第1話

文字数 40,995文字

 失った幸せに想いを馳せ、ありもしない理想を自分の中で真実とした古市という男は、その自分の理想のもと作った価値観の物差しを長らく捨てることができなかった。人に認められたいが故に人を突き放すことを止められなかった。

 中学生時代の古市の生活はとても充実していた。新宿まで電車で三十分の、都会とも田舎とも言えない埼玉県の南部で学生時代を過ごした彼は、勉強ができ、野球部で部長を務める明るい男だった。そんな彼のことを、学校中のほとんどが『できるやつ』として扱っていた。三年生の秋も終わる頃のある日、彼にとって足枷となる出来事が二つ起きた。
 その日彼は学校から帰宅し、自室で受験勉強をする、といった体でテレビゲームに勤しんでいた。元々スポーツ少年であるためゲームが好きなわけではないが、勉強をするよりは遥かに楽に達成感を得られるためである。半ば惰性で遊んでいる最中、彼の黒い携帯電話にメールが入った。暇をしている状態と何ら変わりない彼はすぐにメールを見る。差出人は隣のクラスの芹沢という女子。黒髪を二つ結びしており、明るく活発で、笑うと三日月形になる目が印象的ないかにも人気のある可愛い女の子であった。彼女とは二年生のとき同じクラスであり、校外学習のとき同じグループになるなど親しくしていた。そして何より、三年生に上がる頃に一週間だけ交際した仲であった。一般的に考えれば一週間とはとても短く、「交際していた」とは公言し難い期間である。しかし、中学生の彼らにとってそれは例外であり、過去の交際相手であることに他ならない。メールを開封するとそこには、
「突然メールしてごめんなさい。明日伝えたいことがるので帰りのホームルームが終わったら教室で待っていてくれませんか。」
普段彼女から使われることのない丁寧な文面とその内容から、当然告白されるのだろうと考えた彼は困った。今の彼には異性と付き合いたいという願望がなかったからである。それは中学校生活の中で好きになった人全員と交際することができたという華々しい過去から、いつだって自分の好きな時に好きな人と一緒にいることができるだろうと、そう考えたのだ。余計な期待をさせては可哀想だと考えた彼は、全力の気遣いを携えてこう返した。
「全然大丈夫だよ。多分期待している返事はできないと思うけど、それでも良い?「
このメールを送った後すぐの芹沢の返信には、明日の告白は辞めにする旨が記載されていた。

 それから数時間後、彼は家を出た。仲良くしているクラスの友達と晩御飯一緒に食べに行くのだ。彼らとは今年同じクラスになり親しくなった。古市は電車で二駅の名門学習塾に通っているのだが、そこに一緒に通っている中村、好きなお笑い番組が古市と同じで、笑いのセンスが合う寺田、サッカー部でエースを張るものの、写真を撮ることが大好きな口数の少ない太田に古市を加えた四人組である。特に中村に関しては古市と同じ塾に通っているものの、塾内で学力順で振り分けられるクラスにおいて一番上のクラスに在籍しており、真ん中のクラスの古市とは受験への意識の差が大きい。(このように古市と中田は三年間塾内でのクラスが違うため、塾での接点がなく今年まで仲良くなることはなかった。)
今は呑気に飯なんて食ってる場合ではない、と乗り気ではない彼は無理矢理に連れ出された。
集合場所の学校近くの交差点にはまず太田、次に寺田続いた。
「時間ぴったしじゃない?太田しかいないの?
「いないね、いつも通り」
二人の短いやり取りが終わるや否や古市が到着。
「中村よりは先に来た!」
「太田と俺しか時間守れないのどうにかしない?」
半笑いで冗談混じりに説教垂れる寺田と、それに対して自分を正当化する冗談で受け答えをする古市、古市の冗談にツッコミを入れる太田の三人の様は、受験や家庭内での問題などそれぞれに抱えているものがあるのかもしれないが、今この瞬間、完璧な人生を生きていることが容易く見てとるほどに幸せなムードで満ちていた。
程なくして中村がやや不機嫌そうな、でもどこか笑みを含みながらクロスバイクに立ち漕ぎでやって来た。到着直後、誰にもものを言わせない速さで、
「俺は九時までな。」
と自分はあくまで受験勉強が優先であるという宣言を皆にしてみせた。中村以外の三人はハイハイ、と生返事を返す。こうして集まった四人は集合場所の交差点から歩いて十分ほどの駅前のファミレスに入っていった。
注文を終え他愛のない話を交わす中、中学三年生の彼らの話題は自然と進学先の話となった。
「中村は慶応の附属受けるんだろ?俺たちとはレベルがちげぇよな。」
尊敬というよりは開き直ったような言い方で寺田が言った。
「受けるだけなら誰でもできるからね。受かんない気がするし。」
「中村なら受かるだろ、古市なら無理だろうけどね。」
「うるせぇ、お前と対して変わらねぇだろ。」
などといつもの調子で会話をしている時、太田が突然少しズレたことを言い出した。
「俺高校ではサッカー部が無いとこに行こうと思う。」
太田よ、今は部活の話なんてしてないぜ、というツッコミを心に抱えつつ呆気に取られている三人に向けて太田は続けた。
「俺は将来カメラマンになりたいんだよね。だから写真部があるところにいきたくてさ。この辺の公立でしっかりやってる写真部があるところって言ったら松陽高しかないからそこにしたんだ。」
急に夢を語り、そのための進路を語った太田に対して古市は反射的にこう思った。
『カメラマンは無理だろ。』
カメラマンを職業とすることとはつまり、ロックバンドマンや漫画家となり、お金を稼ぐことと変わらないのではないか。そんなのフリーターになるのがオチではないかと、一瞬でそこまで考えた。つまり、こいつはフリーターになるための高校を選びをしているのか、なんて馬鹿な奴なんだろうか、と弱くない嫌悪感さえあった。
「えーすげぇじゃん。夢とかないから羨ましいな。」
おそらく古市と同じことを考えて固まっているのであろう中村の隣で、寺田が返事をした。彼は一見四人の中で一番の阿呆だが、こういう時人一倍気を遣えるのだ。
「俺も何も決めてないや。やばいよね。中村は政治家だな。」
いつものふざけた口調を取り戻し古市が適当なことを言った。太田は大きめに俯き、緊張から解放されたような安心感と、何か大きなことを成し遂げた後のような満足感が見て取れる表情をしていた。それを見た古市はこいつは本当に何を勘違いしているのだろうか、と心底憤りを感じていた。太田の選択の重さを古市は重々承知しているつもりであった。というのも、太田の所属するサッカー部は全国大会出場は珍しくない、県内屈指の強豪校なのだ。卒業生の中にはプロの世界で活躍する選手も何人かいる。そんなチームで部長を務める彼の実力はチームの名に恥じぬ代物であり、彼のことを知る誰もが、彼は生涯を通じてサッカーと共にあるのだろうと期待を込めて考えていた。だからこそこれの選択には驚愕し、またその突飛な発想に憤慨したのである。

 ファミレスでの太田の告白以降、古市は太田と距離を置いた。いつもの四人組で動くときは特別避けることなく一緒にいるが、それ以外の時は一緒にいないようになった。そして太田も何か察したのか古市に声をかけることは無くなった。
中学を卒業し、古市と寺田はお互い別々だが同じレベルの進学校に進学した。中村は希望していた慶応の附属は落ちてしまつたものの、その一個下のレベルの大学附属高校に進学。そして太田は本人の希望通り、写真部のある松陽高校に進学を決めた。太田の松陽高校への進学は案の定、彼を知る誰もを驚かすこととなった。
古市は自分の高校進学について特に深く考えることはなかった。両親からはレベルの高い大学に入らないと良い会社には入社できず、将来幸せになれない、と教えられていた。しかし、レベルの高い学習塾に通っており学校内の成績は悪くないものの、中村の目指すような大学の附属高校を受けられるレベルでは到底ないため両親の期待に応えることはできないだろうと彼は理解していた。その上で勉強をしよう、と彼はならなかった。それはひとえにこれまでの人生で失敗をすることがなかったからである。この失敗というのは高校受験に落ちることは含まれていない。どこの高校に行ったところで、自分は充実した高校生活を送ることができると考えているからである。しかし彼の気持ちを知ってか知らずか、両親からは苦言を呈された。古市の両親は息子に半強制的に中村が受験するようなレベルの高い高校を受験させた。三年間高い授業料を払って学習塾に通わせていたのだからそれくらい受かって貰わなくては困る、といった理屈だ。しかし塾内での古市の学力は極めて低く、その原因は塾に行くと称して同じように成績の悪い塾生と夜な夜な遊び歩いているから、と救いようがない。
そして彼は王子高校に進学した。東京の北の方に位置する私立高校だ。進学する生徒の九割が第一志望の高校に落ち、大学受験こそは成功させたい、という願望を持ってやってくる進学校である。しかし、進学校を謳ってはいるものの、古市のように、ある程度の学力は持ち合わせているがやる気はほとんどない生徒の進学数が少なくないため、進学実績は決して世間に誇れるものではなく、巷では自称進学校と揶揄されることも多々ある。ある意味古市が進む学校としてはお似合いであった。


 王子高校に入学した古市は電車通学特有の満員電車に多少ストレスを感じながらも、高校生活に期待ばかり抱いていた。そして間も無くしてクラス内の賑やかなグループに所属することになった。俗にいうクラス内カーストの上位のグループだ。つまり中学校時代同様、華々しい高校生活を約束されたも同然だ。そのグループは男女四人ずつの八人であった。男子は古市が野球部なのに加え、それぞれサッカー部、バスケットボール部、テニス部とスポーツのできる体育会系であり、女子に関してもバスケ部二人、テニス部、ソフトボール部と同様であった。
授業の内容は少し難しく勉強は大変ではあるものの、休み時間の男女交えた談笑、放課後の部活、休日には地元埼玉から少し離れた都内で遊び倒すなど、高校生生活を満喫し始めていた。そんな生活が2ヶ月ほど続いた五月の終わり頃、古市はあることに気づき始める。彼が
グループ内で一番下の立場であったのだ。グループ八人で談笑をする際、その多くの場面で古市を馬鹿にするような内容で話にオチがついていた。それはよく言えばグループ内のお笑い担当といったところであるが、悪く受け取った場合、古市以外の七人が一番下には古市がいるのだから、私はこのグループで一番下ではない、という尊厳を失わないための受け皿に他ならなかった。古市はそれなりに頭が回ってしまったため後者のように捉えた。そして改めて考えた時、そもそも自分は最初から彼らに劣等感を抱いていたため、お笑い担当、という情けないポジョンに自分から就いたことに思い当たった。彼は中学生の頃までどこのグループにいても『上』の立場にいたため、自分の行動のその真意に気づくことができなかったのだ。彼は焦った。彼は
考えた。他の七人と比べてどこが劣っているのか考えた。考えた結果一つの答えに辿り着いた。自分が劣っているのではなく、彼らが自分の良さに気づいていないのだ。思い返せば彼らとは趣味が全くと言っていいほど合わなかった。彼らが流行りのアイドルソングや流行歌を聴いているのに対して古市は一昔前の英国のロックミュージックを聴いていたし、彼らが昨晩のテレビドラマの話をしている際古市は全くの上の空で今晩の深夜ラジオのことを考えていたの。極めて平凡で大衆的な彼らのことを改めて考えると、なんだか馬鹿の集まりのように見えてきた。その馬鹿の集まりにうまく馴染めていない自分は大変特別な存在であり、人として一人前のような感じがしてならなかった。途端に彼らと行動を共にすることが恥ずかしくなり、古市は彼らのグループを離れた。グループを離れて最初の頃は、何があったのかと気にかけてくれた元仲間も、次第に声を掛けることがなくなり、六月も半ばになる頃には古市の抜けた『席』を埋める形でテニス部の顔立ちは良いが気の弱い男子がグループに加入していた。なんだ、自分である必要はなかったのか、と残念な気持ちが腹の底から溢れ出し、古市は大いに落ち込んだ。しかしこれは何とも自己中心的な落ち込みであった。彼はグループのメンバーからグループを出ていけとも言われていないどころか、本当に下に見ていたかすら確認を取っていないのである。そして実際のところ彼らは古市を下に見ていなかったし、古市がグループを離れた時には自分たちの古市への接し方を反省し、それを彼に伝えていた。しかし彼はそれに応じなかった。お互いに勘違いがあったことを古市は分かっていた。分かっていたがそれ以上に、彼らと連んでいても人として立派にはなれないと結論付けてしまったのだ。彼らとの和解を拒み続け、一人よがりになっている彼が落ち込むというのは傲慢に他ならなかった。
その後古市は自分の好きなことをしようと考えるようになった。王子高校は進学校であるため運動部といえど過度に練習がキツいことや、練習日数・時間が多いわけではなかった。古市の所属する野球部も例外ではなく、週に二回休みの日があり、髪の毛も高校球児らしく坊主にしなければならないことはなかった。週に二回の休みは日曜日と水曜日であった。古市はその時間を利用して七月も後半に差し掛かる頃、音楽、特にロックミュージックが好きなクラスメイトを集めてロックバンドを組んだ。この時期にバンドを組んだのには理由があった。十月に開催される文化祭のロックバンドのライブイベントで演奏をするためである。文化祭のメインイベントの一つであり、ほとんどの学生が一堂に会し、ロックバンドの演奏に気分を高揚させる。このイベントは応募した全てのバンドが参加出来るわけではなく、九月に軽音楽部の顧問の先生が開催するオーディションに通った上位三組だけが参加できる。このオーディショを受けるために七月にバンドを組み、夏休みである八月にみっちり練習する必要があったのだ。バンドメンバーは古市を含めてで四人だった。ヴォーカルの古市、ギターの野辺、ベースの小川、ドラムの半沢だ。彼らは皆古市に好意的であった。メンバーの中で唯一古市にはロックバンドでの演奏経験があったのだ。演奏経験といっても特別なものではなく、中学生の時に楽器を持っている友達と数回リハーサルスタジオで初心者向けの曲を演奏しただけであり、人前での演奏経験は皆無であった。しかし、古市以外のバンドメンバーはその全員が今回バンドを組むにあたり楽器の購入から始めた素人中の素人であったため、リハーサルスタジオの予約の仕方や、スタジオ内の機材の操作方法を知っていることでさえ、古市が一個上のステージにいるような気にさせたのだ。
このような状態であったためバンドは古市主導となった。こと選曲に関してはメンバーの意見を尊重した。というのもオーディションの評価基準の一つに、文化祭で演奏したさいに、学校中のほとんどの生徒が知っている曲であり、楽しむことができること、というものがあったからだ。古市が効くような一昔前の英国のロックミュージックがそれに当てはまるはずがないため、選曲には参加しない方が良いだろうと考えた。他の三人は皆ロックが好きではあるものの、日本の、今流行りのロックを好んでいたため、選曲に間違いはなかった。古市が常々、日本の流行りのロックなど流行りの歌謡曲となんら変わらないと考え、軽蔑していた。しかし、その軽蔑する音楽を演奏することにはあまり抵抗がなかった。彼は好きな音楽を楽しみたい、というよりは自分のロックバンドマンとしての実力を校内の皆に知らしめてやりたいと強く願っていたからだ。しかし、その行為は彼が軽蔑する、皆と同じものを同じように好きになり、楽しむスクルールカースト上位の奴らと本質的には変わらないのである。自分の好きなことを突き詰めることなく、人に認めれられることために行動を起こす。これは周りのご機嫌取りを行っていたかつての古市となんら変わりのない姿であった。そのことに半ば気づきつつも古市はそれを止めることができなかった。彼は中学校時代のような、何事もうまくいく生活に飢えていたのだ。その旨味を知っているが故になんとしてもそこに辿り着きたかったのだ。文化祭でのライブを成功させ、古市が五月に抜けたグループの人間たちよりも優れていることを証明して見せ、スクールカースト上位にいることができていない現状を脱したかったのだ。客観的に見れば、ロックバンドでの演奏が優れていたからといって、彼より古市の方が優れている事にはならないのだが、勉強もできず、弱小野球部に所属する今の古市にはロックバンドしか残されておらず、ここでなんとかしてやろうと考える他なかった。特に九月のオーディションで競い合う相手は軽音楽部のその道の連中出ることや、学年関係なく同じオーディションで出場枠を争うことから、ここで軽音楽部でもない一年生が出場を決めたとなれば、誰もが自分を認めるだろうと考えたのだ。
他のバンドメンバーに選曲を任せたことは、自分達がやりたい曲、選んだ曲だから頑張って弾けるようにならなければならない、という感情を三人に掻き立てた。その結果覚えも早く、練習も古市以外のメンバーは基本的に反対意見を言わないためスムーズに進んだ。また、三人はそれに特に不満を持たなかったため衝突することもなく、四人の仲は良くなっていった。また、このバンドには一つ大きな誤算があった。素人同然の楽器隊のメンバーたちが異常なほど早く上達したのだ。特にギターの野辺の成長には目を見張るものがあった。練習を始めた頃は、少しはギターの弾ける古市が指導をすることもあったが、夏やみも終盤に差し掛かる頃には古市とは比べ物にならないほど弾けるようになっていた。これに古市は複雑な感情を抱いた。というのも、古市が初めてギターを手にしたのは中学二年生の頃であり、野辺よりも遥かに前からギターには触れていたのだ。そんな自分をわずか一ヶ月で追い越していく彼を羨ましく思わずにはいられなかった。ただ、r中学二年生からギターを持っているものの、文字通り持っているだけであり、基本的にはヴォーカルを務めているためギターを弾くことはあまりないという理由で練習という練習をしていなかったのである。なのでこの複雑な気持ちはしばらくすれば消え、自分もしっかり練習をすれば野辺位は弾けるようになるだろう、俺のバンドのギタリストは天才ですごいだろ!、と楽観的に考えるようになっていった。

 九月になりオーディション当日を迎えた。オーディション会場は体育館であった。参加バンドのメンバーは体育館に一番近い理科室に集められた。古市たちのバンドが理科室に入る頃にはすでに殆どのバンドメンバーが集まっていた。
「一年いなくね?」
ドラムの半沢が調子の良い感じで若干周りに聴こえるくらい大きさで呟いた。実際に一年生が少ないことを古市たちと共有したいわけではなく、理科室の大半を占める上級生たちに『俺たちは一年生でオーディションに受かる自信があるぞ。』と主張したかったらしい。長く伸ばした髪を茶色に染めてパーマを当てている、いかにも音楽をやりそうな髪型で夏休み明けデビューをした彼は何事に関しても自信がある振る舞いをする節がる。
「そうだね。」
上級生に目をつけられたくない、平和主義者の小川は半沢の調子に乗った姿を見て不機嫌そうにいった。彼もまた髪がは長いが、黒髪を単に伸ばしているだけでこだわりはなさそうだ。細い目がいっそう不機嫌さを増して伝える。半沢が先導し、古市たちのバンド『アドリン』は空いている席に座った。バンド名の由来は日本人とアメリカ人のハーフである野辺の弟で、今年三歳になる男の子の名前をそのままつけた。古市が、THE〜といったバンド名は堅苦しすぎるし、かといって近頃多いふざけたような、間の抜けた名前をつけるのは、演奏が上手くいかなかった時には、『自分達はふざけたバンドなので許してください』、と予防線を張っているようだし、演奏が上手くいった時には、『こんなにふざけた名前なのに上手ですごいでしょ?』、と変に気取った感じが気に食わないという理由に加えて、外国人の名前をバンド名にすることが何かおしゃれな気がしたからである。
「緊張してきたね。」
席に着くなり言葉通り緊張を全身で表現するようにカチカチになった野辺が発した。前述した通りハーフの彼の黒い肌は高校生には見慣れたものではないため、差別の意識は全くないままに、理科室内の誰もが彼を見ているような雰囲気があった。
「大丈夫だろ、練習通りにやるだけ」
全く緊張していない素振りで古市が返した。実際のところ四人は皆一様に緊張していた。古市と半沢は他のバンドに舐められないよう、いつもより目つきをキツくし、小川は自分は同じていないぞ、とマイペースにスマートフォンを弄る、野辺はというと緊張を隠そうという発想はなく、辺りをキョロキョロしたり、貧乏ゆすりをしたりと落ち着きがなかった。
「あ、あいつら一年だわ。」
メンバーのしか聞こえない声で半沢が呟く。半沢の目線の先、古市たちの左斜め後ろには男子三人女子一人のバンドがいた。こういう時は声をかけた方が余裕があると思われるものだ、そう考えた古市はメンバーに目で訴えかけ立ち上がった。察した三人もそれに追随した。
「ねぇ、一年だよね?」
古市は一見フレンドリーに、目の奥では自分たちのバンドの方が優れていることを譲らない態度でそのバンドのリーダーのように見えた、会話を回していた男子に声をかけた。古市たちが彼らに向かってきていることに気づいていながら、話しかけられたら返事をすれば良いだろうと考えていた彼は一呼吸間を置いて答えた。
「そうだよ、君たちも?」
「そうなんだよ、良かったー、一年が他に身置いて安心したわー。」
などと心にもないことを返す古市。
「どうせ二年と三年しか受からないだろ、ってみんな思ってるもんね。」
古市が本当に自分たちの存在を見て安心したのだと信じ切っている一年生バンドの彼は親しげな笑顔とともに返した。
その後お互いの自己紹介などやりとりをし、彼らのバンドは軽音楽部の一年生で構成されておりバンド名を『君に朝が降る』ということ、一年生のバンドは『アドリン』と『君に朝が降る』の2バンドしかおらず、他は皆上級生であること、そして話してくれた彼の名前が高井ということが知れた。高井は君に朝が降るというバンド名は長いから、『きみあさ』と省略して呼んでくれといった。だったら最初から略称を名乗れば良いではないかと古市は少し腹が立ったが、分かったと答えた。
 話も一通り終えた頃、軽音楽部の顧問、大林が理科室の戸を開けた。皆一様の席につく。すぐにバンドの点呼が始まり、終わると大林は
「全員揃っているので早速説明を始めます。」
と続けた。これで全員ということはオーディション参加するバンドはちょうど十組いるということだ。長ったらしい説明の後、いよいよオーディション、くじ引きの結果、アドリンは最後から二番目の出番となった。自信満々であった古市もオーディション本番直前には流石に緊張した。ただ自信は失っていなかった。中学校までの華々しい学生生活で得た根拠のない自信とクラス内カースト上位の連中に対する歪んだ復讐心とともに古市はオーディションに挑んだ。

 結果は合格であった。四人のパフォーマンスは遺憾無く発揮された。これには流石の古市も喜びを露わにした。軽音楽部でもなければ上級生でもない、ただの
一年生バンドのアドリンが他の軽音楽部員、上級生より優れていたのだ。古市は昂った。落選し、肩を落とす『きみあさ』の連中を見れば、軽音楽部で何をやってきたのだろうか、何も身についていない無為な時間を過ごしただけでばないか、と心の中で罵った。落選した上級生については、あなたたちの数年間は俺の二ヶ月以下だ、と軽蔑すら覚えていた。高校でロックバンドをやっている連中なんて今まで楽しい思いを出来なかった冴えないやつらが、異性に注目されたいだけだろう。そんなしょうもない連中に負けるわけがないだろ、このように心の底から思っていた。そのため悔しがる彼らを見ていると、悔しがれるほど同じステージにいないだろうに生意気だ、と怒りすら覚えていたのである。見てくれこそ吉報に喜ぶ一人の高校生ではあるものの、完全に興奮状態にある古市に高井が声をかけた。
「アドリンは本当にすごいね、一年生代表として頑張ってね。」
我にかえった古市は、自分が人としていけない感情を抱いていることを悟られらないよう、申し訳なさを含んだ笑顔で返した。
「ありがとう、君に朝が降るの分も頑張るよ。来年こそは一緒に出ようね。」
古市には一年生代表というつもりは毛頭なく、もう君に朝が降るをきみあさと略して呼ぶ気遣いも完全に失っていた。
このオーディション通過について古市は完全に自分の手柄だと理解していた。演奏の全体的な指導を行い、バンドの花形である歌を歌っているのは彼であるため、他のバンドメンバーは古市のサポートであるという認識であった。君に朝が降るのメンバー、落選した上級生、ついにはバンドメンバーまでも下に見始めていたが、彼にはそれを悟られないようにするだけの世間体の良さがった。頑張れよ、と声をかけてくれる先輩には、先輩たちの分も自分が頑張るぞ、という純粋なやる気の満ちた表情で返事をし、すごいね、と称賛の言葉をくれる同級生にはありがとう、とお決まりの言葉をその時々のオリジナルの気持ちのこもった言葉として返していた。
 それから程なくして文化祭本番での演奏が終わった。古市の想定通り、学校中、特に一年生の間にいおいて、一年生ながら文化祭のステージで演奏を披露したアドリンを知らない人はいなくなり、ヴォーカルの古市の顔はその誰もが記憶する形となった。しかし、古市の想定、正確にいうのならば彼の期待していたクラスメイトのリアクションとは少し違った。五月下旬に抜けたグループのメンバーが全く声をかけてこなかったのである。多くの人が文化祭後も声をかけ、隣のクラスの女子からは今度の日曜日に二人で遊ばないかと誘いまでもらったというのに、彼らは全く声をかけてこなかった。彼らからすれば話し合うこともこともせず、ほとんど勝手にグループを抜けていった古市に興味を持たないことは何ら不思議なことではなかった。そんな当たり前のことを古市は受け入れられず、彼らへの対抗意識ないし承認欲求は次第に憎しみに変わっていった。
 
 十月の文化祭が終わり、文化祭のライブステージで古市を見、好意を抱いた女の子とのデートを終えた頃、古市のスマートフォンに一件のメッセージが届いた。
「久しぶり!覚えてる?芹沢です!」
芹沢からであった。彼女の連絡はいつも唐突だ。古市はメッセージを開き、返事を返した。
「久しぶり、半年で忘れるわけなくね(笑)」
「よかった(笑)あのさ、今度田井中と藤田と久しぶりにご飯行こうって話してて、良かったら一緒に行かない?」
田井中は芹沢の友達の女子で藤田は中学二年生のとき古市と仲が良かった男子である。この四人は中学二年生の時の校外学習の時同じグループであったための誘いだろう。
「部活ない日だったら行くわ」
「わかった、部活ない日教えて!」
こうして久しぶりの芹沢とのやりとりを終え、四人で会う約束が来週の日曜日に取り付けられた。実は中学三年生時のあの告白予告のようなメール以降、芹沢とは少し気不味い雰囲気があり、廊下ですれ違った際に挨拶をする程度でちゃんと話すことはなかった。それを思うと少し不安な気もしたが、一度付き合うくらいには可愛いと思っている女子と久しぶりに会えることが楽しみであった。
 十一月の第一日曜日、彼らは再開した。古市以外のメンバー同士も中学校卒業以来会っていなかったらしく、久しぶり、という言葉が皆の第一声となった。古市と芹沢は比較的スムーズに会話できた。そのことにお互い安堵していた。四人は早速高校生御用達の安いイタリアン料理のファミレスに入った。
「校外学習懐かしいね、鎌倉だっけ?」
「そうそう、あの時まだ藤田と話したことなくてさ〜」
女子二人の他愛のない会話が弾む。古市は妙に懐かしい気持ちになっていた。そこには、古市が高校で失った理想の学生生活が存在したのだ。目の前にいる可愛い女の子は自分のことが好きであり、他の二人は俺を『できる奴』と扱う。これが彼にとっての理想であり、本当の現実である。昔話から始まった会話はやがてお互いの現在のことについて話す段階を迎えた。
「古市は今何してるの?」
そう質問した芹沢の目は高校生になった古市もきっと素晴らしいに違いない、という期待の輝きを発していた。後ろめたさを感じつつもそれを表に出さない古市はすぐ応えた。
「野球続けながら、ロックバンドやってるよ。こないだ文化祭でライブしたんだ、一年生の出場者俺らしかいなくてさ、周りみんな上級生で緊張したわ。」
彼女の期待通りの返事をした。
「え、すご。バンドではどこ担当してるの?」
「ヴォーカル。」
「すごー。」
三人がほぼ同時に感嘆した。これだ、これなのだ。古市がスクールカースト上位のグループに期待していたリアクションは。やはりここは居心地が良い。古市はそう思わずにいられなかった。何も特別なことは言っていないよ、という風に古市は芹沢に問いかけた。
「芹沢は何してるの❓」
「私は、何もしてないよ。部活入ってないし、バイトして遊んでる。」
その返答は古市の期待しているものではなかった。
「遊んでるって何してんの?」
続けて質問する古市。
「えー、色々かな。服買いに行ったり、カフェ巡りしたり。こないだは先輩におすすめの古着屋連れていってもらった。」
古市はショックを受けた。自分に好意を持っている彼女ですらそのような意味のない日々を送っていたことを許容できなかった。高校生からアルバイトをして遊ぶだけの毎日に意味があるとは古市には到底思えなかった。
「そっかー。」
古市は気のない返事を返した。
「ねぇ、その先輩って男?」
すかさず田井中が芹沢に問うた。それを聞いた古市は動じずにはいられなかった。
「そうだよ、でも付き合うとかはない感じ。あっち大学生だいし。」
「えー、すげぇ。」
大学生という言葉を聞き藤田が驚く。古市も驚きはしたが、それを表に出すことはなかった。田井中が古市も気になっていたことを聞いてくれた。
「付き合うのはないってどういうこと、芹ちゃんがその人のこと好きなんだけど、相手が大学生だから構ってくれないってことは?」
そうだ、そこが気になるのだ。古市は気が気ではなった。彼としては、芹沢はいまだに古市のことを好きで、だからこそ今日声をかけてきたのだと信じていたからである。
「違うよ、私も、あの人もどっちも恋愛って感じじゃないってこと。」
「何だぁ〜」
「何よぉ〜」
芹沢と田井中が戯れている横で古市は安堵した。が、すぐに次の思考へと移った。おそらくその男は芹沢が好きなのではないか。でなければわざわざバイト先の後輩に声をかけるなどしない気がしてならない。そして、何も知らない高校生の女子に手を出さなければないほど、大学ではモテていないどうしようも無い男に他ならないと断定した。
「そいつ芹沢のこと好きんじゃない。だとしたら相当ロリコンだよな。」
古市は呟くようにして言った。他の三人は一瞬固まった。やがて藤田が口をひらく。
「確かに。芹沢、騙されんなよ。」
笑いながら言う藤田の言葉を聞いた後、芹沢はむっとした表情で返した。
「本当にそう言う人じゃ無いんだって。」
「あ、庇った!」
「もー」
若干うんざりしつつある芹沢を含む三人が楽しそうに話している中古市は芹沢の発言一つ一つをしっかりと受け取っており、不快な気分になっていた。そんな変態野郎を庇うほど落ちぶれた芹沢に失望し、もう帰りたい気分であった。彼の中の芹沢は明るく天真爛漫で、古市の価値基準に準じた価値観を持っていた。そこから外れた彼女はもう彼の会いたい人ではなくなったいた。
 その日はそれ以降芹沢の話を深掘りすることなく、主に藤田の馬鹿話を聞くだけの日となった。藤田が自分の失敗や挫折を面白おかしく話すの笑っているとき、古市は自分がクラス内カースト上位の連中と同じことをしているような気がした。しかし古市は心から藤田を友達だと思っていたため、それには該当しないと結論づけていた。結局のところ古市は物事を主観でしか判断できていなく、またそれに気付きつつあるものの、目を瞑っていた。自分だけは特別だと信じて止まなかった。
 数時間後四人は随分と長居したファミレスを出た。地元なので皆そこそこに家が近いが解散はどこでするのだろうか、と古市が考えていると、田井中が含み笑いとともに
「ここからは古市と芹ちゃんは別行動でーす。」
と言った。古市はその言葉と顔を下にして何も言わない芹沢を見て察した。多分芹沢は自分に告白するのだろう。
「え、なんで、なんで!」
薄々気づいているであろう藤田がわざとらしくリアクションを取ってみせた。
「分かった、じゃあ芹沢と俺は中学の方に歩くわ。」
古市はそう言って芹沢に一瞥やった。芹沢は小さく頷いた。
「おっけー、じゃあ今日はお疲れー。」
田井中と藤田は二人で古市とは逆の方向へ歩き始めた。古市は彼らは意外とお似合いなのではないかと思った。
「よし、行くか。中学の方経由して芹沢の家まで行くのでいいよな?」
「うん、ありがと。」
芹沢に了承を得た古市が歩を進めようとしたとき芹沢が少し大きめの、震える声で言った。
「私は今でも古市のことが好きです。」
彼女はこう言う時必ず敬語になる。彼女なりの誠意の表し方なのかもしれない。告白されるにしてももう少し後だろうと考えていた古市は少々戸惑った。が、すぐに返事をした。
「ありがとう、嬉しい。でもさっき話してたバイト先の先輩はどうするの?」
「それは本当に恋愛感情とかないから。本当に。」
普段の古市ならそこで冷静に彼女の発言を認めることができたかもしれない。しかしこの日この時はそうはいかなかった。高校で思い通りの生活を遅れていない中、中学校時代の理想的な生活の一端を味わうことができることを喜んでいた矢先、自分を好いている、自分も一定の好意を持っている女の子がくだらない高校生活を送っている上に、大学生の男と遊んでいると言うのだ。古市は期待を破られた怒りに乗せ、強めの語気で言った。
「相手がどう思ってるかはわからないよ。第一そんな遊び方をしている人とは俺は付き合いたくない。」
古市の発言が終わるや否や、芹沢は涙した。無言で涙をボロボロとこぼした。それを見た古市は悪いことをした、という後ろめたさを覚えた。だがそれ以上に、芹沢がやっていること、事実を言語化してやっただけで何故泣かれなければならないのだろうか、と疑問と怒りも覚えた。
「なんで・・・」
芹沢が一言漏らした。古市は何も返さない。
「すみませんでした。」
芹沢は古市に背をむけ走っていった。引き留めるべきな気がした古市は芹沢の方に手を伸ばした。しかしその手が芹沢に触れることはなかったし、古市も本気で止めようとはしていなかった。ひたすらに走っていく彼女はとても早く、古市はもう一生追いつけないような気がした。一人残された彼は何とも後味が悪く、おおよそ親しい人間の全てから、君は最低なやつだと言われているような気さえした。そしてその妄想内の人間たちに対して、自分は悪いことをしていない、事実を目の当たりにした芹沢が失意し、勝手に泣き出しただけである、と譲らなかった。彼にとっての事実とは紛れもなく彼主観の解釈に他ならなかった。しかし彼はそれを客観であると信じて疑わなかった。それはひとえに、今までの人生で周りの人間のほとんどが彼の発言、行動を肯定していたからに他ならなかった。もし仮に彼がそのことに気づいたとしても、彼は今まで自分をチヤホヤしてきた全ての人間が今の歪んだ俺を作り出したんだ、と主張するだろう。それほどまでに彼は歪んでいた。
 
 高校生活を通して彼は様々な事をした。それはひとえに、自分は優れた人間であり、充実した、意味のある人生を送っている事を主張するためであった。野球部では部長を務め、バンド活動では学外のコンテストで賞を受賞した。また、趣味が高じて書き始めた映画のレビューを行うブログはインターネット上で高く評価され、彼のことを考察力のある批評者と評する者も現れた。古市はこの現状を誇らしく思っていたが、学校内で彼を取り巻く環境にはさして変化はなかった。それどころか、どこか高飛車な彼のことを避ける人間も少なくなかった為、気がつけば彼はほとんど一人になっていた。そして大学進学を機に三年間続けたロックバンドも解散することとなる。表立った理由として、進学先が皆違うため予定が合わないから、としたが実際のところ、は古市主導のバンドの在り方にメンバーが難色を示したからである。このことについて古市は特段負の感情を抱くことはなかった。学外のコンテストで賞を受賞した際、審査員はこぞって古市を褒め称えた。そのことから偉く自信をつけていた古市は、俺と組むのを辞めるなんてセンスのない奴らだから相手にするだけ無駄だ、と考えていたからである。また、彼の過剰なまでの自己愛を加速させる出来事があった。それは大学受験である。入学当初から勉強だけはあまりできなかった古市だったが、大学受験に向けて相当な努力を重ねた。その努力の源は紛れもなく、他人に負けないとい闘争心からくるものであった。ただの闘争心ならそれは良いものであるが、彼のそれはやはり違った。高校三年生になる直前の春休み、古市は予備校に通い始めた。予備校は当然ながら学校とは全く違うコミュニティであり、通っている学生は基本的には皆知らない人同士であった。予備校内で知り合った彼らはだんだんと仲良くなり、友達になっていった。そして、授業の合間などに馬鹿話をするなど、楽しそうに過ごしていた。古市はその輪に入らなかった。理由は単純であり、予備校には勉強をしに来ているからである。特に彼の場合、中学生時代に塾に通っていた際、塾で仲良くなった友達と一緒に授業をサボり続けた結果高校受験に失敗した経験があったため、それを徹底した。そんな古市に気を遣い、声をかける学生もいたが、古市はそれを半ば無視するような形で相手にしなかった。徹底して勉強した甲斐もあり、古市は難関大学に合格することができた。それに反して、古市の周りの予備校生の受験結果はあまり良いものではなかった。これが古市により自信をつけた。自分は努力すれば何でもできてしまう、周りのように合わせる必要はないのだ、とより信じ込ませてしまったのだ。
高校を卒業する頃になると、古市には決して多くはないながらも友達がいた。彼らは古市の考え方に共感、もしくは感心し、一緒にいた。また古市もそれに気を良くしていた。自分のセンスの良さが分かる彼らもまたセンスが良いと信じて疑わなかった。イエスマンばかりが周りにいる状態で彼は高校生生活を終えた。

 
 高校を卒業した次月、古市は大学に進学した。私立大学の中では
難関校である海南大学の経済学部である。実家から一時間のところにあるため、大学生活は実家で送ることとなった。経済学部に進んだ理由は海南大学で一番偏差値と倍率が低いからだ。彼にとって大学選びで最も重要なことは何を学びたいかではなく、世間からの評判の高さ、つまりネームバリューであった。実際のところ古市の進学先を知った両親は大変喜んだ。古市の両親は高校受験の際に大金を注ぎ込み学習時塾に通わせた結果が散々たる有様であったため、こと勉強に関して全く期待をしていなかった。それだけに驚きは大きく、また喜びも増幅した。また彼の周りの友達や学校の先生も皆彼を称えた。彼は完全に有頂天になっており、これから始まる自分の大学生活は素晴らしいものになるに違いないと確信していた。
 入学式の日、古市は大学の庭を歩いていた。一時間ほど前に入学式が終わり、学内のコンビニで買ったサンドウィッチで昼食を済ませた彼は、サークルを探していた。学内の広めの庭には机と椅子が所狭しに敷き詰められており、各机がサークルの勧誘ブーストなっている。机には2人ずつ人が座っており、通りかかる新入生に対して一生懸命に声をかけている。大体のサークルが大きい声を出すものだから、とてもうるさいが、これもまた一つ大学で行われる祭りのような気がして、古市はあまり気に障らなかった。机の前を通り過ぎるたびに声をかけてくる各サークルの上級生をあしらいながら、彼は目的のサークルへと向かった。軽音楽サークルである。彼は大学入学前、小学校から高校まで続けた野球を大学でも続けようと考えていた。部活動にい所属すると、大学生特有の自由を享受できなくなってしまうだろうから、続けるならサークルだと決めていた。大学生活に大きな期待をし、楽しみで仕方がなかった古市は、入学式の前にインターネットで海南大の野球サークルの公式サイトをインターネットで調べた。そこには活動写真がアップされていたのだが、古市の想像したそれとは少し違った。野球サークルというのだから、当然のごとく野球をしている写真で埋め尽くされているものだと古市は踏んでいたが、そこには飲み会をしている写真や、海で遊んでいる写真などが載っており、野球の写真は三枚あるかどうかといった状態であった。特に、サークルのリーダー格と思われる男が変顔をしている写真を見た時、古市はこのサークルに入ることをやめた。そして、大学にも自分の軽蔑するような人種がいるという当たり前にことに気づき、少し落胆した。野球がダメならロックバンドだ、と考えた彼は野球サークルの公式サイトを閉じ、今度は海南大の軽音楽サークルの公式サイトへととんだ。軽音楽部のサイトはとても質素なものであり、サークルの構成人数、練習時間、今後のライブの情報など必要最低限の内容しか載っておらず、写真も集合写真一枚に留まっていた。変に気取っていないサイトに安堵した古市はここに見学に行こうと決めていたのだ。雑踏をゆっくりと進んでいく中、突如として軽音楽サークルのブースが顔を出した。目に進もうとする学生の波を受けるように横に抜けブースに顔を出すと、上級生がすぐに声をかけていきた。
「初めまして、うちの見学?」
彼はいかにも音楽をやっています、というマッシュールームヘアに丸メガネ、痩せ細った身体に花柄のシャツを着た男であった。古市は高校生活では絶対に見なかった男の風貌に、自分が大学生になった実感を得た。
「はい、よろしくお願いします。」
返事をした古市に、男は椅子に座るよう促した。現状他の新入生はいないようだ。腰掛けた古市に男が話を始めた。
「いやーありがとね、俺は文学部二年の石原。で、こっちが法学部二年の高田。」
「よろしくね。」
高田と紹介された女は古市に対してにっこりと笑った。石原が話始めるまで、古市には目のくれずスマートフォンを弄っていた彼女が唐突に笑顔を見せるものだから、古市にはそれはもう嘘の笑顔だと受け取る他なかった。
「よろしくお願いします。」
古市はこのブースで二度目のよろしくお願いしますを返した。石原は小さく、よろしく、と返し続けた。
「うちは軽音サークルで、定期的にライブイベントを組んで、その度に学年とか関係なく趣味が合う人同士でバンドを組んでライブをするのが活動内容かな。飲み会が結構あるけど、そんなにキツくないから安心して。高校とかで楽器やってたと?」
「一応バンド組んでて、ギターを少しとヴォーカルやってました。」
「お、経験者か。そしたら五月の頭にある新歓ライブで早速バンド組めるじゃん。好きなバンドは?」
「色々ありますけどキンクスとかゾンビーズとかです。」
古市が好きなロックバンドを応えたとき、石原の目が一瞬見開いた。高田はというとにっこり顔を特に変えることなくこちらを見ていた。
「あー、もしかして洋楽とか?俺はあんまり聴かないけど聴く人もいるから、新歓コンパとか来たら楽しいかもよ。」
そう返す石原の横でうんうん、と頷いている高田の様子を見ると高田も古市とは趣味が違うようだった。このリアクションは古市にとって、半分悲しくあり、またもう半分は嬉しくもあった。というのも、この大学生然とした二人が知らないような音楽を聴いている自分はなんてセンスが良いのだろうか、そのように感じていたからである。『先輩、ロックやりたいなら聴いてないとダメじゃないですか』、そのように言ってやりたい気持ちを抑えて彼は応えた。
「本当ですか、是非行ってみたいです。」
「おっけ、じゃあ連絡教えてもらえる?」
と、古市はとんとん拍子で軽音楽サークルの新歓コンパに参加することになった。新歓コンパという、いかに無為な毎日を過ごしていそうな大学生が好みそうなイベントに抵抗を感じずにはいられなかったものの、いまだ未知の大学生のイベントに期待をしていなかったといえば嘘であった。
 新歓コンパ当日、参加者の一年生は大学の隣駅の改札前に集められた。集まった一年生は十人弱で、お互いに会話をすることはなく、スマートフォンを弄ったり、イヤホンをしたまま外方を向いていた。古市も例外ではなく、特に興味もないSNSの投稿に目を通していると、程なくして上級生がやってきた。案内された店は焼き鳥屋であり、どうやらその小さな店舗をまるまる貸し切っているようだった。すでに半分引退状態の四年生以外のほとんどが出席しているため、店の中には約三十人いることになる、結構な人数だ。上級生が四人ずついるテーブルに、新入生が一人ないし二人ずつ案内された。古市は他の一年生の男子とセットで上級生のいる席に座った。初めまして、程度の軽い挨拶の後、サークルの代表であろう男が乾杯の音頭をとり、コンパが始まった。乾杯の後、各テーブルでは改めて詳細な自己紹介が始まった。
「経済学部一年の古市です。高校でもバンド組んでました。キンクスとか好きです、よろしくお願いいたします。」
古市の自己紹介の後、テーブルの全員がよろしくー、と返事をした。
「キンクス、ってどんなバンド?」
丸いテーブルのちょうど向かいに座る女が古市に質問を投げかけた。彼女は確か徳井といった。このテーブルで一番最初に挨拶をした三年生だ。ボブカットで金色に染めた髪をした、可愛くもなく、可愛くなくもない女である。古市は彼女を見て、この人は大学デビューをしたんだろうな、と思った。彼女だけではなく、このサークルにいる人間は皆、どうにかして変わり者であろうとしている感じが伝わってきた。
「イギリスの、六十年代に結成されたロックバンドです。」
古市は
そのように応えた。なぜなら、多分彼女はあまり興味がないのだろうと思ったからである。そして案の定彼女は
「そーなんだー。」
と気のない返事をした。そして古市の隣の一年生が自己紹介する番となった。
「文学部一年の新倉です。好きなバンドはヒッチハイクズです。」
「え、ヒッチハイクズ私も好き!いいよね、こないだの定期演奏会でもコピーしてる人いたよ!」
古市の時とは正反対のリアションをする徳井たち上級生。ヒッチハイクズとは日本ロックバンドで、最近よく邦楽ロック専門雑誌の表紙を飾っている。古市も数回、渋谷の大型ビジョンで彼らのライブ映像を見かけたことがあるが、かえって聴きづらいだろうと思わざるを得ないとんでもないハイトーンボイスと、落ち込んでいる人を励ますだけの薄っぺらい歌詞に嫌気がさしたものだった。
こんな調子でコンパは進んでいった。最初の自己紹介の通り、古市はいまいち馴染むことができなかった。席替えが数回行われたが、それは変わらなかった。コンパが進んでいく中、古市は入学前から彼が抱いていた一つの疑念が確証に変わりつつあることを感じていた。
『彼らは音楽が好きなのではなく、音楽が好きで、人と違った服装をし、男女で楽しく過ごしている自分を演出したいだけなのではないだろうか。』
というのも彼らと話していると、基本的は皆同じバンドの音楽を聴いているのである。そしてそれはそのおおよそ全てが下北沢にいそうな邦楽ロックバンドであった。彼らのする音楽の話はせいぜい、どの曲が好きか、などに終始しており、会話の九割は誰それは酒に強い、あの男は何人もの女と肉体関係がある、隣のテーブルのあいつはもう二年も留年しているヤバいやつである、など古市にとってはとてもしょうもないことであった。そういう話を聞くたびに、古市は虚しくなった。酒に強いこと多くの人とセックスをすることが彼らのステータスなのか。多くの人と留年することを道を外れるヤンチャなかっこいい事だと、その学費を払っているのは紛れもなく彼の両親であるのに思っているのか。コンパの終盤、古市は周りにいるその全ての軽音サークルの人間と、そこに入会することを希望している人間がゴミのように思えた。その多くが親に学費や一人暮らしのための仕送り貰いながら、クソのような生活を送っていることが垣間見えた。男はいかに女を抱くかだけを考え、このコンパの最中も新入生をどうにか自分の手中に収めようと必死に声をかけているのを見逃さなかった。女はいかに自分が充実した大学生活を送っているかを主張するために着飾り、時には人気のある先輩に抱かれることに喜びを感じるような奴らであった。そしてそのような大学生像に憧れ、自分も『充実した大学生活』を送りたい、と考える一年生の馬鹿さ加減に呆れた。そして何より、そこにいる誰もが、おおかた高校まではうだつの上らない連中であったに違いないことが腹立たしくてならなかった。それはうだつの上らない者は一生そのままでいろ、ということではなく、うだつが上らないのが嫌なのであれば、お前の好きな音楽を磨き、周りの人間にお前のことを認めさせればいいではないかという思想であった。どうして、無為に日々を過ごす大衆と同じような日々を過ごしてしまうのだろうか。それは彼らが真に音楽が好きではない、俗な人間であるからに他ならない、古市はそう結論付けた。コンパが終わると、古市は二次会の誘いも断り早々に帰宅した。それ以降彼は軽音楽サークルどころか、大学生のサークルというものをひどく嫌った。海南大学の経済学部にはクラスという概念がないため、その学生のほとんどはサークルや部活内で友達を作ることが一般的であった。そのため、それらに所属していんばい古市は孤立した。彼はそれがひどく悲しかった。期待していた大学生活とはまるで違う孤独な日々が続いた。その悲しみは、サークルに入会し、彼らのルールに準じてしまえば取り除かれることは分かっていた。実際古市は、大学入学と同時に始めたアルバイト先の居酒屋で、自分を殺してアルバイト仲間と同じように振る舞った結果、ある程度仲良くなり、一つ年上の女と交際することができた。アルバイトは週に三日で一回六時間ほどしかないし、金は必要なので自分に嘘がつけた。しかし、彼はどうしてもそれを本当とはしたくなかった。それをしてしまうと、自分の大衆より優れた感性を殺してしまいそうな気がしたからだ。そしてそれは、自分の今までの人生を否定するようで気に入らなかったし、仮に大衆に迎合したとしても、心の底では一生をかけて軽蔑し続けることが分かりきっていたからである。
古市は形容し難い負の感情を抱いたまま、大学生活を送った。サークルに所属する学生たち非難する気持ちはあるものの、彼自身は特に何も行動を起こさなかった。ただ、自分の感性や思考は素晴らしいものであることを信じ、自分が正しくないと思った人間のことを、心の中で罵り続けるだけであった。

 入学して二年が経とうとしていた一月十日、この日は成人式であった。古市は寺田と太田とは連絡を取ったり、度々会ってはいたものの、他の中学時代の同級生とは特に連絡を取っていなかった。実を言うと、古市はこの日が楽しみで仕方なかった。中学時代といえば古市が一番輝いていた時代であり、式に出席すればまたあの頃に戻れると期待していたからだ。加えて古市にはもう一つ期待があった。芹沢である。古市は大学入学直後あるバイト先の女と交際をしたが、古市は彼女が趣味の悪いアイドルグループの音楽を聴いていることに嫌気が差し彼女に別れを告げた。その後、またアルバイト先の別の女と付き合う事になったが、顔がいまいち好みではないことが我慢できず、古市は一ヶ月ほどで別れを告げた。そんな彼は芹沢と再会できることを大変待ち望んでいた。中学生時代、高校一年生の時ですら可愛かった彼女に会うことが待ち遠しかったのである。本当はもっと前から連絡を取りたかったのだが、高校一年生から一度も連絡を取っていない古市から連絡を入れ、さらには会いたいと伝えることは、今現在女に飢えているモテない男と思われるのではないかと思い連絡ができなかったのである。成人式となれば会って当たり前だ。彼は過去、芹沢を罵ったことを忘れたわけではなかった。しかしその上で、芹沢はきつとまだ自分のことが好きであると信じていた。仮に好きではなかったとしても、数回デートを重ねれば問題はないだろうと信じて疑わなかった。また、罵った時、芹沢は古市の理想の女性ではないことを確かに認識していた。その上で彼女に対して再度好意を持っている彼にはもう後がなかった。サークルにも入らず、その偏見からほとんどの人を勝手に敵に仕立て上げてしまう彼にはもう後がなかった。

式の当日、古市は中村と寺田と中学生時代によくタムロしていたコンビニの前で落ち合った。集合時間の朝九時ぴったりに古市が到着する頃にはすでに他の二人が待っていた。
「おお。」
三人はお互いに挨拶ともいえないくらい簡単な挨拶を交わした。彼らは時たま顔を合わせたり、連絡を取り合っていたため、特に懐かしさなどはないものの、皆、着慣れないスーツを着ていたためか、少し新鮮な気がした。式の会場である市民会館を目指す最中、寺田が言った。
「みんなどんな感じなんだろうな、楽しみだわー。」
三人とも卒業後、この三人以外の中学時代の同級生とほとんど会っていないことが共通していた。寺田が進学した大学は青海大学であった。青海大は古市の通う海南大と同じレベルの難関大学であることに加え、表参道にキャンパスを構えていることから、世間的にはオシャレな大学として有名である。当然ながら女子人気も高く、そいに進学した寺田も例外なく周りから一目置かれる見た目になっていた。そんな彼が地元の同級生に会うことが楽しみであることは想像に難くない。それに対して中村の顔はあまり浮かばれなかった。
「そうかな、俺は式終わったらすぐ帰るよ。」
中村は海南大や青海大よりワンランク上の京葉大学に通っていた。実は彼の通っていた高校は海南大や青海大と同レベルの大学の附属高校だったのだが、元々高校受験では京葉大の附属高校を第一志望にしていた。高校時に京葉大への思いが諦めきれず、附属先の大学への進学を早々に断ち、京葉大学に進学するために猛勉強をし、見事京葉大へ進学してみせた。そんな彼はあまり成人式に乗り気ではなかった。というのも、彼には今熱中しているものがあった。ギターである。元々古いロックミュージックやブルースミュージックに造詣が深かった中村は中学時代からギターを弾いてみたいと言う願望を持っていた。しかし、受験勉強の忙しさなどから高校時代までギターを手にすることはなかった。大学入学後やっとギターを弾けるようになった中村はのめり込んだ。寝るまも惜しんで好きなアーティストを真似てギターを弾き倒した。大学ではサークルんに入ることも特になく、ただただ自室でギターを弾いていた。今の彼には過去の同級生のことなど本当にどうでも良く、彼の目は少し濁ったクリーム色をしたストラトキャスターしか映っていなかった。
三者三様に式への思いを抱え、市民会館に着いた。古市の住む市は小さいこともあり、式に参加する新成人の人数は四百人ほどであった。既に会場は開場しているようで、市民会館内の、普段は演劇などが行われるホールへ続く長い列が形成されていた。どうやらあのホール内で行われるようだ。三人が列に並んでいると、行き交う人々の中に紛れた同級生にたびたび声を掛けられた。古市は、おう、久しぶり!、といった調子で彼らのテンションに合わせて極めて高いテンションで対応した。大体そのようなやりとりは二、三分で終わった。古市は中学時代の感じを思い出し悦に浸りつつも、彼の目は常に遠くの方を見渡していた。しかし、目当ての彼女は全く見当たらなかった。
その後式は順調に進んだ。古市が芹沢と会うこともなく、あっさりと終わった成人式は終わった。古市にとってここからが本番であった。成人式の後、古内の住む市では同じ中学校に通った者同士集まって、飲み会を開く風習があった。それは今年も例外ではなく、今夜古市の通った中学の同級生で居酒屋を一軒貸切飲み会が開かれる。同じ中学の同級生しか来ないため人数も限られるし、飲み会の席でなら芹沢と腰を据えて話せると思ったのだ。式が終わり三人は近くの洋食屋で昼食を取っていた。
「中村は本当に飲み会行かないの?」
「行かない、行っても話すことないし。」
「行けばなんか話すことあるだろ。」
中村は朝の言葉通り式が終わったらすぐ帰るつもりらしく、寺田と古市と昼食を済ませ次第帰宅する意思を曲げない。他の二人もまた特に強制しようとは思わなかった。実際、中村の言わんとすることも理解できた。式ですれ違った久々に会う同級生とはここ数年会っていなかったわけであり、それは卒業後一度もお互いに連絡を取りたいと思っていなかった、会いたいと思わなかったからに他ならない。加えて、式に参列した中学生時代の教師陣たちと、三人はあまり話さなかった。当たり前であはるが、学生時代から話すこともなかった教師陣と卒業してから話すこともなかった。結局、昼食後中村は帰宅した。帰宅前に折角だから、と古市の発案でレストランの前で三人で写真を撮った。スーツを着て、成人式で貰った記念品の入った紙袋を持っていなけれ成人式の日の写真とはわからないその写真は古市とその友達のそれらしくもあった。
飲み会の始まる十八時までテキトウに時間を潰した古市と寺田は十八時を少し過ぎた頃飲み会会場の居酒屋に入った。受付には幼稚園から中学校まで古市と同じだった佐藤が受付をしていた。おそらく中学時代に生徒会長を務めていたからだろう。
「古市、久しぶりだな。」
「久しぶり、元気してた?」
お互いに楽しそうにやりとりをした。佐藤は久々の再会を喜んでいるように見えたし、古市もまた、それを見て嬉しくなっていた。彼は今自分と会えたことを喜んでいるのだ、と自分が求められていることを感じたからだ。
佐藤に案内された二人はバーカウンターに並んだ。店内には基本的に椅子はなく、置かれた各テーブルにはオードブルが置かれていた。既に人で溢れており、七十人弱の参加者がグラスを片手に持ち、ところ狭しに談笑していた。バーカウンターでビールを受け取った二人は三年時にに同じクラスだった男女のグループに声をかけられ、合流した。
懐かしね、とか、変わんないね、とかおおよそ成人式で交わされる会話が弾んだ。古市は本当に懐かしい気分になり、気持ちは昂った。古市が談笑に参加して間も無く、佐藤が乾杯の音頭を取り、会が正式に始まった。酒を飲みながら、体育祭で隣りのクラスと接戦を繰り広げた末に優勝した話、クラスで飼っていたハムスターに名前をつけるのに一ヶ月かかった話など、思い出話に花を咲かせた。それは掛け値なく楽しい時間であり、古市は久しぶりに心から楽しいと思った。やはり自分の居場所はここである、と感動していた。話しの盛り上がりが尽きない中、寺田が古市の肩を叩いた。
「あっちで太田と藤田が飲んでるから行こうぜ。」
「オッケー。」
反射的に了承する返事をした一秒後、古市はハッとした。
『太田がいるのか』
太田とは中学時代に口を聞かなくなってから今まで一度も話していなかったどころか、SNSで繋がることもなかった。古市は実の所、太田の動向が気になっていた。それは極めて悪質な興味からくるものであった。馬鹿な夢を追っていた彼がその後どうなっているのか、絶対に良い方向には行ってはいないに違いない、という、自分よりも目に見えて人生に失敗している人間を見てみたいという下衆な理由だ。
寺田の後を追った古市は、元いた場所から少し離れた、角の方に太田と藤田の姿を見た。
「よぉ、久しぶり!」
寺田が二人の背後からいきなり声を掛けるものだから太田と藤田は一瞬体をビクつかせた。その後振り返り寺田と古市の姿を認識した藤田は目を見開き、久しぶりー!、返した。太田は古市の姿を確認すると別の意味で目を見開き、藤田と比べて遥かに落ち着いたトーンで久しぶり、と返した。四人で丸いテーブルを囲んだ。段々と酒の回ってきた寺田が軽い調子で話始めた。
「二人は今何やってんの、太田はカメラの調子どうよ?」
こいつはなんてストレートな奴なんだ、と寺田の発言に驚き、また尊敬しそうになった。
「続けてるよ。今は専門行ってる。」
太田の返答に古市は笑いそうになった。それはまさに古市が思い描いていたある種理想の、人生に失敗している男の姿であった。彼にとって専門学校というのはお金を積めば誰でもいけるところであり、特に看護師や公務員といったいわゆる世間から目指すべき職業とされている仕事以外の専門学校においてはフリーター製造工場に他ならなかった。酒に後押しされたこともあり、身を乗り出して古市が口を開いた。
「専門卒業したらカメラマンになれんの?」
このやや嫌味ったらしい質問に対して特に動じることなく太田が答える。
「一応今時点でカメラマンではあるからカメラマンにはなれるかな。でも今撮ってんのが俺が取りたい写真じゃないから一応就活的なことはするつもり。」
既にカメラマンであるという返答に古父は少々戸惑った。それは自称するば誰もがカメラマンであるということなのだろうか。それとも本当に客からお金をもらっているプロのカメラマンなのだろうか。
「どういうこと?」
古市の疑問を同じように持ったであろう寺田がすかさず問うた。
「高校の時に第一新聞がやってるコンテストで最優秀賞とってさ、その写真がたまたま加藤弥さん・・・有名な写真家の人なんだけど、その人にすごい評価されて。で、今は加藤さんの事務所で雇ってもらってるんだよね。」
「え、やばくね、ハンパねーな。」
寺田の感嘆にありがとう、と返して太田は続ける。
「その賞を取った作品が地元の街並みを切り取ったやつなんだけど、今俺が取りたいのはロックバンドとかアイドルとか、表現者が一生懸命、命を燃やしてる瞬間なんだ。だからまだ理想からは遠いかな。」
太田は寺田のずっと先でありずっと上にいた。少なくとも古市はそう感じずにはいられなかった。どうしてだろう。彼はただそう思った。カメラマンいなるなどという甘い考えを持った男が今、楽しそうに自分の現状を話すのを見て、賢く何事も上手くこなせる自分が人生を楽しめていないことが許せなくて仕方なかった。
その後太田のより詳細な話や藤田と寺田の話が展開されたが、古市の耳にはあまり入らなかった。古市に話が振られれば、自分が優秀な大学に通っていることを強調して話すことで精一杯になりなんだか惨めな気分になった。
「じゃあ、また。」
やがて古市はその場を後にした。これ以上話すことはなかったし、聞きたい話を聞くことはできないと思ったからだ。バーカウンターで水を貰い、一気に飲み干した。大きくため息をつくと落ち着いたような気がしたが、不快な気分は依然拭われなかった。バーカウンターのすぐ近く壁際でイライラを落ち着けようとしている古市の前に人影が現れた。俯いていた古市が顔を上げた。かげの正体は芹沢だった。
「久しぶり。」
少してらた感じで声を掛けてきた芹沢は酒の影響もあるのか顔を赤らめており、それはとても可愛かった。昔の芹沢のあどけなさをのした彼女の姿はすぐに古市に心を掴んだ。
「久しぶり。」
咄嗟に一言返す古。
「水飲んでたよね、結構寄ったの?」
小悪魔的な笑みを浮かべる彼女。古市はその全てに圧倒され、先程までの鬱屈とした気分を忘れた。
「そんなとこ、調子乗りすぎたわ。芹沢って何大だっけ?」
ようやく正気を取り戻した古市は会話を試みた。
「私は大学行ってないよ。」
変わらぬ調子で返事をする芹沢。古市は嫌な予感とともに、口を開こうとしている彼女の次の言葉を待つ。
「高校の時から付き合ってる人がいて・・・あの・・・高校の時古市に告白した時に話してたバイト先の先輩ね。あの人が自分のカフェを開いたんだけど、その手伝いをしてるの。」
瞬間、自身の身体が熱くなるのを古市は感じた。なんだこれは、これは本当のことなのか。嘘ではないのか。芹沢は今どこにいるのだ。自分のことを好いていた可愛い女の子はどこ行ってしまったのだ。そうなんだ、と弱く答える古市に芹沢は何も 気にしていない様子で話を続ける。
「あの時に古市が、先輩は絶対私に気がある、みたいなこと言ってたよね。あれ本当だったから私驚いたもん。」
話しているうちに古市は察した。彼女の中で高校時代に古市に罵倒されたことを含めた古市とのやりとり、その全てが過去のモノに他ならないのだろう。過去のモノであるからこそ、そこに特別な思いも気持ちもない。彼女に取って古市は、今付き合っている先輩と出会い、今の生活を手に入れるまでの過程の人に過ぎないのだ。特別な感情を持っていたのは自分だけであることが恥ずかしく、彼女が大学に行かずに、年上の彼氏のカフェの手伝いをするという古市の基準では愚かで馬鹿馬鹿しい選択を取る人になっていたことに深い悲しみと苛立ちを覚えていた。しかし、彼は高校生の時のように彼女を罵倒することはなかった。それは人として成長した彼が、彼女の人生を尊重したからでは決してなく、彼女の以外に自分が交際できると踏んでいる女性がいないからである。芹沢は全て変わってしまった。だが唯一見た目だけは彼の理想そのものなのだ。考え方など付き合った後にこちらが変えさせれば良いとさえ思い上がっていた。
古市は数えたらキリがないほどの言いたいことを飲み込み、芹沢との会話を極めて円滑に進めた。彼女の気に食わない発言を肯定し続け、彼女と同じ考えであることを伝えた。会話も一通り終えた頃、古市は誘った。
「今度二人で飲みに行こうよ。」
それを聞いた芹沢は申し訳なさそうな顔をしながら
「ごめん、行きたいけど、二人では彼氏に悪いから無理なんだ。高校の時みたいに四人で飲もうよ。」
馬鹿を言うな、古市は返す。
「いや、やましい気持ちとかないよ。彼氏には黙ってれば良くない?」
「でも嘘はつきたくないし・・・」
「もしバレたら俺がしつこく誘ってきた、っていえばいいよ。」
しつこく誘う古市に芹沢が先程とは打って変わって怪訝そうな顔で言った。
「どうして二人にこだわるの?」
古市はハッとした。必死になり過ぎたか、若干の後悔をした。だがもう後が無い気がした。芹沢とここで次会う約束をしなければ、もう一生会えない気がした。
「好きだから。」
シンプルな言葉が出た。古市の人生において初めての告白となったこの言葉は、相手への愛おしさから発されたものではなく、彼女を自分のものにするための言葉がそれ以外出てこなかったため、仕方なく捻り出されたものであった。これには芹沢も驚いた様子で、口を半開きにし、唖然としていた。二人の間の沈黙を埋めるために古市が続けた。告白をしてしまったことが彼の堰き止めていた言葉を爆発させた。
「高校の時ひどいこと言ってしまってごめん、それは謝る。でも実際当たってたろ?ましてや高校卒業して、大学にも行かせない、就職もさせない男がロクなやつなわけないよ。俺は絶対に芹沢を不幸にしない。」
勢いに任せて発された言葉に芹沢は力なさげに応える。
「別に彼に強制されたわけじゃないよ。私がそうしたくてしてるの。それに古市にひどいこと言われた時支えてくれたのが彼なんだよ。彼は私を助けてくれてるよ。」
「強制されてるわけじゃないのはそうだろうよ。でも結果的に今フリーターみたいな状況じゃんか。そういう選択肢を与えてしまっていて、それを許している時点でその男は最低だよ。俺にひどいことされた時に励ましてくれたのは、そいつが芹沢のことが好きだからだろ。むしろ落ち込んでる芹沢を見て、励ませば自分のものにできるかもって喜んでたんゃねーか?」
若干荒めな声で話す古市に芹沢は呆れた笑顔で言った。
「私はもう古市のこと好きにならないよ。」
途端踵を返す彼女。古市は恥ずかしくてたまらなかった。彼は生まれて初めて女性にフラれた。そしてそれは全く相手にされていなかった。自分の言っていることは間違っていないはずだ。なのにどうしてそれがわからないのだろうか。どうしてこんなにも頭の悪い人間なのだろうか。古市は頭が良い自分が可哀想でならないと思った。そして馬鹿な人たちは死んじゃえばいいのになと、まるで幼稚園児が駄々をこねるときに泣きじゃくる感覚で考えていた。その後すぐに古市は居酒屋を後にし、帰路を歩いた。一月の夜の冷たい風は、酒に酔った熱い体を必要以上に冷ました。歩きながら古市は考えた。太田も芹沢も、もう中学校時代を終えてしまっていた。彼らが前に進んでいるのに対して、古市はずっと、楽しかった頃に留まっていた。古市はそろそろ認めなければいけない。それがたとえ自分のこれまでの人生を否定することだとしてもこの先の人生を生きていくために認めなければならない。今の自分には何もなく、ひょっとすると今後の人生を通してずっと、中学校時代以上の充実感を得ることはできないのではないだろうかという焦燥感を激しく抱いた。
「俺は一生、中学が一番楽しかったと思って生きていくのかな。」
夜道に一人つぶやく古市にはまだそれができなかった。
太田は夢を叶えつつあり、芹沢は古市の知るところになかった。古市はここまできてもなお、それに納得ができなかった。夢を追うことを恐れず、努力し続ける太田を認められない古市は、自分は自分に対してとんでもない勘違いをしているつもりになろうとした。心の底では解ってしまっているそれを一生懸命に抑え込み、太田にできることが自分にできないわけがないと思い込むようにした。そして芹沢に半ば捨てられたことを自らの都合の良いように解釈しなおし、あんな女はこちらが捨てたのだと、心の中で宣言した。
ハタチの祝いの日、確実にズレていく彼には一つ思いついたことがあった。
帰路から逸れた道を歩み始めた古市がたどり着いたのは中村の家であった。インターフォンを鳴らさず、スマートフォンで
「今家の前にいるんだけど、出てこれね?」
とメッセージを送った。すると一分も待った頃に玄関の灯りがつき、やがてドアが開いた。
「どうした?」
ややめんどくさそうに問う中村。
「一緒にバンドをやろう。」
やたらと真剣な表情で言う古市に、中村は、うん、と返した。

 古市と中村はロックバンドを結成した。高校生時代に自分が作った曲で学外のコンテストの賞を受賞したことがある古市は自分の作詞、作曲のセンスに自信があった。加えて中村が大学入学後ギターにのめり込んだ結果、彼のギターのレベルが並のそれから外れる実力になっていることを、以前中村の家で酒を飲んだ際に遊びで弾いているのを聴き知っていた。二人はオーソドックスなロックバンドを組みたいと考えた。古市がヴォーカル、中村がギターを担当するため、そのためにはリズム隊としてベースとドラムを入れる必要があった。まず古市が高校生時代に一緒にバンドをやっていた際にベースを担当していた小川と、ドラムを担当していた半沢に声をかけた。その際二人からバンドへの参加は断られたものの半沢から、彼が大学で知り合ったという別のドラム友達を紹介され、無事古市たちのバンドに加入してもらえることが決定した。ベースはというと、こちらは中々見つけることができなかった。仕方なくインターネットのバンドメンバーを募集する掲示板サイトで募集をかけた。その結果、高校時代にコンテストで賞を受賞いした経歴を記載したことが功を奏し、同い年の男が古市のバンドに参加することとなった。バンドメンバーが四人全員揃う頃には二月も終わろうとしていた。初めてバンドメンバー全員でリハーサルスタジオで練習をした際、古市はメンバーが揃うまでの期間に作った曲五曲を持ってきた。そして、四月までにこの五曲を完璧に演奏できるようになり、アレンジもそれなりのものに仕上げて欲しいことを伝えた。そして、四月を締め切りとした理由は五月の頭に開催される大学生ロックバンド日本一決定コンテストの一時審査ライブに参加するためであることも同時に伝えた。伝えられた三人は目的もなく漠然と活動していくより良いだろう、と一様に乗り気であった。何より古市がバンド結成後は初の練習の時点で既に五曲作成していることから本気度合いが伺えたことが三人の活気に勢いをつけた。それから四人は積極的に練習をし、お互いに意見を交換しあった。練習開始時に古市が作成した五曲の内三曲は練習を重ねる中で他の三人に認められることが無く没になった。これにはプライドの高い古市は落ち込んだものの、五月のコンテストに対する三人の本気度が感じ取れたため、少し嬉しくもあった。古市が本気で作ってきた曲に対して本気でダメ出しをしてくれる彼らの存在が、古市にとっては心地の良いものであった。それは決して自分が周りの人より優位な立場にいることから感じる中学生時代の心地良さとは違っていた。自分のことを皆が尊敬していることが感じ取れるものの、あくまで立場は対等であった。その尊敬の念は詳細には古市に向けられたものではなく、ロックバンドに対する真剣さや一生懸命さに向けられたものであった。そして一番重要なのは古市が他のバンドメンバーのことを他のメンバーが古市に対してそうするように尊敬していたことだ。高校生時代の古市はかつてバンドメンバーであった野辺のギターの腕前を見て、自分は彼のように練習をしていないから弾けないだけであり、練習すれば彼と同じように弾けるようになるだろうと、自分に言い訳をしていた。しかし、中村のそれは野辺の比ではなかった。彼のギターの実力はとんでもないものであり、二年弱で身につけたものとは到底思えなかった。また古市は高校生時代、大学入学後と、ギターの練習を全くしなかったわけではない。過ぎゆく歳月のその時々でギターの練習を試みては挫折を繰り返していた。その度にとりあえず曲を作るくらいの実力はあるのだから問題ないだろうと自分に言い聞かせていた。実際彼のギターの実力が中々上がらないことは、彼が大学入学後今に至るまでロックバンドを組まなかった理由であった。成人式の一件以来、彼にはもう後がなかった。現在の自分の大枠を未だに正しいと思い込みつつも、認めるところは認めていかないと一歩も先に進むことができない状況にあった。また、実力があるのは何も中村に限った話ではなかった。ドラムとして加入した奥沢は小学生時代から吹奏楽部でドラムを叩いており、実力はその経験年数に比例して目を見張るものがあった。ベースを担当する伊藤は高校時代からほとんど途切れることなくロックバンでド活動をしており、ベースの腕も然る事ながらバンド全体の音の作り方やバランスについての造詣が深かった。古市が素晴らしいと考えるバンドメンバーたちが古市の曲に対して真剣に向かい合っている、この事実が古市にはたまらなく嬉しかった。
四月末までに古市は二十曲以上作成することとなった。彼は尊敬するバンドメンバーに認められる曲を作りたい一心で曲を作り続けた。この、認めれたい、という気持ちは悪いものではなかった。古市は自分が自然と、他の三人のメンバーに比べて自分が劣っていることを認めていることに気付いているのを理解していたが、それは不快な気持ちではなく、彼らと同じ水準で音楽ができるようになりたい、という何とも爽やかな希望と期待が自分を満たしていることにも同時に気付いていた。実際のところ他の三人のメンバーは全員古市のことを下に見てはいなかった。メンバーの指摘に対してハイペースで曲を作り直してくる根性に圧倒され、それにい応えるように自分の力と時間を惜しみなく使った。四人は共通して最高の時間を過ごしていると実感していた。
コンテスト当日、会場となるライブハウスの楽屋で出番を待つ古市は今までにない緊張をしていた。彼は今回のライブにこれでもかというくらい自信があった。絶対に今日の一次審査は通過するだろうという確信さえ持っていた。しかし緊張が彼を解放ことはなかった。ここまでの緊張を感じることは古市いの人生では初めてであった。彼は今まで一度として何かに真剣になったことはなかった。加えて今回は信頼できるメンバーがいた。このバンドは高校時代に組んでいたバンドが古市を中心に回っていたのとは正反対に、バンドメンバー全員が皆同じ熱量でバンドに向かっていた。このことは古市をより萎縮させたが、同時に大いに奮い立たせた。自分一人ではなくメンバー全員が優れているのだという自信と、自分の信頼するメンバーが認めている自分も
優れているに違いないという確信がそうさせた。
やがて出番が来た。板につき深呼吸をする。練習はたくさんした。この数ヶ月一生懸命やった。幕が上がり、ステージを照らすライトが古市たちのバンド『ザ・グライダーズ』に降り注ぎ始める。古市はかつてないほどの興奮を覚えた。


 「じゃあ、次のライブで解散だな。」
大学生ロックバンド日本一決定コンテストから三年と八ヶ月経った一月の終わり頃、ザ・グライダーズの解散が彼らがいつも練習しているリハーサルスタジオの近くにあるファミリーレストランで決まった。大学三年次の大学生ロックバンド日本一決定コンテストは古市の期待も虚しく一次審査で落選という形になった。これには古市だけでなくメンバー全員が落胆した。しかし、バンドはここで終わることはなかった。結果こそ残せなかったものの、その手に確かに手応えを掴んだ四人はプロを目指して本格的に活動をスタートした。在学中の活動はもちろんのこと、大学を卒業後、所謂新卒として一度は就職した四人はロックバンドへの夢が諦めきれず早々に仕事を辞め、ロックバンド活動に精を出した。精力的なライブやSNSでの宣伝が身を結び、やがて下北沢を歩いていれば声をかけれるほどのそこそこの人気者となった。しかし、現実は甘くなく、プロになれるような兆しもなければ、ライブやCDの売り上げは飯を食っていくには程遠い金額に留まっていた。
ここ最近はというと以前のような勢いはなく、四人の中にはバンドはもう終わるのだ、という雰囲気が流れ出していた。四人のバンドへの期待感は段々と薄れていた。伸び悩む集客、尽きつつある曲のアイデア、その全てに疲れていた。また彼らは先輩のバンドマンを見て、それが全ての売れないバンドマン共通の悩みであることを理解していた。自分たちだけが辛いのではなく、皆が同じ苦しみを感じている。それを耐え、乗り越えた先にロックバンドマンとしての成功があることを知っていた。しかし、ザ・グライダーズのメンバーは皆元大学生であり、一度就職もしていた。こと古市に関して言えば、彼は金のない生活やフリーターという肩書きに不満を持っていた。今までそこそこ余裕のある実家で暮らしていたため金には不自由しなかったし、海南大は名の知れた大学であったため世間から悪い目で見られることはなかった。大学が海南大であることから、学歴を重視する日本の就活戦争では優位に立ち回ることができ、持ち前のずる賢さから大手の銀行に内定を貰えた。これら全てを捨てて、不確定要素ばかりで半ば博打の世界に飛び込んだものの、これを続ける覚悟は古市には無く、それは他のメンバーも同じ様であった。何より古市は自分の才能の限界を知ってしまった。自分より売れているバンドの演奏を見た時、昔の彼であれば、自分ならもっとやれると無根拠な自信を元に考えたところを、今の彼は、彼らの自分たちより優れているところを見つけ、自分では敵わないと客観的に考えることが出来るようになっていた。そして毎日のように自分の実力が足りていないことを理解していた。初めて真剣になった彼は少なからず、成人式の時ほどの傲慢さはなかった。
「最後くらい写真でも撮ってもらわない?ライブ写真。」
奥沢があっけらかんとして言った。解散については四人は落ち込むことはなく、むしろフワフワとして未確定だぅったことが確定したことにホッとしている様だった。
「いいね、プロ雇うか。」
「それいくらすんの、高くね?」
本当に雇うのか冗談で言っているか分からない伊藤の発言に古市は現実的な返しをした。
「あ、太田に頼もう。」
中村の言葉に古市は瞬間、嫌な汗をかいた。本当は写真の話になってすぐに古市は太田のことが思いついていた。成人式の時、ちょうどアーティストの写真が撮りたいと言っていたことも忘れていなかった。
「誰それ?」
「俺と古市の同級生、良い奴だよ。」
へー、と奥沢と伊藤が平坦に答えた。古市は迷ったが、ここで会わなければもう会えないような気がした。彼は後悔していた。ロックバンドに真剣になって初めて、夢を追うことの苦しさと輝きを知った彼は、太田を馬鹿にし続けていた過去の自分が恥ずかしくて仕方がなかった。何より、今改めて会ってみたいと思った。それは謝罪がしたいという気持ちではなく、今なら彼とフラットに会話できる気がした。自分が二十歳になるまで理解することが出来なかった間隔を十五歳の時から持ち続けている彼の見る世界が知りたかった。しかし、当然ながら太田は古市のことを嫌っているだろうと踏んでいた。それどころか、自分の勘違いを拗らせた結果、今更過去に自分が馬鹿にしていた人間に擦り寄る浅ましく下品なやつだと思われるに違いないと恐怖していた。
「いいよな、古市?」
中村の再度と問う声を否定する聞こえの良い理由を持ち合わせていなかった古市は
「いいんじゃない。」
と平静装う言葉を絞り出した。
それから数日後、古市と中村はかつて太田が自分の夢を告白したファミレスに太田を呼び出した。ここが一番三人の家から近く、また金のない三人には打って付けの場所であっただけのことではあるのだが、古市は妙に懐かしい気持ちになった。二人は先に到着し、ドリンクバーで選んだコーラを飲みながらこれまでのバンド活動での出来事を振り返り、懐かしんでいた。
「まさか古市とこんなことするなんて中学の時は思わなかったわ。」
「それはこっちのセリフ。」
古市と中村はバンドを共にして以降、バンド以外でも時間を共有するほど仲良くなっていた。古市にとってそれはまるで親友のようで嬉しかった。音楽を通してお互いに不満をぶつけ合え、それがあまり不快ではないというのは心地が良かった。
「遅れてごめん、おつかれ。」
会話をしている二人に割って入るように太田が声をかけた。おつかれー、と返す二人にわるいわるいと呟きながら太田は四人がけボックス席で向かい合って座っている古市と中村のうち中村の隣に座った。
「突然声かけてごめん。こないだメッセージ送らせてもらった通り、俺たちのバンドのライブ中の写真を撮ってくれないか。」
中村は早速本題に入った。
「うん、いいよ。三月十日だっけ?」
「そうそう、空いている?」
「空いてる空いてる。バンド撮るの久しぶりだわ。
「前は撮ってたの?」
「そうそう、俺の専門三年生だったんだけど、最後の年はめっちゃ撮った。無料で撮るからって言っていろんなバンドとかアイドルにとにかくアポ取りまくってさ。でも専門卒業してからは流石に金になる仕事しないと生きていけないから、幼稚園の遠足とか学校の修学旅行とかについて行って写真とる仕事ばっかりしてんだ。」
「えー、お前修学旅行についてくるカメラマンのおじさんかよ。」
中村と太田が話を進める中、古市は相槌をうち、笑うことしかしなかった。いったいどのような言葉で会話に参加すればよいのかわからなかった。
「お前どうした?」
中村が古市に訝しげに聞いた。至極当然の質問であった。古市は焦った。何か言わねば、と瞬間、頭をフル回転させた結果口を衝いたのは
「本当に撮りたいのはバンドとかアイドルって言ってたもんな。」
過去に太田から聞いた言葉の確認であった。なんで知ってんの、という中村の驚きをよそに太田が口を開く
「そうだね。まだ全然撮れるようにならないけど。」
太田は少し後ろめたそうな照れた笑いをした。一度言葉を交わしたことで己の調子を取り戻した古市は続けた。
「太田はさ、ずっとカメラマンを続けるの?」
「続けるよ、なんで?」
「あ、いや、俺らのバンドの解散が決まったから気になっただけ、すまん。」
四人の間に気まずい雰囲気が流れた。その後太田が話の軌道修正をし、太田がザ・グライダーズの最後のライブの写真を撮ることが正式に決まった。決まるやいなや、太田はライブハウスの大きさはどのくらいなのか、照明の配置はどのようなのか、ザ・グライダーズはどのようなセットを組み、どのようなパフォーマンスをするのかなど事細かな質問を二人に投げかけた。その姿を見他古市はホンモノを見た気がした。
一通り話が終わり食事も終えた二十時すぎ、三人はファミレスを後にした。おつかれ、と解散する雰囲気の中、古市は意を決して太田に声をかけた。
「太田ちょっといいか。」
これには中村と太田は驚いた。太田は、うん、と短く返した。中村は太田が到着して以降口数の少なかった古市から何かを感じていたため、じゃあ俺はこれで、と残し帰って行った。
古市と太田は特に当てもなく駅前を抜け、二十年程前は栄えていた、今は寂れてしまった商店街を歩いた。しばらく無言が続いた後、自販機の前で立ち止まった古市は投入した小銭がカシャンという音を三回鳴らした後、缶コーヒーを手にした。
「付き合わせて悪い、なんか奢るよ。」
「サンキュー、じゃあ同じので。」
再び購入したコーヒーを太田に手渡し、古市は自販機の横にしゃがみこんだ。
「太田はカメラマンに成れたんだな。」
自販機の稼働するブーンという音以外聞こえない静寂な夜は、古市の独り言のような言葉を正確に太田へと伝えた。点いたり消えたりする電灯は少し鬱陶しかった。
「成れたの定義にもよるけどね。理想からは遠いよ。」
「でも写真撮って飯が食えてるんだろ。それはカメラマンだよ。」
「まあそれすらできない人もいるからね。ありがたいね。」
「太田は怖くないのか。今後もしずっと、修学旅行の写真を撮り続るだけの人生になってしまったらどうするんだ。理想に近づけないまま、収入も上がらないままで死んでいくのは怖くないか。」
太田がファミレスで本当に聞きたかったことはこれだった。
「俺はロックバンドを辞める。それは仕方のないことなんだと思ったんだ。努力すればするほど自分の実力が分かってしまう。自分は到底一流に成れない、それどころか続けていく気力がもたないんだ。」
古市の隣に太田もしゃがみ込み、飲みかけの缶コーヒーを地面に置いた。まだ暖かいコーヒーは湯気を立たせた。
「怖いよ。怖いけど俺にはそれしかないんだ。正直そうやって、俺には写真しかないんだ、って自分に思い込ませている部分もあるよ。俺は今まで写真を優先するためにいろんなことを犠牲にしてきてしまったから。でもどんなに怖くても辞めようとは思わないんだ。写真以上に好きなことが無いんだよ。これが俺の根底にあるから、俺は怖くても辞めないいんだ。だから理想は追うし、現実とのギャップに苦しむこともあるけど、収入も安定しないけど、好きなことが毎日できている今が俺は幸せなんだ。」
「お前はすごいな。俺はお前ほどロックバンドを好きじゃなかったから、辞めるのは当然なんだと今分かった。成人式の時話したの覚えてる?あん時太田がカメラマンとして順調に活動してるのを聞いて、俺はめちゃくちゃ嫉妬したんだ。俺はお前が中学の頃、サッカーやめてカメラマンになるって言った時から、お前のこと馬鹿にしてたんだ。そしたらいつの間にかお前は成功してるのに俺には何にもなくなってた。あの日、芹沢にも愛想尽かされてさ、俺がお前らに負けるはずがないって、そういう勘違い甚だしい理由でロックバンド組んだんだ。そしたら変にスイッチ入っちゃってさ、気づいたらプロを目指してたよ。でも心の底の部分でや、やっぱり俺がもってるロックバンドへの期待っていうのは純粋な音楽の楽しさではないんだよ。俺はすごいんだって、俺はすごい奴なんだって誰か認めてくれよ、こっちを見てくれよっていうどうしようもない承認欲求なんだ。」
古市はボロボロと涙をこぼしながら立ち上がっていた。独り言のような消え入りそうなほど小さかった声はやがて、悲鳴のような叫び声となった。
「俺は結局高校でも大学でもずっと一人だったよ。みんな馬鹿野郎だから、俺はあいつらが大嫌いだったんだ。でも腹の底では分かっていたんだ、俺が勝手に決めつけた、俺が一番上に立っているんだって思いたいが為に、彼らを自分より劣った人間だと理解する為に勝手に決めつけて自分を守っていただけだった。でも俺は一人でだってある程度のことはできたんだ。勉強も運動もできたし、女だってすぐ作れたし、曲作りだって高校の時点である程度できた。でもそれじゃダメなんだ。腹の底からの幸せになりたい。俺の腹の底は他人への嫉妬と恐怖しかない。」
息が続かず激しく呼吸をする古市から太田は目を離さなかった。古市が息を整えているのを確認した太田が口を開いた。
「俺もなんとなくは察してたよ。古市からカメラマンになるのよく思われてないなって。悲しくはあったけど、そんなの高校のときにも言われたし、専門の頃のバイト先でも言われたから何も特別なことじゃないよ。何より俺もそういうこと言われると、絶対に謝らせてやる、って復讐心燃やしてたから、ある意味古市と変わんないよ。俺だってもっといろんな人に俺の写真を見て欲しいし、カメラマンとしての俺を認めて欲しいよ。」
古市の話を聞き時は目を合わせていた太田だったが、自分が話す時は終始夜空を見上げていた。少し感情的になりすぎたな、と我に返った太田は一度ため息をついて続けた。
「俺は中村からお前らのバンドの写真撮ってくれって連絡もらった時嬉しかったよ。みんなそれぞれにやりたいことを一生懸命にやってて、それが重なったんだ、って嬉しかったんだ。ロックバンドは復讐心だけでやってたわけじゃないだろ?」
太田の言葉に古市は下を向いたま応えた。
「楽しかったんだ。初めて挫折も覚えたし、努力じゃどうにもできない壁も知った。でも、上手くいくかどうか分からないギリギリのラインで一生懸命できることを考え、やり切るのは気持ちよかった。生きてる実感がしたんだ。俺にはメンバーもいたから、メンバーが個人の損得感情抜きで、バンドっていう微妙な緊張で成り立ってる細い糸みたいなもんのために、手を抜かず、丁寧に向き合っていく感覚は他では味わえなかったと思うし、俺はあれ以上の充実した時間を知らないよ。」
「古市、俺は君の都合を深くまで理解しきれないし、寄り添えないよ。古市の懺悔を聞いても辛かったね、とかもう十分やったよ、とか声をかける気にもならない。古市もそんなの欲してないと思うし。君の性格が悪いことに変わりないし、全てじぶんで蒔いた種だろ。でも写真を撮ってくれって言われたのが嬉しかったのは事実なんだ。例えそれが知り合いのカメラマンが俺しかいなかったかっらでも俺は嬉しい。カメラマンとして認識されていたんだ、って。」
再び古市と視線を合わせて太田は力強く言った。
「正直これが最後のライブとかそんなの俺にはどうだっていい。ただ俺に対して懺悔とか謝罪とかするくらいなら、写真に撮りたくなるようなパフォーマンスを見せろよ。」
立ち尽くす古市の方を掴み太田は今にも殴りかかりそうな迫力で珍しく声を荒げた。太田は既にカメラマンであった。彼が一番腹を立てたのは古市が太田のことを馬鹿にしていたという事実に対してではなく、自分の重ねてきた日々に納得できず、中途半端な気持ちでステージに立とうとしてる古市の態度に対してだった。
古市は息が止まりそうだった。自分が今太田に償いどころか甘えていることに気づき、途端恥ずかしくなった。そして何よりありがたく思った。太田は古市が思う以上にカメラマンになっていたのだ、自分はここにきてもなお太田という人間を過小評価していたのだと後悔した。古市の想像以上に努力し、悩み、苦しんできたことを理科した。
「そうする、今までで一番の出来にするよ。」
古市は泣きそうなのを堪えて震える小さい声で強く言った。そこにはなんとしても成し遂げなければならないという覚悟が感じ取れた。
「頼むぜ。」
太田は呟き、二人は中学生以来初めて顔を合わせて微笑んだ。

それから最終ライブまでの間、ロックバンドへの熱量を取り戻した古市は精力的に練習に励んだ。そんな彼に引っ張られ、ザ・グライダーズのメンバーの熱量も増していき、ザ・グライダーズは最盛期の勢いを取り戻した。四人は共通して、思い出に残るライブにしようという考えは無く、このライブを最後に死んでしまっても構わないくらいに全てを注ぎ込もうという覚悟があった。
最終ライブの前日の夜、古市は芹沢に成人式のことを謝罪するメッセージを送ろうと考えスマートフォンを手にしていた。しかし、文章を打ち込んでいる途中で古市は入力を辞め、メッセージを削除した。ここで古市が謝罪を送ることは、自分は彼女に謝罪をしたのだ、と彼が彼自身の罪の意識を薄れさせるための行動であることに気づいた。成人式の時点で彼女は古市のことをなんとも思っていなかったのだ、今更連絡する必要もないだろう。そう考え、彼はスマートフォンを置いた。

 三月十日、この日は冬の寒さも徐々に落ち着きつつある最近の中でも極めて暖かい日だった。彼らの最終ライブは単独ライブであり、入り時間の十五時の一時間前、十四時に古市は家を出た。彼はギターを背負い、桜こそまだ咲いていないものの確かな春の訪れを感じつつ、駅まで自転車を漕いだ。彼は春が嫌いだった。それを初めて感じたのは高校一年生の終わりの頃だった。それまでの古市は春が好きであった。クラス替えは新しい出会いを運んだし、進学は新しい世界を見せてくれた。しかし高校一年生が終わり二年生が始まるという春、彼は初めて春に期待を抱くことはなかった。周りの人間が新しいステップに進む中、自分だけが取り残されているような感覚に陥ったのだ。昨年の春からの一年間を振り返り、自分は何も成し遂げていない、成し遂げたことがあったとしても、それは自分の生活を劇的に変えていない、周りの人間はまだ自分を見ていない、と酷く落ち込んだ。その年以降、その気持ちは徐々に強くなっていった。今年もダメだった、来年もダメに違いない、と堕落していく一方であった。これはザ・グライダーズとしての活動をしていても変わらなかった。春には暗く閉塞的なイメージがあった。しかし今、自転車を漕ぐ古市にはそのような感情は全くなかった。鬱陶しく感じていた生温い風には優しさを覚え、暑くもなく寒くもないどっちつかずでイライラさせる気温には過ごしやすさを感じた。駅前の駐輪場に自転車を停め、青空を見上げた古市は、これが春か、と感動した。
電車に揺られ、ライブハウスの最寄駅に着いた。ライブハウスに向かう最中、贔屓にしているコンビニでお気に入りの卵のサンドウィッチと水を買った。ライブの前に食事を取ると思い通りのパフォーマンスができない古市は、ライブ本番一時間前、常にこれを食べていた。ほぼ無意識に買い物を終えた古市はこの買い物が、何か儀式のようなものに思えた。入り時間十分前にライブハウスに着いた古市は既に到着していた奥沢と中村、そして太田と顔を合わせた。
「調子はどうだよ?」
太田が古市に声をかけた。古市は太田の優しさに頭が上がらないと思った。また自責の念に駆られたが、それは今やるべきことではなかった。曇らせかけた表情を無理やりに頗る明るくし、古市は返した。
「サイコーだよ。」

 人の成長とはなんとも自分勝手なものだ。自分勝手に思い込み、他人を傷つけて、それが間違っていたと感じた瞬間反省をする。反省をした自分は人として成長したのだ、と自分の成長を喜ぶ。これは被害者の側からしたら災害であり、迷惑以外の何物でもない。ましてや自分は自分の輝かしい青春時代さえも、半ば捨ててしまった。今日のライブはこれまでにないくらいの興奮を覚えたし、それなりに入ったお客さんの調子も絶好調であった。こんな体験はザ・グライダーズをやってなかったら体験できなかっただろうな。でもこの体験は、バンドを辞めた後の人生で役に立つのだろうか。ライブが終わり、バンドが解散した後、自分はこれまで以上に誰にも相手をされないのではないだろうか。
古市は今、ロックバンド以上に真剣に取り組めることが思い浮かばなかったし、想像すらつかなかった。最後のライブが終わってまだ十分も経っていないのに、この先の不安は彼を襲った。しかし、同時に、古市の中には確実な満足感、充足感があった。これは紛れもなく、素直な自分が、ここにいるメンバーと得たものであった。
「ありがとう。」
ライブ後、楽屋のソファーにもたれかかり、息を荒げながら天井を仰ぐ古市は唐突に呟いた。それは突然の言葉であったが、そこにあって当然の言葉であった。楽屋にはザ・グライダーズのメンバー四人しか居らず、その四人が全く同じ感情を抱いていたからである。
「どーも。」
「恥ずかし!」
「何これキモい!」
普段とは違う雰囲気に四人全員が恥ずかしくなり、ふざけ始めた。古市はこのバンドで得たモノがあれば、今後の人生が不明瞭だったとしても、少なくとも、他人を傷つけるようなことはしないし、自分の勝手な決めつけを他人に押し付けることはないだろうと思えた。卑しくも様々なことを踏み台にして得たこの成長を大切に生きていく以外ないのだろうと漠然と確信していた。

 ライブが終わってしばらく時間が経ち、客も全員退場した。ライブハウスのスタッフとバンドメンバー、そして今日カメラマンを務めた太田が残った。未だ片付けられていないテーブルの一角でパソコンを弄る太田に古市が声をかけた。
「今日はありがとう。」
「よかったよ、良い写真が撮れた。」
古市はホッとした。
「本当にもう辞めるの?」
太田の問いに古市は少し口籠もった。だがすぐに自分の本当の気持ちで返事ができた。
「辞めるよ。バンドを始めてからの俺はさ、太田みたいになりたかったんだと思う。心の底から音楽を愛して渇望して、それ以外のことは見えない、みたいな。でも俺はそこまでじゃないんだ。逃げだと言われるかもしれないけど、俺のはそこまでの本物じゃないんだ。お前と話せるようになって、最後に撮ってもらえて俺の中の漠然とした不満みたいなものが解消されたんだ。ありがとう。」
太田は少し分からなそうな顔をした。古市はそれがちょっと面白かった。
「そっか。まあ良いなら良いんだ、本当に良さ気な顔してるし。」
古市は、太田を利用して自分は成長したのだ、自分は酷い人間だ、自分を罵って欲しい、殴って欲しい、そう伝えたかった。しかし彼は、太田がそんなことはしないことを理解していたし、それは紛れもなくファミレスの帰りと同じで、自分を許して欲しいと被害者に懇願するだけの愚かな行為であると知っていた。自分の情けなさを一生抱えていくことで、せめて今後の人生において付け上がることがないようにしていこうと古市は心に決めた。他人から認められたいが故に人を突き放すようなことはもうないだろう。
「本当にありがとう。」
目を見て伝える古市の言葉がどこまで太田に伝わり、太田がどう思ったかは太田にしか分からない。古市は心からの感謝を伝え、それ以上の感情を持たないことにした。
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