背筋
文字数 1,967文字
ブリジット・バルドーと最初の夫の間には、家の中では彼女はずっと裸でいること、という取り決めがあった。
その日ぼくは、薫先生のそばで『世にも怪奇な物語』を鑑賞した。見終わってから、ぼくが茶を淹れていると、先生がそんな豆知識を口にした。
バルドーはそのオムニバス映画の第2話に登場するが、第1話の監督が既に別れていた最初の夫なのだという。
「ずっと裸でいるのって、どんな感じかしら」
薫先生がぼくに笑みを向ける。
「すうすうしますね」
気の利いた言葉の浮かばなかったぼくはただそう応じた。
「やっぱり背筋が伸びるのかしら……ちょっと試してみようか」
先生は続けた。
ぼくは一瞬ぽかんとした。それでも、先生はぼくに一日裸で過ごさせようとしているのだとすぐに気づいた。
「わたしが裸になってもバルドーの気持ちは分かりません」
ぼくはせめてもの抵抗を試みたが、
「だからいいんじゃない」
もとより涼しい顔の先生には通じない。藪蛇だったとまではいえないが、先生の掌で踊らされている感は否めなかった。
「どんな気持ちだったか後で教えてね」
先生がにっこりと微笑んだ。それが先生の創作の助けになるのであれば、アシスタントとしては無下に断るわけにもいくまい。
ぼくはブリーフだけは着けておくことにした。下半身裸で椅子に座ったりすることが好もしいとは思えなかった。先生が何も言わないところを見ると、その判断は正しかったのだろう。
「ただ裸でいてもつまらないから、ちょっとルールを決めておこう」
薫先生がパッと顔を輝かせる。しかし、
「メイドになってもらうわ」
と先生が続けたのを聞いてぼくは拍子抜けした。原稿整理や調べ物がアシスタントの仕事だが、手が空けば簡単な炊事や掃除もしている。メイドの業務は普段からぼくがしていることと重なるはずだ。それでも、「何でも言うことを聞いてもらう」と先生が言い添えたことは、中身が漠然としているだけに気になった。
三人掛けのソファの中央に腰かけている先生が、目でぼくを呼んだ。戸口に控えていたぼくはそそくさと歩み寄った。
「何でしょう?」
とぼくはたずねる。
「足が疲れたの。ここで四つ這いになって」
薫先生はニヤリと笑みを浮かべ、ぼくを見上げた。ぼくは自分の頬が硬直するのを感じた。先生の足が疲れてしまったことと、ぼくが四つ這いになるということ。二つの事象の間には連繋が見出せない。
「早く」
と焦れた先生がぼくを急かした。
「ここですか?」
はっとしたぼくはそう伺いを立てながら、ソファと平行にうずくまり、両膝、両手を床についた。
「もっとこっち」
言い聞かせるような薫先生の声が響く。ぼくは両膝、両手をついたまま先生の足下にすり寄った。
と、先生はぼくの脇腹をかすめて片足を振り上げ、背中に載せた。間髪を置かずに残った足も抜き、ぼくの背中の上で二つの足首を重ねた。
薫先生はぼくの背中にめり込ませた踵を支点に、重ねた両足を左右に振る。
「ンッ」
ぼくは小さな吐息を漏らし、長く首を伸ばした。先生は再び孟子の頁を繰りはじめる。孟子のせいでもないだろうが、ぼくは大昔に、貴人が馬に乗る際に踏み台として背中を差し出した者どもにふと思いを馳せた。雨の日も風の日も、泥だらけになりながらうずくまったその者どもに比べれば、ぼくの境遇は恵まれている。声を立てず、微動だにしないことが課された役目なのだとぼくは観念した。
薫先生は書物を置き、座面の四角い盆に手を伸ばした。ワイングラスを取り上げ、一口啜ったようだ。その気配を覚ったとき、鮮烈な渇きがぼくを支配した。
ハイヒールの黒革は滲んだ汗を纏い、ぼくの裸の背中の上を突然急速度で滑った。バランスを失った先生は、上の足の膝を立て、ぼくの背中を踏みつけた。ぼくを窘めるその所作に、それほどの勢いはなかったはずだ。が、鋭いピンヒールをくりかえし突き立てられて、ぼくの背中は無言の悲鳴を上げた。
「ウウッ」
代わりにぼくは呻きを漏らした。
薫先生はその足を、寝かせたほうの足に交差させ、靴底でぼくの首筋をすりすりと撫でた。
「はしたなくってよ、声を上げるのは」
先生は少し怒ったような、諭す口調になる。
「はい、わかっています」
「わかっていても、できなくては意味がないわ」
「はい……」
声は立てず、微動だにするまい。ぼくは足置きの役目を全うすべく自分に言い聞かせた。無事に務めが果たせたならば、ことによると褒美に与ることも叶うかもしれない。
が、首筋を擦 っていた黒のハイヒールは離れ、再び腰の近くに突き立った。
「ウグッ」
舌の根も乾かぬうちにぼくは呻きを漏らした。
「ほんとう気が利かないのね」
文脈をすっとばした薫先生の叱責にぼくは面食らう。ぼくはただワインが欲しいわけではない。先生が口に含んだそれを与えられたい。
その日ぼくは、薫先生のそばで『世にも怪奇な物語』を鑑賞した。見終わってから、ぼくが茶を淹れていると、先生がそんな豆知識を口にした。
バルドーはそのオムニバス映画の第2話に登場するが、第1話の監督が既に別れていた最初の夫なのだという。
「ずっと裸でいるのって、どんな感じかしら」
薫先生がぼくに笑みを向ける。
「すうすうしますね」
気の利いた言葉の浮かばなかったぼくはただそう応じた。
「やっぱり背筋が伸びるのかしら……ちょっと試してみようか」
先生は続けた。
ぼくは一瞬ぽかんとした。それでも、先生はぼくに一日裸で過ごさせようとしているのだとすぐに気づいた。
「わたしが裸になってもバルドーの気持ちは分かりません」
ぼくはせめてもの抵抗を試みたが、
「だからいいんじゃない」
もとより涼しい顔の先生には通じない。藪蛇だったとまではいえないが、先生の掌で踊らされている感は否めなかった。
「どんな気持ちだったか後で教えてね」
先生がにっこりと微笑んだ。それが先生の創作の助けになるのであれば、アシスタントとしては無下に断るわけにもいくまい。
ぼくはブリーフだけは着けておくことにした。下半身裸で椅子に座ったりすることが好もしいとは思えなかった。先生が何も言わないところを見ると、その判断は正しかったのだろう。
「ただ裸でいてもつまらないから、ちょっとルールを決めておこう」
薫先生がパッと顔を輝かせる。しかし、
「メイドになってもらうわ」
と先生が続けたのを聞いてぼくは拍子抜けした。原稿整理や調べ物がアシスタントの仕事だが、手が空けば簡単な炊事や掃除もしている。メイドの業務は普段からぼくがしていることと重なるはずだ。それでも、「何でも言うことを聞いてもらう」と先生が言い添えたことは、中身が漠然としているだけに気になった。
三人掛けのソファの中央に腰かけている先生が、目でぼくを呼んだ。戸口に控えていたぼくはそそくさと歩み寄った。
「何でしょう?」
とぼくはたずねる。
「足が疲れたの。ここで四つ這いになって」
薫先生はニヤリと笑みを浮かべ、ぼくを見上げた。ぼくは自分の頬が硬直するのを感じた。先生の足が疲れてしまったことと、ぼくが四つ這いになるということ。二つの事象の間には連繋が見出せない。
「早く」
と焦れた先生がぼくを急かした。
「ここですか?」
はっとしたぼくはそう伺いを立てながら、ソファと平行にうずくまり、両膝、両手を床についた。
「もっとこっち」
言い聞かせるような薫先生の声が響く。ぼくは両膝、両手をついたまま先生の足下にすり寄った。
と、先生はぼくの脇腹をかすめて片足を振り上げ、背中に載せた。間髪を置かずに残った足も抜き、ぼくの背中の上で二つの足首を重ねた。
薫先生はぼくの背中にめり込ませた踵を支点に、重ねた両足を左右に振る。
「ンッ」
ぼくは小さな吐息を漏らし、長く首を伸ばした。先生は再び孟子の頁を繰りはじめる。孟子のせいでもないだろうが、ぼくは大昔に、貴人が馬に乗る際に踏み台として背中を差し出した者どもにふと思いを馳せた。雨の日も風の日も、泥だらけになりながらうずくまったその者どもに比べれば、ぼくの境遇は恵まれている。声を立てず、微動だにしないことが課された役目なのだとぼくは観念した。
薫先生は書物を置き、座面の四角い盆に手を伸ばした。ワイングラスを取り上げ、一口啜ったようだ。その気配を覚ったとき、鮮烈な渇きがぼくを支配した。
ハイヒールの黒革は滲んだ汗を纏い、ぼくの裸の背中の上を突然急速度で滑った。バランスを失った先生は、上の足の膝を立て、ぼくの背中を踏みつけた。ぼくを窘めるその所作に、それほどの勢いはなかったはずだ。が、鋭いピンヒールをくりかえし突き立てられて、ぼくの背中は無言の悲鳴を上げた。
「ウウッ」
代わりにぼくは呻きを漏らした。
薫先生はその足を、寝かせたほうの足に交差させ、靴底でぼくの首筋をすりすりと撫でた。
「はしたなくってよ、声を上げるのは」
先生は少し怒ったような、諭す口調になる。
「はい、わかっています」
「わかっていても、できなくては意味がないわ」
「はい……」
声は立てず、微動だにするまい。ぼくは足置きの役目を全うすべく自分に言い聞かせた。無事に務めが果たせたならば、ことによると褒美に与ることも叶うかもしれない。
が、首筋を
「ウグッ」
舌の根も乾かぬうちにぼくは呻きを漏らした。
「ほんとう気が利かないのね」
文脈をすっとばした薫先生の叱責にぼくは面食らう。ぼくはただワインが欲しいわけではない。先生が口に含んだそれを与えられたい。