二日目

文字数 4,221文字

 朝、私は娘に尋ねた。「なあ、お前は母さんと裕太が猫でもいいのか」咲恵は洗面所で鏡に向かい、髪にドライヤーを当てていた。かなり大きな音を立てる機械なので、自然私の声も大きくなる。これほど重要な問題を、なんでこういう中途半端なタイミングで持ち出すのかと疑問に思われる向きもあるかも知れない。だが髪にドライヤーを当てている限り、娘はその場から逃げられない。私なりの機転といえよう。すると「別にいいよ、あんたも早く猫になっちゃいなよ」という返事がかえってきた。わたしはすごすごとリビングに戻り、二匹の猫の朝ご飯の用意をした。
 いつものごとく、永福町駅から井の頭線に乗りこむと、車内はなぜか新聞が余裕で読める程度に空いていた。と、私のふくらはぎをするりと撫でたものがある。足元を見ると、今しも一匹のシャム猫が通り過ぎたところだった。先の黒い尻尾をピンと立てた猫は、通勤客の足の間を縫って、しゃなりしゃなりと先頭車両の方へと歩き去った。気がつくと、車内のあちこちに猫がいた。座席の下に身を寄せていたり、ドア際で丸くなっていたり、網棚の上でカバンとカバンの間に蹲っていたりと、平凡な通勤風景の隙間隙間にぴったりとはまり込んでいる。そのせいか、誰も気にする者はいない。渋谷駅のホームでは、改札に向かう通勤客の間を縫うようにして、小走りに駆けてゆく猫たちの姿が見られた。彼らもまた職場に向かっているのだろう。大通りをまたぐ連絡通路を歩いていると、外からハンドマイクの声が聞こえてきた。「我々…党は、この未曾有の危機に対し、断固とした措置を取るよう、只今、総理と都知事に働きかけている所でありまして…」ガラス窓ごしに駅前広場を覗くと、ハチ公の前に白い街宣車が停まり、屋根の上で議員らしき男が熱弁を振るっていた。「…しかしながら、環境局の姿勢は極めて後ろ向きであり、わたくしは、当該部署にも既に、猫の手が入り込んでいるものと考えざるを得ません!」してみると、私以外にも事態の異常性を認識している人間がいたわけだ。だが、特にうれしいとも頼もしいとも思わなかった。必死の形相で訴えかける男の前で、通行人たちはほとんど立ち止まらず、すぐ先の交差点に向かって早足に通り過ぎてゆく。むしろ、メインの聴衆は猫たちだった。街宣車の前に、数十匹の猫が集まっていたのだ。とはいえ、彼らは車の上の人物にはあまり注意を払っておらず、てんでにじゃれ合ったり寝転がったりしている。すると議員が裏返った声をあげた。「君たちは、一体なにをたくらんでいるのだ!」マイクがキーンとハウリングを起こす。私は(猫の前に政治は無力だ)と思いながら足を早め、JRの改札に向かった。山手線の車内は、猫の密度が更に上がっていた。人間の乗客ひとりにつき、猫も一匹いるくらいの感じなのだ。彼らは鳴き声をあげたり駆け回ったりはせず、大人しく床にうずくまっている。様々な色の猫たちが通勤客の足元で丸まっている様は、前衛芸術のインスタレーションか、不思議な野菜畑のようにも見えた。私が品川駅で降りると、一緒に沢山の猫が扉の外に走り出た。くすんだ色の服を着込んだ人間の足元を、虎猫やブチ猫や黒猫たちが川のせせらぎのように走り抜けてゆく。ホームから上る階段の右側と左側で、上る猫たちと下る猫たちが、それぞれ小さな滝を作っていた。私はスーツの裾にさわさわと柔らかな毛皮が触れるのを感じながら改札に向かった。
 オフィスに到着すると、社員の半分以上が猫と入れ替わっていた。私の左隣の机も正面の机も猫に占拠されている。どちらも私の部下の席だ。私の目の前で前脚を舐めているハチワレ猫が、意識高い系の山田君で、隣の椅子にちょこんと座っている白猫が、事務を担当している派遣社員の白浜さんだ。不思議なことに、元が顔見知りの場合、猫に化けたあとも、容易に「あ、この人だ」とわかってしまうのだ。よって、多数の部署を含む広いワンフロアのオフィスは、全体として、昨日までと同じような活気を醸し出していた。コピーを取ったり、電話応対したり、パソコンの画面と睨めっこしたりしている人間たちに混じって、猫たちも、机から机に飛び移ったり、互いの匂いを嗅ぎ合ったり、人間の足にじゃれついたりと、それなりの活動をしていた。仕事も何となく、普段通りに回っているようだった。少なくとも私が見るところ、血相を変えている人間はいなかった。もちろん血相を変えている猫もいない。私も部下を二人失ったが、特に支障はなかった。やらなくてもよい仕事を減らせばいいだけの話だ。
 と、隣の部署の男が、私に向かって目配せをした。総務一課総務係長の前田だ。ちなみに私は総務二課総務係長だ。私はいやーな気持がした。この前田という中年男は、私と同期の入社で、うだつの上がらなさ加減も、私と一緒に括られがちな立場だった。ゆえに彼は私に親近感を抱き、同じ理由で私は彼を嫌っていた。私は彼の目線を無視した。すると彼は、腹の立つことに、私がトイレに立った時、ひょこひょこと後をついてきたのだ。用を足していると、隣に立った前田が言った。「いやー、困りましたな」私がなるべく素っ気ない声で「どうかされましたか?」と聞くと、彼は「猫ですよ、猫」と言って苦笑いをした。「いやー、昨夜はおやじもおふくろもやられちまいましたし、出社したらしたで、部下が皆んなニャーニャー鳴いているんですからね」私は苛々した。(こいつはいつも言わずもがなのことを言う)手洗いを出て廊下を歩きながら、前田はなおもお喋りを続けた。「とにかくこうなったからには、残った人間で助け合っていくしかないでしょう、ねえ」私は彼の凡庸な馴れ馴れしさが我慢ならなかった。もちろん私だって凡庸な人間ではある。だが私の凡庸さは私だけのものであって、前田のものではない。この男はそこが根本的にわかっていないのだ。私はなるべくぶっきらぼうに「そうですね」とだけ答えた。前田はしきりに首を傾げながら、「しかし、これだけのことが起こっていながら、どうして国もマスコミも動かないんでしょうねえ」と言った。私は横を向いて小さく舌打ちをした。彼には、今さらという時になって正論を吐く悪癖があった。普段は全く使えない人間なだけに、そんな時は周囲の苛々がいや増しになる。だが本人には場を乱している自覚が全くなかった。ついでに言うと、私にも同じような傾向があるらしい。すると廊下の角を曲がって二匹の猫がやってきた。前田の上司である総務一課課長猫の虎猫と、私の上司である総務二課課長猫のブチ猫だ。二匹の猫は、互いにじゃれ合いながら、ジグザグに廊下を駆けていた。前田がピタリと足を止め、「お疲れさまでございます」と頭を下げた。私は態度に窮した。前田に追随して猫に頭を下げるのは二重の屈辱だ。かといって無視をする度胸もなかった。私はカクンと頭を下げるだけで誤魔化すことにした。灰色の虎猫が、部下の前田の足にすりすりと体をこすりつけた。私の上司のブチ猫は、後ろから前田に飛びつくと、背中を駆け上がって首に襟巻きのように巻きついた。「課長、おたわむれを…」前田は上司たちによる愛情のこもった攻撃に晒され、くつくつ笑いながら身をよじった。私は馬鹿馬鹿しくなり、彼を放って部屋に戻った。
 帰りの電車の中は、更に猫が増えていた。座席には香箱を作った猫たちがお手玉のように並び、人間が座る余地がない。床も気をつけていないと蹴飛ばしてしまうほどに猫で埋まっていた。人間たちは猫の海の中、三々五々、孤島のように散らばり、スマホや新聞を手にして、自分の世界に没頭していた。永福町の駅まで猫まみれだった私は、自宅に徒歩で向かう道すがら、つかの間毛皮の群れから解放された。暗い住宅街をとぼとぼと歩きながら、私は瞼の裏にちらつく黄土色や灰色や黒の色彩を振り落とそうとした。
 だが玄関を開けると、上がりがまちに三毛猫が待ち構えていた。猫はニャーンとひと声鳴いて私を出迎えた。(おや?)と私は思った。体が一回りくらい小さくなってはいまいか。すると廊下のとっつきにもう一匹の猫が現れた。やはり三毛猫だ。私が玄関に立ち尽くしていると、二匹の三毛猫が、かわるがわるに体をすりつけてきた。私は恐る恐る、小さい方の猫に呼びかけた。「咲恵…」すると猫は元気よく、ニャン!と返事をした。私は驚いた。娘が猫に変わってしまったからではない。自分がぼろぼろと涙を流していることに気がついて驚いたのだ。あの憎たらしく、一個の独立した人間として私を拒絶していた娘が、いまや他愛もなく跳ね回りながら私の愛をねだっているのだ。人生とは何であろうか。子育てとは何であろうか。
 だが、私が失意に沈んでいたのはごく短い間だった。居間のソファでぐったりしていると、三匹の猫たちがよじ登ってきた。妻=猫は私の傍らにうずくまり、息子=猫と娘=猫が膝の上に乗った。(なんということだ)と私は思った。十数年このかた経験したことのない一家団欒だった。私は「咲恵~!」「裕太~!」と叫びながら、二匹の猫に、かわるがわる、心ゆくまで頬ずりをした。とても他人に見せられた姿ではない。庸子(と思われる猫)は私の太股に頭を乗せてグルグルと喉を鳴らしている。夢のようなシチュエーションだ。だが十分もすると飽きてきた。やはり猫は猫に過ぎない。私はテレビのスイッチを入れ、次々にチャンネルを変えた。ドラマや情報番組は普通に流れている。だがニュースをやっているはずのチャンネルに合わせると、そこでは空っぽのスタジオが映っているばかりだった。いや、デスクの上に、黒猫が一匹ちょこんと座って毛繕いをしていた。そのままつけっぱなしにしていたが、時おりカメラの前を猫が横切るばかりで、何も起こらない。私は三匹の家族と戯れながら、(これもこれでいいな)と思った。ちびちび飲んでいたウイスキーが胃袋から頭にのぼってきた。全ての現象が、捉えどころなく、ふわふわとしている。自分が満ち足りているのか退屈しているのか、幸福なのか不幸なのかよくわからない。まるで世界全体が猫の毛皮と尻尾でできあがっているかのようだった。
 その晩は、早めにベッドに入った。翌朝も人間でいられる保証はなかったが、別に猫に変わったからといって悪いことはなさそうだった。私は灯りを消してすぐに深い眠りに落ちた。
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