第1話

文字数 1,969文字

  猫と犬の違いがわからない。男と女の違いがわからない。動物と植物の違いがわからない。ものとものの間にある線を、私には見ることができない。その線は神によって引かれているのか、人によって引かれているのか、歴史によって引かれているのか何一つわからない。AIは猫と犬を区別するらしい。AIは私よりもずっと賢くなってしまった。いや、AIは私よりも人間になってしまったのだ。

 文学部哲学科の哲学Ⅰの講義は私にとって大きなきっかけとなった。イデアという概念は、私が考えなくてはいけないものに違いないと確信した。プラトンによれば、私たちの普段目にしている現象界とは別にイデア界があるという。我々が目にするあらゆるものは、イデアの影だという。イデア界には本当の人間や、猫や、犬がいて、それらの影が現象界に表れている。私たちはイデアを魂で知っていて、その記憶があるから、猫と犬を見分けられるらしい。 
 哲学Ⅰの最初の講義の後半45分でイデアについて解説された。最初の45分でこれからの講義の流れや、どんなふうに評価するのかを説明し、後半では実際の講義の見せて、実際に履修するか選びやすいように構成となっていた。
 教授はイデアを絶対主義を作り出した悪しき哲学だと批判されていることも説明し、当時はソフィストという相対主義者たちが幅を利かせていたことも教えてくれた。それからの西洋哲学は大雑把にいえば、絶対主義と相対主義の対立であるという。

 講義が終わると教授は講義につかった資料やパソコンをしまい、教室をでた。私は教授を追いかけ、廊下で話しかけた。
「私は猫と犬の違いがわからないんです。プラトンにいわせれば、私は魂のない存在なのでしょうか」
 教授は真剣に私の言葉を受け止め考えている。
「遠回りをしたほうがわかりやすいということを、君はわかってくれるかい」
 教授は私に問いかけ、私は少しだけ考え「はい」と答える。
「では、遠回りをしよう。相対主義は相対主義によって否定されるというパラドックスがある。ものごとは相対的であるというのが正しいとすれば、その正しさも相対的に捉えられ、その正しさも相対的なものにすぎなくなる。もう一方も考えてみよう。絶対主義は、絶対性を担保できる外部が存在しないという問題に陥る。たとえば、我々が俗にいう自然科学とは、一般論として我々人間の外側に証明する手段が存在する。しかし、それが証明されたと判断するのは人間の内部であるといえてしまうし、もっといえば、真理の追究なんてものはできないことになる。それが絶対であるという確定させる外部なんて存在しないのだから。ここまでわかるかね」
「なんとなくですが」
「よろしい。相対主義と絶対主義の中に君を救う哲学は存在しない。だが、その二つを考えることは君を救う可能性がある。それはなぜかわかるかい」
「わかりません」
「そうか。君は区別しないということを、おそらく欠陥であると考えている。だから、悩んでいる。ほかの人たちが当たり前にしていることをできないのは辛いことだと思うよ。あまりわかったようなことは言いたくないけれどね。でもね、一つ言えるのは、君に生じているのはただの現象なのだよ。ただ、区別ができないという現象が起きているでけなんだ。それなのに、なぜ悩む必要があるのかな。君は気づかないうちに、ただの現象をネガティブに捉えている。現象には良いも悪いもないとは思わないかね。君が区別できないとすれば、現象の良いも悪いも区別できないはずだよ。これはね、君が本当に悩んでいるかを疑っているということではない。人間というのは往々にしてそういう生き物なのだよ。だから、考えてみるといい。きっと君の悩みは、相対主義に内包する問題と、絶対主義に内包する問題、そしてその二つの関係性を考えれば、何か紐解けるかもしれない」
「考えてみます。ありがとうございました」
 そういって、私は次の講義を受けるのをやめ、食堂へとむかった。二階入っているハンバーガー屋で一番安いセットを注文し席に座る。まだ11時だから席はガラガラだった。
 もしかしたら、相対主義も絶対主義も存在しないのかもしれない。人間がそこに線を引いてしまったのが過ちなのであり、本当は線なんてものは存在しないのかもしれない。相対主義が相対主義によって破綻してしまうことは何かよくできた笑い話のように感じた。その笑い話が考えられて、そのあとで線が引かれたのではないかとすら思えた。
 セットで買ったハンバーガーについてきた、カルピスの入っている紙コップから人差し指で水滴をとり、黒いトレーの上を指でまっすぐ線を引く。トレーの上にまっすぐ引かれた線は、透明で、じっくり見ないとわからないけれど、確実にハンバーガーとポテトを左に分類し、カルピスを右に分類していた。
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