手では無いが、独自の技術を持っている中堅メーカーで、それが強みとなっている会社だ。
 私はもちろん、美桜に何かの資料を渡した事は無いし、例えピロー・トークとしてでも会社の情報を漏らした事も無い。また、美桜が私から何かを聞き出そうとしたと言う記憶も無い。ならば、有り得ない妄想だろうと否定しようとした。
 だが、直ぐに別の不安が私を襲う。私は、ノートPCをカバンに入れて持ったまま美桜の部屋に泊まった事が何度も有るではないかと思い起こす。就寝中に、或いは知らないうちに睡眠薬を飲まされて、データを抜かれた可能性は無いだろうかと。
 もちろん、個人のノートPCの中に会社のデータを入れて持ち出した事は無い。だから、基本的に私のPCから盗み出せる情報など無い。だが、一つだけ気になる事が有るとすれば、やってはいけない事ではあるのだが、USBメモリーに入れた業務用のPWを、PCケースのポケットに入れて持ち歩いている事だ。PWは基本的に何処かに書いたりしてはいけない。本人が忘れてしまえば確認方法は無いから、古いものを無効にして再発行するしか無い訳だ。会社に寄ってはID,PWを印字してディスプレーのフレームに貼り付けたりしている。そんな事をしたら機密保護の意味が無くなる訳だが、人は忘れるものだ。忘れたら前のPWを無効にしてもらうため、会社に申し出なければならない。建前上はそれで叱責される事は無いし、寧ろ、報告が遅れる事が問題とされる。しかし、度重なれば気が引ける。そんな不安から個人のPCに保存してしまったのだが、流石にメモ帳などに保存しては危険と思って、ID,PW管理アプリに保存し、セキュリティー対策の有るUSBにコピーして持ち歩いている。それで安全だと思っていたのだが、恐らくプロのハッカーの手に掛かったら手も無く読み取られてしまうのだろう。そして、仕事用のPWを入手すれば、在宅ワークを装って、外部から会社のシステムに侵入し、データを閲覧する事は可能になる。私の権限では会社の技術的な機密情報にアクセスする事は出来ない。しかし、私の権限で引き出せる情報が全く役に立たないかと言えば、そうとも言えない。私は労務を担当しているから、エンジニアの個人情報を知り得る立場にはある。もし、エンジニアのヘッドハンティングが目的なら、私に近付いて引き出せる情報は有ると言えるのかも知れない。
 もし、本当に美桜がスパイだとしたら、恋愛問題としてうだうだ考えている場合では無くなって来る。会社を巻き込んだ大事件となりかねない。そんな恐怖が私を襲った。私は一度深く息を吸って、大きく吐いた。直ぐ興信所に引き返して追加の調査依頼をしなければならないと一旦は思った。
 だが、待てよとまた思い直した。やはり、出会いが計画的に演出されたものとは思えないのだ。最初の出会いに付いて言えば、美桜の方から近付いて来た訳ではなく、直前に思い付いて私の方から声を掛けたのだ。いくらスパイ組織とは言え、あの出会いを計画的に演出する事など出来るはずが無い。そう思うと大袈裟に考えた自分が可笑しくなって来た。
 ただ、確たる裏付けも無く『思い過ごしだ』と決め付けて切り捨ててしまうには不安が有った。
「自力で美桜の実家と父親とされる人物に当たってみよう」
 そう思った。幸い、マンション契約者の名前と住所だけは、調査結果に含まれて記載されていた。

 私の住む川口から館林までは、まず京浜東北線で浦和まで出て宇都宮線に乗り換え、三十分程で着く久喜から、更に東武伊勢崎線に乗り換えて三十分。計一時間十五分ほど掛かった。
 ネットで調べると、美桜の言っていた「城沼公園」は躑躅で有名なつつじヶ岡公園と同一らしい。記載されているマンション契約者の住所は、その近辺と言う事になる。
 バスは四十分に一本ほどしか無いが、運良く次のバスまでの待ち時間は十分ほどだった。暇潰しに、東口駅前から真っ直ぐに伸びている広めの道路を、最初の大きな信号までブラブラと歩いてみた。道路脇は商店街だが活気が有るとは言えない、ご多分に漏れず地方のやや寂れた町並みが続いていた。途中、このまま歩いて目的地まで行けるのではないかとも思ったが、知らない土地でスマホのナビを見ながら歩くのも面倒なので、やはり駅前に戻りバスを待った。

 板倉東洋大前駅西口行のつつじ観光のバスに乗って約十分。つつじが岡公園で下車する。
 近田幸太郎という美桜の父親とされる人物の住所は、城沼公園の少し南に有った。周りに若干の農地が残ってはいるが、住宅地として開発されている区域だ。
 報告書に記載されている住所は、そんな小規模な住宅団地の東隣に有った。道路からの引き込み路の両側に家庭菜園ほどの農地を持つ作りとなっている。家屋は新興住宅と同じく新しいが、周りの建売住宅とは異なったユニークなデザインで建坪も広い。元々は農家だったが農業をやめ、農地を住宅開発会社に売却して、その金で新築注文住宅を建てたのだろう。
 両側に菜園を見て引き込み路を入って行く。赤城おろし(赤城山から吹き降ろす空っ風)を防ぐ為、関東中部の農家は宅地が高い生け垣で囲まれている。敷地に入ると、正面にはブルーの屋根瓦を乗せ、オレンジ系暖色の板壁を持った二階建ての母屋が有り、手前右にはプレハブ様の小さい建物。恐らく、昔は納屋が有ったのであろう位置だ。母屋を挟んで、その反対側にはガレージ。白い軽トラック、赤いコンパクトカー、そして、黒いトヨタヤリスが並んで停められていて、更にその左一台分が空いている。息子か孫の車でも停めているスペースなのだろうか。

 庭の一角には人工芝が貼られていてその先にはニメートルほどのネットが立っている。ゴルフの練習用に作ったのか。パットとアプローチの練習くらいは出来そうだ。
 長らく続いていた農家の生活が或る時を境にガラッと変わった事を伺わせる。母屋右端には大きなドアー、その左は壁に大きめな窓と言う外見だ。しかし、以前そこには木製でガラスの入った格子の引き戸が有ったはずだ。入り口を入ったところは土間になっていて、左手は人が腰掛けるのに丁度良い高さの縁になっていて、土足を脱がずにお茶を飲み、話の花を咲かせる事が出来るような構造になっていたに違いない。今、壁と窓で閉鎖的になっている部分は、サッシ枠の大きな硝子戸で、開け放てばそこも、大勢が談笑出来る縁側になっていたのだろう。

 玄関に近付くといきなりライトが照らされた。センサー付の防犯カメラが作動したのだ。インターフォンを押さずとも、中に人が居れば来訪者を確認出来るはずだが、一応呼び出しボタンを押す。
「はーい。どなたですか?」
と高齢女性らしき声の返事が有った。
「ちょっとお伺いしたい事が有りまして、東京から来ました」
 美桜と言う名前を出したり『お嬢さんの事で』などと言って、もし該当者が居なければ疑われると思って、そう言った。同じように、埼玉からと言っては説明がややこしくなると思って東京からと言った。事情は対面してから説明すれば良い。
「ご主人にお目に掛かりたいんですが……」
「お父さーん。なんか、聞きたいことが有るって東京から来たって……」
 そう呼び掛ける声が、インターフォンを通じて聞こえて来る」
「……何を?」
と、主人らしき男の声が、少し遠くから聞こえる。
「すいません。聞きたいって、何をですか?」
と先程の女の声。
「あ、国分寺の事で少し……」
と私は答えた。幸太郎氏が妻に内緒で契約している可能性をも考えて、敢えてマンションとは言わなかった。覚えが有れば国分寺と言うだけで十分通じるはずだ。
「国分寺の事だってさ……マンションの事かな」
 妻がそう夫に伝えているのが聞こえて、内緒で契約しているのでは無い事は分かった。

 いきなりドアーが開いた。六十代半ばで胡麻塩の坊主頭、日焼けした顔、派手目なチェックの襟付き長袖シャツを着ている。半開きのドアーの間に立って、
「どなたさん?」
と聞いて来た。深めに頭を下げてから、私は、
「松永と申します。すいません、つかぬことを伺いますが、国分寺のマンションに住んでいるのは、こちらのお嬢さんでしょうか? 知り合いの者なんですが」
 相手は少し不審げな視線を私に向けて、
「姪っ子だけど…… ミオの事だんべ。家賃払ってねえとか、そう言う事か?」 
と聞いて来た。
「いえ、とんでもないです。私、大家さんじゃないんで。そう言う事じゃなくて、友達なんですが、急に引っ越されたようなんで、こちらで聞けば何か分かるかと思いまして」
と取り繕う。
「うーん。分かんねえな」
と主人は少し首を捻った。これ以上何も聞き出せないのかと思った時、
「妹の子なんだよ。妹は熊谷の星川通りでスナックやってんだけど、信用面でちょっと心配なんで俺の名前で契約してくれねえかって頼まれてさ。亭主居ないし水商売だからかなと思って名前貸したんだ。だから、ミオの事って言われても分かんねえな。今月までって契約だから、それで引越したんじゃねえの。何処へ引っ越したかは聞いてねえな……」
と付け加えてくれた。それなら美桜の母親に聞けば、と言う可能性が残された。
「そうですか。いや、有難う御座いました。美桜さんのお母さんがやっていると言うスナックの名前伺って宜しいでしょうか」
と聞いてみる。
「あれーっ? なんだっけかな」と手の甲を口に当てて考え「アイネ、アイネだ。そうだ、そう」
と思い出してくれた。
「有難う御座いました」
 私は、もう一度深めに頭を下げてその家を離れた。

 東武伊勢崎線で上り方向に三駅戻り、利根川を越えて埼玉県に入ると、羽生駅が有る。そこから出ている秩父鉄道に乗れば、三十分弱で熊谷に行ける。
 一旦、陸橋上の東武鉄道の改札を出て左に行くと、同じフロアーに、直ぐに秩父鉄道の改札が有った。秩父鉄道は、以前は交通系ICカードが使えなかったようだ。今年の三月から使えるようになった旨の案内がまだ壁に貼ってあった。自動改札機の新しさがそれを物語っている。
 改札を入って古い階段を下りる。以前はホームに駅蕎麦が有ったらしいのだが今は無い。ホームには既に二両編成のラッピング列車が入っていたが、発車までには五分ほど待たされた。乗車し見上げると、網棚の後ろの壁には、最近オープンしたばかりの深谷花園プレミアム・アウトレットのPR広告が何枚も貼られている。
 少し乗り継ぎ待ちがあったので、館林からは、熊谷まで五十分ほど掛かった。

 熊谷に着いた時には夕方近くになっていた。マップで見ると、星川通りのアイネと言うスナックまではそんなに遠くない。十分歩ける距離だ。しかし、開店前の仕込みの忙しい時間に、警察でもない私が行って質問したとしても、まともに相手して貰えるかどうかも分からない。喫茶店で時間を潰して、先ずは、客を装って様子を探ってみようと思った。

 駅ビル六階に有るプレイス・コーヒーと言う店に入り、アイスコーヒーとミックスサンドをセットで注文した。私は冬でもアイスコーヒーなのだ。一呼吸した時『しまった!』と思った。
 近田氏に美桜の写真を見せて確かめておけば良かったと思い当たったのだ。どう話すべきかに神経を注いでいた。また、娘ではなく姪だと聞いて、色々と考えを巡らせたりしていて、簡単に出来る確認をしていなかったのだ。写真を見せていれば、少なくとも姪のミオであるかどうかの確認は出来たはずだ。

 星川通りは街の中心部を走っており、星川の両岸沿いに造られた道だ。星川は、川と言うよりは真っ直ぐな用水路だ。護岸は丸石を積んで固められており、丈の低い鉄のレールと街路樹が両岸に続いている。左岸の通り沿いに『アイネ』は有った。
 木製のドアを開けて入ると、右側にボックス席が二つ。満席になれば十人分ほどだ。左手にはカウンター。その手前のスペースに十センチほど高くなったステージがあり、隅にはカラオケセットとモニター。いわゆるカラオケスナックだ。カウンター内には、派手な衣装を着て厚化粧をしたママらしき女性。カウンター席には七十代と思われる客が一人、ママと話していた。
「いらっしゃいませ」
 笑顔を見せて、ママが声を張り上げた。
「もう、だいじょうぶですか?」
「どうぞとうぞ。カウンターになさいます? どうせ暇だからボックス席でも結構ですよ」
「いえ、カウンターで大丈夫です」
「そうですか。いえ、歌好きの方だと座った途端に選曲始める方もいるんで、ボックス席の方がいいと言う方もいるんです。お客さん初めての方ですよね」
「ええ、ちょっと飲もうと思って通りがかりに入ったんです。歌は得意じゃないんで、他の方のを聞くくらいで十分です」
「そうですか? あら、お上手そうに見えますけど」
とお世辞を言う。私は先客とは反対側のカウンターの隅に腰を下ろした。
「お飲み物、なんになさいます?」
「じゃビールを」

 ビールとお通しを出すと、ママは先客とまた話し始めた。私は黙って飲んでいた。そのうち先客が、「歌おうかな」と言い出し、ステージに上がって、演歌を数曲歌う。老人に良く有る地声を張り上げ音符の長さを無視した歌い方だ。採点機能つきカラオケに慣れている年代ではあまり居ない歌い方だ。ただ、本人は至ってご満悦で、自分の歌に酔っている。ママが適当に褒め言葉を投げ掛けると、嬉しそうに片手を上げて答える。私も拍手を送った。
 コロナ前には、こう言う人達で連日満席だったのかも知れない。カラオケスナックでのクラスターが問題になり、恐らく長い間の閉店を強いられていたのだろう。やっと再開出来ても客足は戻らないと見える。
 歌っている方はマスクを付けて居るが、飲む為に、私はマスクを外しているので、余り長く居たくは無かった。
「お客さんも歌って下さいよ」
 ママがそう振って来た。
「いえ、私は。これ空けたら上がらせてもらうんで、すいません。また、来ます」
 そう言って私は、残りのビールをグラスに注ぎ、一気に飲み干した。
 支払いを済ませて腰を上げた時、
「お母さん。置いとくよ」
と、奥の方で女性の声がした。
 言葉遣いから、従業員ではなく娘と思えるが、美桜の声ではなかった。
「いらっしゃいませ」
と裏からカウンター内に姿を表した女性は、髪の長い三十代後半と思われる女で、やはり美桜ではなかった。
「ミオちゃん。いつも綺麗だな」
 ステージから降りて来た先客が、からかった。やはり、私の知っている美桜は成り済ましだった。
「有難う御座います。お世辞でも嬉しいわ」
 髪の長いミオは、先客に笑顔でそう返す。
「お世辞じゃねえわさ。俺、何時もそう想って観てるんだよ」
「まぁた、河本さん調子いいんだから。キャバクラ行ってもそんな事ばっか言ってるんでしょ」
「バーカ。キャバクラなんか行かねえよ。俺はここんちで歌ってんのが、一番楽しいんだから」
「あら、そりゃ有難う御座います」
と三人は盛り上がっている。
「有難う御座いました」
と言う、美桜とママの声を背に私はアイネを出た。

 寒気に少し首をすくめて、私は駅に向かって歩き始めた。すると、街路樹の下に立っていた男二人がこちらに向かって近寄って来た。二人で話しながら歩いている訳では無い。帽子とマスクで表情の見えない二人は、明らかに私に向かって歩いて来るのだ。
 私は恐怖を覚えた。二人を避けようとコースを変えようとした。だが、二人は私の進行方向に合わせて近寄って来る。
「すいません」
 目の前に近づいだ二人が内ポケットから取り出して示したのは警察手帳だった。
「ちょっと、お話が有ります。恐れ入りますが、あちらの車までよろしいですか」
 そう言って二人は、私を鋏むように立った。
『本当に警察なのか』
 警察手帳を見せられても信用しきれないで居た。拉致されるのではないかと言う恐怖を感じた。逃げるべきかと迷ったが、彼らが本当の警察官なら、そんな事をしたらまずい事になるとも思った。
 結局、促される儘に、黒いワゴン車の後部座席に乗り込んだ。 
「松永さん」
と呼び掛けて来た。私が誰か分かっているのだ。
「申し訳有りませんが、今やっている人探しを止めて頂けませんか」 
 左側に座った刑事がそう言った。
「えっ、なんの事ですか?」
 私はそう惚けた。
「近田美桜と言う女性に付いて調べていますよね」
「それが何か?」
「理由はお話し出来ませんが、捜査に支障が有りますので」
「私は何も法律を冒していないのに、警察が市民の行動を制限するんですか?」
「いえ、お願いしているだけです」
 まだ私は、本物の警察官かどうか疑わしいと思っていた。 
「じゃあ、警察署でお話しましょう。熊谷警察に行って下さい」
 私はそう主張して、相手の反応を探ろうとした。
「我々は警視庁公安部です。我々の捜査は県警にも所轄にも明かせないんですよ。指揮系統が違うんです」
と男が言った。
「信用出来ないと言ったら?」
と、私は畳み掛けた。隣に座った男はソフト帽に黒縁の眼鏡、その上マスクをしているので、人相は良く分からない。
「捜査内容は明かせませんが、我々は国の安全の為に働いています。ご理解頂ければ。……それから、これだけはお伝えしておきます。近田美桜と名乗る女性は被疑者ではありませんので、その点はご安心下さい」
「えっ? と言う事は、警察官だということですか?」
「申し訳無い。お答え出来ません。ご理解頂きたい」
「分かりました」
と私は答えた。美桜はスパイではないと言っているのだ。信じても良いような気になった。
「ご理解頂き、有難う御座います。お宅までお送りしましょうか?」
「いえ、電車で帰りますから結構です」
 左手に座っていた刑事がスライドドアを開けて降り、私の降りる道を空けてくれた。
『本物の警察官なんだ』
と信じた。

 上野東京ラインで大宮まで行き、京浜東北線に乗り換えて川口まで帰った。
 電車の中で、私は考えていた。拉致された訳では無く、美桜を探すなと言う警告だけで私は開放された。偽警官ではなかったらしい。美桜は被疑者では無いと告げられた事が救いだ。しかし、警視庁公安部が埼玉県警も熊谷警察も無視して捜査出来るのか? 大宮まで三十分以上掛かるので、私はスマホで警視庁公安部を検索してみた。

 Wikipediaには『警視庁は唯一公安部を置いており、所属警察官約千百名を擁し、最大規模の公安警察官を抱えている』とある。道府県警察本部の公安警察は、警備部に「公安課」として設置されている。公安警察に関する予算は国庫支弁となっているので、都道府県警察の公安部門は警察庁の直接指揮下にあると言う。つまり、公安部は警視庁に所属しながらも指揮は警察庁直轄だから、一般警察官のように縄張りを気にして、他の警察本部の管轄内では行動を遠慮すると言う必要も無いと言う事なのだ。作業班などと呼ばれる直轄部隊は、指揮系統が独立しており、警視総監や道府県警察本部長でさえ直轄部隊の任務やオペレーションを知らされていないとされる』とある。
 作業班は、盗聴や盗撮、ピッキング行為といった非合法工作を行う能力も持つとされる。
 興味深いのは“ゼロ”と呼ばれる係りが有り、協力者運営などの情報収集の統括を担当しているという事だった。アニマル運輸の制服を着て美桜の引っ越しをしていたのは、そんな組織だったのだろうか? ゼロは嘗てはチヨダ、ナカノ、サクラなどと呼ばれていたらしい。チヨダは警視庁の所在地、ナカノは旧陸軍の中野学校から取った隠語だろうか。或いは、私の知っている美桜はこの組織に寄って仕立てられた人物なのかも知れないと思った。

『ふーん。内調だけじゃなくて、警察にもこんな組織が有るんだ』
と私は感心した。日本は防諜に関しては丸腰同然と思っていた。『公安部』が有るという事は知っていたが、過激派の取締が主な任務なのかと思っていた。FBIのように管轄を超えて行動し、CIAのような任務も行う組織だったとは驚いた。
 公安に、美桜の事はこれ以上嗅ぎ回るなと言われてしまったので、美桜を探すことは出来なくなってしまった。但し、被疑者では無いとも言われた事は安心材料と言える。

 ワンルームの部屋に戻ると、冷蔵庫からビールを出し、私は、丈の低い二人掛けのクッション状のソファーにどっかと沈み込んだ。テーブルに缶を置き開けると、ジョッキに注いだ。私は、家で缶ビールを飲む際にも必ずジョッキに注いで飲む。缶から直接飲むことは無い。拘りなのだ。缶ナマと言うのがあり旨いと思って何度か買って帰ったが、一度、急いで持って帰り、直ぐ開けたら半分くらいも吹き出してしまって大変な事になったことが有り、それ以来買うのをやめた。
 そんなことは兎も角、ジョッキを空けながら『なんで俺ってこうなんだろう』とつくづく思った。何時も訳の分からない別れ方をしてしまう。またも、モヤモヤした気持ちを抱えながら、その気持ちが薄れるまで、長い時間を過ごさなければならないのかと思った。
 何時もは晩酌に五百ミリ一本だけ飲むのだが、この日は二本飲んで、飯も食わずにそのまま寝てしまった。

 仕事に集中することで、美桜の事を早く忘れようとした。しかし、勤務時間が終われば、また考えてしまう。国分寺に行ってみたくなるが、行ったところでなんにもならないので、結局、酒を飲んで寝るだけだ。

 そんな或日、信号待ちしていると、
「松永さん、お久しぶりです」
と声を掛けられた。見るとあの興信所の調査員だった。
「あ、どうも。その節はお世話になりました」
「少しお話できますか?」
と聞いて来た。
「申し訳無い。あの件はもうあれで……」
と軽く頷いて離れようとした。
「同じサッカー部に吉岡大輝ど言うのが居たのを覚えてますか?」
「えっ?」
と私は立ち止まった。
「私の弟です」
 そう言えば、この調査員、貰った名刺に書いてあった名は、確か吉岡だった。
「そうだったんですか。吉岡君のお兄さんでしたか」
と改めて顔を見ると、高校の時チームメイトだった吉岡に目の辺りが似ていた。
「一度、家に遊びに来たこと有りますでしょう。私は直ぐ気が付きました。一度見ると、割と人の顔は忘れないんです。今の職業を選んだ理由でもあるんですが」
 思い出した。
「ああ、あの時居た大学生だったお兄さん。失礼しました。こちらは覚えてなくて……」
「営業するつもりじゃないんで、少しお話できますか?」
「分かりました。大変失礼しました。大輝、元気ですか?」
「ええ、証券会社に行ってます。来月結婚します」
「そうですか。招待して貰えば、是非伺います」
「もちろん招待するとは思いますが、伝えておきます」

 ガストに入って席を取った。アクリルパネルはまだ貼ってあるので、声が届き難いのではないかと思った。
 挨拶代わりに大輝の近況に付いて少し話した。その後、
「近田美桜さんのことですが、仮に追加の調査依頼を頂いたとしても、お受け出来ない事になってまして……だから、仕事とは思わないで聞いて下さい」
と吉岡が切り出した。
『調査会社の方にも公安の圧力が掛かったのか』と思った。
「私も、立場としてどこまでお話して良いのか微妙なんですが、実は、営業上次に繋げる為のテクニックとしてお伝えしていない事が有ります。今となっては商品価値の無い情報となります。松永さんのご依頼に基づく調査で判明した事で報告していない事をお話ししても、業務規程違反にはならないと思ってお話します。単に報告書に漏れていた事を口頭でお伝えするだけと思って下さい。美桜さんに付いてではないんですが、マンションの管理人に付いての情報です。C国の海外派出所ってご存知ですか?」
「いや」
「滞在するC国人の運転免許証の書き換えなどの行政サービスを提供する機関と言う建前で世界五十三ヵ国に二百以上有ると言われています。実態は彼の国の公安で、海外の反体制派を弾圧する為の組織です」
「日本国内で外国の公安が動いていると言うことですか?」
と聞いてみる。
「そうです。本人に圧力を掛けたり、本国に居る家族を投獄するなどと脅し、反体制活動をやめさせ、帰国を促したりしています。管理人はその協力者と思われる人物なんです」
「協力者?」
「はい、留学生や日本で働いている同国人ばかりでなく、帰化して日本人になっている人の中にも協力者は居ます。小林俊彦と言うのが管理人の名前ですが、元の名を朱剣英と言い、帰化した元C国人なんですよ。工作班を指揮していると思われる人物です」
「えっ? あの管理人さんが……」 
 驚いて確認した。
「我が国の公安がマークしていたと思われます。貴方が“近田美桜”さんの引っ越しを知らなかった事で美桜さんの正体に気付き、マークされている事に気付いたのでしょう」
「私が公安の仕事を邪魔したと言う事なんですか?」
「いえ、故意に悟らせたのだと思います。見張られている事を分からせて、行動を制限しようとしたのでしょう」
「やはり、美桜は公安の……」
と肝心な事に、私は触れた。
「裏付けは有りませんが、恐らく」
「まさか、管理人にハニートラップを仕掛けていたとか」
「いえ、日本の公安は流石にそこまではしませんよ。恐らく、見張っていただけでしょう。接触する人物を確認するために」
「引っ越した理由は……」
「余り長いと相手に気取られます。初めから期間を決めて監視していたのかと。多分、公安の他のメンバーが任務を引き継いで居ると思います」
「それで、逃亡したんですか? 管理人は」
「明らかに日本の国内法に違反して犯罪を犯した証拠が無ければ逮捕は出来ません。彼はまだ居ます。監視は続けるでしょう。監視していると言う事に気付かせ動き難くする事が狙いと思います」
 やる事が消極的過ぎるように思えた。
「やりたい放題やられてるって感じですね」
「ヨーロッパでは逮捕したりしてますが、日本では、外務大臣が抗議するくらいがせいぜいです。正面切ってあの国に喧嘩を売りたくはないんでしょう」
「じゃあ、美桜が私に近付いた理由は何なんです。問題はそれです」
 私は一番知りたい事を聞いた。
「私の私見ですが、恐らく任務とは関係ない事だったと思います。純粋にプライベートで、美桜さんは松永さんとお付き合いしてたんじゃないですかね」
 もしそうなら嬉しい事ではあるが、有り得ない事とも思えた。
「任務中にそんな事許されますか? 聞いたところでは、公安の刑事は、家族にも任務を話してはいけないって事でしょう。顔も晒せないと聞いたことが有ります。最初に美桜は、友達と撮った写真を私に送って来ているんですよ。普通、そんな事をすれば処分ものなんじゃないんですか」
 吉岡も頷いた。
「そこですね。或いは、美桜さんがわざとやったことでは……」
「どういうことですか?」
と私は聞いた。
「いえ、根拠は有りません」

 吉岡と話した事で、過去の事と位置付けて忘れようとしていた美桜の事が、私の中でもう一度膨らんで来てしまっていた。美桜が外国のスパイなどでは無いと分かった事は大きな安心材料ではあったが、反面、別の“何故”が増殖して来ていた。

 四月になっていた。仕事を終え何時ものように、私は地下通路から新宿駅西口地下広場を抜け、JRの西改札口に向かっていた。
 ふと見ると、地下交番の前で一人の女性警察官が和服姿の老婦人と話している。時々指を指して方向を示しているようなので、道を教えているのだろうと思った。人並みでその姿は見え隠れしていたのだが、こちらに顔を向けた時、私はハッとした。
『美桜だ!』
 そう思って立ち止まった。後ろからぶつかって来て、チッと舌打ちして私を除けて通って行った人が居た。急に立ち止まられてぶつかってしまったのだろう。私が、人の流れを乱していた。
 一瞬、美桜と目が合った。その時、老婦人が何度も頭を下げ、美桜から離れて歩いて行った。残った美桜は、少しの間こちらを見ていた。私は美桜に向かって歩き出した。美桜の表情が固まったのが分かったが、ちょっと下を向いてから、美桜は振り向いて交番の中へ入って行ってしまった。
 私は、また立ち止まって人にぶつかられる。美桜を追いかけて交番に入りたいと思った。しかしそこは、日本でも有数の忙しい交番だ。皆、次から次へと対応に追われている。そんなところへ入って何を言う、何をしようと言うのだ。我ながらそう思った。退勤時を待つとしても問題は多い。場所が交番なのだから。一度目を閉じ、心を鎮めてから私は、思い足を運んで帰路に着いた。

 何時もなら必ず飲む缶ビールも飲まず、コンビニで買って来た弁当で夕食を済ませ、私はテーブルの上に置いたスマホを見詰めている。きっと、美桜は架けて来てくれる。そう信じた。スマホを眺めていても仕方が無いから、何かをやって時間を潰そうと思うが、落ち着かず、本を読む気も起きなければ、PCを開いても見たいものが思い浮かばない。美桜から電話が有った時、取り損なう事を恐れて、スマホもいじれない。スマホが鳴るのをじりじりとした気持ちで待っているうちに、ネガティブな考えが大きくなって来る。
『あの時も、こんな風に待ちながら、結局、何も起こらなかったではないか』と学生時代の彼女と別れた時の事を思い出した。

 七時過ぎに呼び出し音が鳴った。見たことの無い番号ではあったが、私は美桜に違いないと確信していた。
「もしもし。突然申し訳有りません。私、木村皐月と申します。新宿警察署新宿駅西口の地下交番に勤務しております」
 押し殺した声で、まるで営業電話のように事務的な名乗りだった。だが、声は間違いなく美桜だった。
「僕の知っている近田美桜と言う人と同じ人ですよね」
 私も、感情を抑えて事務的な口調で言った。
「申し訳有りません。ずっと謝らなければならないと思っていました」
「謝ると言うのは、偽名を使った事、無断で引っ越した事に付いてですか?」
「はい。身分を偽っていた事も含めてです」
「貴方は警察官で、任務として身分を偽ってあそこに住んでいた訳ですよね」
「申し訳有りません。その事に付いて私の口から説明する事は出来ません」
「それは結構です。聞きたかったのは私に近付いた理由です」
「信じて頂けないかも知れませんが、それは、百パーセント私の個人的な感情です。任務は関係有りません」
「そう言われても、素直には取れません。答えられなければ結構ですが、私の知るところでは、私的な恋愛など許される状況では無かったのではないのですか?」
「お目に掛かってお話出来ませんでしょうか? 電話では……」
 言葉遣いは、変わらずよそよそしかったが、声からは感情の動きが読み取れるようになっていた。
「分かりました。僕もそうしたいです」
と私は答えた。
「お住まいに伺って宜しいですか? 今、外でお会いするのはちょっと……」
 声は助けを求めるかのような響きになっている。確かに喫茶店などでは、周りを気にして話せない事も有るだろうと思った。
「…… 分かりました。お待ちしてます」
「八時くらいで宜しいですか?」
「はい」
 電話を切った時、会って話が聞ける事には期待が増した反面、飽く迄他人行儀な美桜、いや、木村皐月巡査の言葉遣いに、私は別れの予感を感じた。

 私の住まいは京浜東北線川口駅から徒歩十分のところに有るワンルームの賃貸マンションだ。荒川を越えただけで家賃相場は安くなる。築七年、ワンルームとは言えオートロックでバスとトイレは別々に有り、一緒では無い。私はシャワーで済ますのが嫌いで浴槽に浸かる事を楽しみにしている。風呂の洗い場に便器が有るのが何とも嫌で、別々と言う条件に拘った結果、都内では家賃も含めて条件に合うところが無かった為、埼玉に住む事にしたのだ。
 インターフォンが鳴った。“美桜”ではなく紺のスーツ姿の木村皐月巡査の姿がモニターに映っている。女性警察官らしい服装と言うのは偏見だろう。女性警察官と言えどカジュアルの時は他の職業の女性と同じように洒落た服装をしているはずだ。紺のスーツ姿は、或いは、自分を保つ為の鎧なのかも知れないと思った。ロックを解除し「どうぞ」と声を掛ける。

 緊張した表情の木村皐月は、私がドアーを開けた時と中へ入ってからのニ回、深く頭を下げた。紺のスーツ姿で深く頭を下げる姿は、手土産でも持っていれば、不始末の詫びに顧客を訪ねた企業の担当者そのものだ。美桜の笑顔をそこに重ねる事は出来なかった。
「どうぞ座って」
 私は、自分が何時も腰掛けているクッション状のソファーを木村皐月に勧め、自分は、向かい合って、フローリングの床に胡座をかいた。
「大変、申し訳有りませんでした」
 そう言って、皐月はまた頭を下げる。
「もう、謝るのはやめて欲しい。謝って欲しいんじゃなくて、どう言う気持ちで居たのか、それが知りたいだけだから」
 下を向いている皐月に、私は、そう話し掛ける。
「申し訳有りません。最初は利用しようとしました。でも、途中からは本当の気持ちでした」
「利用しようとしたと言うのは任務の為にと言うこと?」
「いえ、違います」
 顔を上げた皐月が必死そうに言った。
「どう言うこと? やっぱり言えないか……」
と私が言うと、少し私を見詰めていた皐月は、思い切ったように一度頷いてから、話し始めた。
「私の本名は、お電話でお話ししたように、木村皐月と言います。階級は警視庁巡査部長です。大学を卒業して国家公務員一般職試験に合格した後、警察官採用試験を受け合格しました。その後六ヶ月間、警察学校で学びましたが、卒業の時、或る部署を強く進められました」
「公安部ですね。それは分かってます。でも、すごいですね。トップクラスの成績じゃないと、推薦されないそうじゃないですか」
 私は、そう口を挟んだ。
「交番勤務の後に実際にその部署に入って任務をこなして行くうちに、自分には合わないと思うようになったんです」
「どうして?」
「任務の内容に関連するので、すいません、それは言えません」
「異動を願い出たのですが、中々聞いて貰えませんでした。そんな時、外部に出るには必要とされなくなる、つまり、要らない人材となるのが一番だと聞いたんです。それで、任務中であるにも関わらず、強引に休暇を取って、学生時代の友達を誘って温泉に行ったんです」
 公安としては、色々知っている人間を他の部署に異動させたくは無いのだろうと思った。ネットで調べた時も、公安畑一筋という人が多いと書いてあったような気がする。問題が有って、懲戒的に交番勤務に回されるケースは有るようだ。また、希望による異動も多くは無いが有るには有るという。
「任務中の休暇? そんな事、出来るんだ」
「もちろん、ひんしゅくものです。当然、最初は『ふざけるな』と言われ突っぱねられました。私の仕事の穴を、誰かが埋めなければならない訳ですから。私は何度も願い出て、どうしても駄目なら退職させて欲しいとまで言いました。その頃、自衛隊を退官後セクハラを訴えた元自衛隊員の女性がニュースになっていましたよね。私が辞めて、休暇も取らせないと騒ぎ、揉め事が表に出たりしたら大変と思ったのでしょう。案外、あっさり休暇は取れました。しかし、異同は諦めた方が良いなどとそれとなく言われました。松永さんにクーポン券を頂いた時、咄嗟に思ったんです。お礼と称して顔写真を送ってしまおうと」
「公安警察官は面が割れたら仕事にならないと言う事ですか? よっぽど異動したかったんですね」 
「顔を晒してしまえば、不要な人材に成れると思いました。写真を送ったのは、確かに貴方を利用する目的でした。申し訳有りません。水上から帰って何日かして貴方からお礼のメールを貰った時、人の好意を利用していると言う自責の念に駆られました。そして、何故かお会いしたくなりました。でも、会うために、また嘘をつかなければなりませんでした。会ってからも楽しそうに接してくれる貴方に申し訳無いという後ろめたさが常に有りました。でも、考えてみれば、私は自分の事しか考えていませんでした。他の部署に異動したいと言う想い。その為に貴方を利用し、更に、貴方と話していると楽しかったから……それだけで、その後どうなるか考えていませんでした。現実に目を塞いで、貴方にやすらぎを求めていたんです。自分の事しか考えていなかったんです。申し訳有りません」
 彼女の正直な告白に、私の中のモヤモヤは解消された。
「自己中ってことですか?」
 私は、過去の自分を顧みて、そう言った。
「え?」
 皐月には通じなかったようだ。
「自己中心的な考え方って事ですか?」
と言い直した。
「その通りです。自分の心のバランスを取る為に、貴方を利用したんです」
 私は少し微笑んで見せた。
「誰でも、結局は自己中ですよ。正直に打ち明けてくれて有難う。任務の為に利用されただけと言うのでは到底受け入れられませんが、貴女の役に立てていたと分かって良かった。そう思いますよ」
「私のやった事を許してくれると言うんですか? 有難う御座います」
 木村皐月は唇を噛み締め、目の周りが微妙に膨らんだ。何かを飲み込む。彼女はハンカチを取り出して目頭を押さえた。
「本当に申し訳有りませんでした。許すと言って頂いて、ずっと心に重くのしかかっていたものが取れました。有難う御座います」
 そう言うと、木村皐月は立ち上がった。そして、また、深々と頭を下げる。
「失礼します」
 そう言ってドアーの方に歩きかけた。
「気持ちは嘘では無かったと言ってくれましたよね」
 皐月の背中に、私はそう声を掛けた。皐月が振り返る。不安げな表情。
「木村皐月さんに、改めて交際を申し込んではいけませんか?」
 すべての気持ちを込めて、私はそう言った。暫しの躊躇いの後、木村皐月の顔に美桜の笑顔が蘇るのを、私は見る事が出来た。
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