喉が開くということ

文字数 1,933文字

「いきなり喉が開くのだ」
 若干二十歳、酒が飲める歳になり大喜びで缶チューハイを飲み、それから父の飲んでいたビールを一口もらったのちにおいしさがわからないと言った私に父が言った言葉だ。

 要するにいきなり飲めるようになるということらしいが、そんなことを言われたって、いつそうして喉が開くとも知れず、相変わらずビールは苦く、甘い酒しか飲みたいと思わなかった。それもほぼジュースのようなものが多い。それでも酔っ払っていい気分になることの心地よさに魅せられ、酒を好んで飲むようになった。

 二十三歳になり、ノリと勢いで実家を飛び出し関東にある住み込みの工場で働き始めた頃。仕事が終わるのは夜遅く、社員寮に着くと日付が変わる直前になっていた。
 夏の暑い日でも、工場では怪我の予防のために長袖長ズボンの作業着の着用が義務付けられている。仕事が終わり、その作業着を脱ぎ捨ててTシャツとハーフパンツに着替え、夜道を歩いて帰途を辿るそのとき。ふと、ビール、飲んでみようかな、と思ったのだ。

 父がよく言っていた。自分がビールの味に目覚めたのは夏の夜で、仕事終わりの喉が渇いた状態で一気飲みをしたらあまりのおいしさに感動したと。それが父の言う『喉が開いた瞬間』だ。
 今なら私にもそれがわかるような気がした。この蒸し暑い、仕事疲れの体に冷えたビールを注ぎ込んだらきっとその味の良さがわかるのではないかと思ったのだ。

 社員寮のそばのコンビニは仕事終わりの従業員で混み合う。その中に混ざり、お菓子と一緒に缶ビールを買い込んだ。チューハイならば今まで何度となく買ってきているが、初めて自分でビールを買ったその日はレジに並んでいる間少しどきどきしていたのを覚えている。

 社員寮の壁は薄い。隣室の住人がティッシュを箱から引き出す「シュッ」という音が聞こえるほどだ。当然、深夜に帰ってきて大音量でテレビを観ることは憚られた。遅番勤務の土曜日の楽しみのひとつ、ヘッドホンをテレビに繋いでお菓子を食べながら深夜に放送しているアニメを観ること。そんな窮屈だがささやかな楽しみの中に、初めて自分で買い求めたビールが加わった。
 プルタブを引いて缶を開けるカシュッという音も当然隣室には響いていることだろう。これくらいは許してくれと思いながら缶に口をつけて、ちびりと一口飲んでみる。
 熱い体によく冷えた炭酸の、ほろ苦いそのアルコールはとてもよく沁みた。うまい。今までうまいと思ったことなんてなかったのに。今度は勢いをつけて多めにぐっと呷ってみる。喉に流れ込む冷たい液体に体が喜んでいるような気がした。
 ビールって、うまい。それが私の『喉が開いた瞬間』だった。

 喉が開く、それはまた別の酒でも同じ体験をした。日本酒である。
 ツンとした、いかにもアルコールだという味にまったくおいしさを感じなかったはずなのに。からくて喉が焼かれるような気がして苦手だと思っていたのにである。工場勤めから転職し、都内の会社の事務員として働き始めた頃。中国の時代劇にハマったのだ。
 会社は始業時間が遅く、それに自転車で十分で到着する場所に引っ越したこともあり、連日午前二時まで夜更かしをしてドラマを観ながら酒を飲むことが習慣になっていた。
 ドラマは画面が華やかで、絢爛豪華な建造物や衣装、そして華々しくも険しい物語に引き込まれた。その中の登場人物に酒豪がいたのだ。中国の時代劇では豪快に酒の甕を呷り、口の端からこぼれようとも服が濡れようとも構わずぐびぐびと飲むのが定番であるらしかった。そうしてうまそうに大酒を飲む登場人物を見て、私もうまい酒が飲みたいと思ったのだ。
 ドラマに出てくるような中国酒は度数がかなり高いらしく、それに入手も難しい。それなら、と代わりに日本酒の小瓶を買ってみた。透き通るきれいな水にしか見えないそれは、昔とは違って甘くこくがあり、たいへん美味に感じたのだ。
 調子に乗って買った津軽びいどろのおちょこに注ぎ、ついつい何度も盃を干してしまう。うまい。これはうまい。止まらなくなりそうだった。
 今まで飲んできた酒は缶チューハイにビール、梅酒、ワイン、その程度である。日本酒は普段飲むものと比べると度数が強い。あまりがばがば飲みすぎると後が怖い。そうは思っているのだが手が止まらない。うまい。なぜ今までこれをもっと早くに飲もうと思わなかったのか。そう自分で不思議に思うほどだった。それが人生二度目の『喉が開いた瞬間』だ。

 あれからビールと日本酒は私の好きな酒のラインナップに刻まれている。次はウイスキーの喉が開く瞬間を待ち、時折チャレンジをする日々である。いつかまたくる最高の日の訪れを待ち望んで、今日もグラスを傾けるのだ。
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