第三部 新たなる始まり 六、
文字数 3,433文字
帰り道、裁縫店に立ち寄るとMはシーサを連れ入店した。
暫くしてシーサが、深紅の夜会服に着替え戻った。着飾り化粧を整えると見違えるほど魅力的な大人の女性に変わっていた。シーサは意識していないのだろうが、姿勢の良さと毅然とする所作が品格ある落ち着きを見せていた。それでも帽子から垂れる覆いに隠される表情は、心なしか硬かった。
シルビアが、車窓越しにシーサを称賛した。
「身に余る光栄にして。」
Mは、仰々しく喋りながらシーサの後ろから腕をとった。操り人形を操作するようにシーサを大袈裟な身振りで挨拶させた。
「今宵、我が瞳には、遠き過日、月が流せし銀の雫を、映すでありましょう。」
ジィーノは、車の扉を開けシーサの手を取って乗り込ませた。Mがジィーノの傍らに月影のごとく寄り添うと耳元で囁き甘えた。
「悪さが過ぎると、叱らないでね。」
「その必要もない。昔から慣れているよ。」
ジィーノは、小声で軽口を返した。
「時は今宵、舞台はこの町、監督は君か。主役は誰にするつもりかな。勿論、彼女に諒解はとっているのだろうね。」
Mが意味ありげな微笑みを返し運転席に着いた。
「月が昇るまでに、いまだ暫しの時がある。誰しも遅れるな。いざ、参らん。」
Mは、芝居じみた声で告げて車を発進させた。
程なく車を止めたのは、港に近い酒場の入り口だった。物々しい造りの店構えに昔と同じ看板が掛かっていた。ジィーノは、店の経営者を思い返し心の中で納得した。
『ドナさんの店に招くのか。……そういうことか。』
「今宵は御二人でね。」
Mは、優しげな眼差しを向け言った。
「私の役目は済んだわ。後は、月が移り行くままに任せるとしますか。」
シーサが降りる手助けをした後ジィーノは、身を屈め運転席のMに囁いた。
「今宵が楽しめるように祈ってくれるかい。」
「その必要もない。でしょう。」
Mは悪戯っぽく言い返し、シーサに視線を向けて微笑み言った。
「ジィーノは役に立つわよ。貴女の心遣いが素直であならばね。」
店内の設えも雰囲気も昔のままだった。客の顔ぶれが変わる中にも見覚えのある姿を捜し安堵するジィーノは密かに苦笑した。十年前は、店の備え持つ前時代の貴族趣味的な重厚さに経営者の感性を疑い憐れみが混じる苛立ちを懐いたのだ。今にして思えば、店の空気感よりもドナの存在を批判しようとしたからなのだろう。ドナの生き様が真摯であろうとも、あの時のジィーノは認められない理由があった。実際の体験を客観的に分析し対処できるドナが信じるであろう意思を貫く潔い冷静さには、羨望を通り越し感情的に嫉妬すべき危惧を駆り立てられたのだった。
『見たくもない現実に直面するとき、向き合う覚悟だけでは足りないのを正直に示し諭す切っ掛けを見せてくれれば重荷にも感じる。』
ジィーノは、学生時代のあの夏に起こった数々の出来事を思い返し独り納得した。
『自分に余裕がなかった。それもあるが……。』
予約されていた席は、二階の個室だった。そこからは舞台を正面から観劇できた。夕食時で客が入り賑わっていた。
「Mさんにお願いしました。感謝しています。」
シーサの口調は重苦しかった。
「事情は、後で説明させて頂きます。」
「気にしなくいい。」
ジィーノは、相手の緊張を解すように気遣った。
「Mは、芝居がかった振る舞いやお節介が大好きなんだよ。」
ジィーノ独りでなら訪れないのを知っているMらしい周到な手回しに溜息をつき思った。
『ついでのようなやり方だが、試されているのか。』
楽団の前奏が一区切りついた。舞台の照明が暗転し新たな演奏が始まった。拍手が沸き上がり客の歓声が広がった。若い歌姫が舞台に登場していた。シーサも食事の手を留めて歌姫を眺めた。舞台に映える派手な着飾り方から受ける最初の印象と違い歌声は清廉に透き通り深みがあった。小柄な全身を使い語り歌う姿は、人の心を深く捉える揺ぎ無い優しさを秘めていた。
「哀しいのかな……。」
ジィーノは、不可解な思いが沸くままに呟いていた。他の人を気遣う生き方をするが故に、相応の辛く厳しい体験に身を置くであろう歌姫の過去を覗き見た気になったからだろうか。シーサの視線を受けてジィーノは、言葉を飾らずに感想を伝えた。
「訴えるものがある。だから良いのかな。」
「同感ですが。正直なところ複雑な心境なのです。」
同じ見方でながらシーサの歯切れが悪かった。
一曲を歌い終わり短い挨拶が入った。舞台上で悠然たる姿の歌姫は、見た目よりも幼く感じた。不意にジィーノは、忘れがたい姿を歌姫に重ねているのに気が付き眉を顰めた。白銀の長い髪を背に広げ目鼻立ちの整う白い相貌の歌姫が身に包む古い時代の青い夜会服と白銀の装飾の出で立ちは、古城の回廊で飾られたマルガリータの肖像画に雰囲気が似ていたのだ。それを想い出したからだろうか。生命観が欠落する不自然な機薄さを歌姫に覚え不安を拭い切れなくなってしまった。
『マルガリータを思い出させるのか。』
ジィーノは、孤高の姿を歌姫に観て胸の内で呟いていた。
『それにしても、悪い冗談で済まされないな。』
ドナが歌姫の表現手段として舞台で演出しているのであっても、マルガリータと同じ時を過ごした人に困惑させ息を詰まらせる危うい思いを抱かせのは、認めがたい感情に囚われるのだった。
『生身の儚さを知っていながら、これか。』
ジィーノは、胸の内でドナを糺した。ドナの悪ふざけとしか思えず微かに苛立った。
他の人に平気で厳しい意見を浴びせていた頃は、そのような姿勢の異性に憎悪を抱きながらも憐憫の思いを拭い切れず目を背けたのだ。あの時、ジィーノは思ったのだ。生身の体で如何に精神性を極めようともどれ程の結果が得られる高みに至るかと。
『目に余る危うさを持つこと自体、既に無理があるのだろう。それを分かっていながらドナさんは、……思い違いであればいいのだが。』
再び演奏が始まり歌姫が続いた。浜辺に伝わる古の民謡を演目に並べる舞台は、歌姫の表現する力量もあって見事に魅惑した。決意を籠める意思が歌姫の力の源に思えた。時折シーサが、素早く客席に視線を走らせた。彼女の眼差しは、子供を捜す母親に似ていた。
「苦労性です。自分でも判っています。」
そう言って シーサが説明を始めた。
「ブロンの目的は、今舞台で歌うルーミナイに逢うためなのです。」
ジィーノは、視線だけで言葉の続きを促した。ブロンの幼馴染のルーミナイが身売り同然に村から離れた事情をシーサは語った。シーサの同行している様子からも事情の複雑さが推察できたが、ジィーノは溜息を隠し尋ねた。
「ブロン君が歌姫に恋してると、言い出さないでほしいが。」
「残念ですが。」
シーサの言葉は、冷静だった。
「ブロンが軍で得る給料の大半を、娘のために仕送りしているのです。」
重々しく圧しかかる沈黙の向こう側でルーミナイの歌声が、緩やかに広がり客席を温めていた。
「どうするつもりかな。」
ジィーノが静かな口調で尋ねた。否定するかのような言葉は、自らに向けられる疑問でもあった。問われるシーサは真意が掴み切れなかったのだろう。
「ブロンは、……本気です。」
シーサが迷わずに断言した。
「あの性格です。直接理由を聞かないと納得しないと思います。」
ジィーノは、食事の手を止めて尋ねた。
「君の危惧は分かるが、ブロン君の問題だ。」
「冷静なお言葉ですね。わたしは、最善を尽くしたいのです。」
顔を曇らせるシーサの誠実な情の深さに感慨しながらも、他を慮る行為が時と場合において想いを向けられる人の重荷になる気持ちを心配した。複雑に思い詰める人は、その気遣いを汲み切れず煩わしく迷惑に受け取り反発するだろう。ジィーノは、あの頃の自身の行動を思い返していた。残酷であり辛い試練になる場合もあるのだと。
シーサはどうするつもりなのかと、ジィーノは尋ねる意地悪をしなかった。彼女の立場を推し量れるだけに確かめたい心境でもあったが、生真面目な容喙が理解できたからジィーノはその代わりに感想を求めた。
「歌姫をどう見るか。聞かせてほしい。」
シーサは、舞台を見直すこともなくジィーノから目を逸らさずに告げた。
「純粋ですね。ブロンとは少し違うようですが。」
「それならいい。」
安堵するジィーノは、手を伸ばしシーサの手の甲を優しく叩いた。
暫くしてシーサが、深紅の夜会服に着替え戻った。着飾り化粧を整えると見違えるほど魅力的な大人の女性に変わっていた。シーサは意識していないのだろうが、姿勢の良さと毅然とする所作が品格ある落ち着きを見せていた。それでも帽子から垂れる覆いに隠される表情は、心なしか硬かった。
シルビアが、車窓越しにシーサを称賛した。
「身に余る光栄にして。」
Mは、仰々しく喋りながらシーサの後ろから腕をとった。操り人形を操作するようにシーサを大袈裟な身振りで挨拶させた。
「今宵、我が瞳には、遠き過日、月が流せし銀の雫を、映すでありましょう。」
ジィーノは、車の扉を開けシーサの手を取って乗り込ませた。Mがジィーノの傍らに月影のごとく寄り添うと耳元で囁き甘えた。
「悪さが過ぎると、叱らないでね。」
「その必要もない。昔から慣れているよ。」
ジィーノは、小声で軽口を返した。
「時は今宵、舞台はこの町、監督は君か。主役は誰にするつもりかな。勿論、彼女に諒解はとっているのだろうね。」
Mが意味ありげな微笑みを返し運転席に着いた。
「月が昇るまでに、いまだ暫しの時がある。誰しも遅れるな。いざ、参らん。」
Mは、芝居じみた声で告げて車を発進させた。
程なく車を止めたのは、港に近い酒場の入り口だった。物々しい造りの店構えに昔と同じ看板が掛かっていた。ジィーノは、店の経営者を思い返し心の中で納得した。
『ドナさんの店に招くのか。……そういうことか。』
「今宵は御二人でね。」
Mは、優しげな眼差しを向け言った。
「私の役目は済んだわ。後は、月が移り行くままに任せるとしますか。」
シーサが降りる手助けをした後ジィーノは、身を屈め運転席のMに囁いた。
「今宵が楽しめるように祈ってくれるかい。」
「その必要もない。でしょう。」
Mは悪戯っぽく言い返し、シーサに視線を向けて微笑み言った。
「ジィーノは役に立つわよ。貴女の心遣いが素直であならばね。」
店内の設えも雰囲気も昔のままだった。客の顔ぶれが変わる中にも見覚えのある姿を捜し安堵するジィーノは密かに苦笑した。十年前は、店の備え持つ前時代の貴族趣味的な重厚さに経営者の感性を疑い憐れみが混じる苛立ちを懐いたのだ。今にして思えば、店の空気感よりもドナの存在を批判しようとしたからなのだろう。ドナの生き様が真摯であろうとも、あの時のジィーノは認められない理由があった。実際の体験を客観的に分析し対処できるドナが信じるであろう意思を貫く潔い冷静さには、羨望を通り越し感情的に嫉妬すべき危惧を駆り立てられたのだった。
『見たくもない現実に直面するとき、向き合う覚悟だけでは足りないのを正直に示し諭す切っ掛けを見せてくれれば重荷にも感じる。』
ジィーノは、学生時代のあの夏に起こった数々の出来事を思い返し独り納得した。
『自分に余裕がなかった。それもあるが……。』
予約されていた席は、二階の個室だった。そこからは舞台を正面から観劇できた。夕食時で客が入り賑わっていた。
「Mさんにお願いしました。感謝しています。」
シーサの口調は重苦しかった。
「事情は、後で説明させて頂きます。」
「気にしなくいい。」
ジィーノは、相手の緊張を解すように気遣った。
「Mは、芝居がかった振る舞いやお節介が大好きなんだよ。」
ジィーノ独りでなら訪れないのを知っているMらしい周到な手回しに溜息をつき思った。
『ついでのようなやり方だが、試されているのか。』
楽団の前奏が一区切りついた。舞台の照明が暗転し新たな演奏が始まった。拍手が沸き上がり客の歓声が広がった。若い歌姫が舞台に登場していた。シーサも食事の手を留めて歌姫を眺めた。舞台に映える派手な着飾り方から受ける最初の印象と違い歌声は清廉に透き通り深みがあった。小柄な全身を使い語り歌う姿は、人の心を深く捉える揺ぎ無い優しさを秘めていた。
「哀しいのかな……。」
ジィーノは、不可解な思いが沸くままに呟いていた。他の人を気遣う生き方をするが故に、相応の辛く厳しい体験に身を置くであろう歌姫の過去を覗き見た気になったからだろうか。シーサの視線を受けてジィーノは、言葉を飾らずに感想を伝えた。
「訴えるものがある。だから良いのかな。」
「同感ですが。正直なところ複雑な心境なのです。」
同じ見方でながらシーサの歯切れが悪かった。
一曲を歌い終わり短い挨拶が入った。舞台上で悠然たる姿の歌姫は、見た目よりも幼く感じた。不意にジィーノは、忘れがたい姿を歌姫に重ねているのに気が付き眉を顰めた。白銀の長い髪を背に広げ目鼻立ちの整う白い相貌の歌姫が身に包む古い時代の青い夜会服と白銀の装飾の出で立ちは、古城の回廊で飾られたマルガリータの肖像画に雰囲気が似ていたのだ。それを想い出したからだろうか。生命観が欠落する不自然な機薄さを歌姫に覚え不安を拭い切れなくなってしまった。
『マルガリータを思い出させるのか。』
ジィーノは、孤高の姿を歌姫に観て胸の内で呟いていた。
『それにしても、悪い冗談で済まされないな。』
ドナが歌姫の表現手段として舞台で演出しているのであっても、マルガリータと同じ時を過ごした人に困惑させ息を詰まらせる危うい思いを抱かせのは、認めがたい感情に囚われるのだった。
『生身の儚さを知っていながら、これか。』
ジィーノは、胸の内でドナを糺した。ドナの悪ふざけとしか思えず微かに苛立った。
他の人に平気で厳しい意見を浴びせていた頃は、そのような姿勢の異性に憎悪を抱きながらも憐憫の思いを拭い切れず目を背けたのだ。あの時、ジィーノは思ったのだ。生身の体で如何に精神性を極めようともどれ程の結果が得られる高みに至るかと。
『目に余る危うさを持つこと自体、既に無理があるのだろう。それを分かっていながらドナさんは、……思い違いであればいいのだが。』
再び演奏が始まり歌姫が続いた。浜辺に伝わる古の民謡を演目に並べる舞台は、歌姫の表現する力量もあって見事に魅惑した。決意を籠める意思が歌姫の力の源に思えた。時折シーサが、素早く客席に視線を走らせた。彼女の眼差しは、子供を捜す母親に似ていた。
「苦労性です。自分でも判っています。」
そう言って シーサが説明を始めた。
「ブロンの目的は、今舞台で歌うルーミナイに逢うためなのです。」
ジィーノは、視線だけで言葉の続きを促した。ブロンの幼馴染のルーミナイが身売り同然に村から離れた事情をシーサは語った。シーサの同行している様子からも事情の複雑さが推察できたが、ジィーノは溜息を隠し尋ねた。
「ブロン君が歌姫に恋してると、言い出さないでほしいが。」
「残念ですが。」
シーサの言葉は、冷静だった。
「ブロンが軍で得る給料の大半を、娘のために仕送りしているのです。」
重々しく圧しかかる沈黙の向こう側でルーミナイの歌声が、緩やかに広がり客席を温めていた。
「どうするつもりかな。」
ジィーノが静かな口調で尋ねた。否定するかのような言葉は、自らに向けられる疑問でもあった。問われるシーサは真意が掴み切れなかったのだろう。
「ブロンは、……本気です。」
シーサが迷わずに断言した。
「あの性格です。直接理由を聞かないと納得しないと思います。」
ジィーノは、食事の手を止めて尋ねた。
「君の危惧は分かるが、ブロン君の問題だ。」
「冷静なお言葉ですね。わたしは、最善を尽くしたいのです。」
顔を曇らせるシーサの誠実な情の深さに感慨しながらも、他を慮る行為が時と場合において想いを向けられる人の重荷になる気持ちを心配した。複雑に思い詰める人は、その気遣いを汲み切れず煩わしく迷惑に受け取り反発するだろう。ジィーノは、あの頃の自身の行動を思い返していた。残酷であり辛い試練になる場合もあるのだと。
シーサはどうするつもりなのかと、ジィーノは尋ねる意地悪をしなかった。彼女の立場を推し量れるだけに確かめたい心境でもあったが、生真面目な容喙が理解できたからジィーノはその代わりに感想を求めた。
「歌姫をどう見るか。聞かせてほしい。」
シーサは、舞台を見直すこともなくジィーノから目を逸らさずに告げた。
「純粋ですね。ブロンとは少し違うようですが。」
「それならいい。」
安堵するジィーノは、手を伸ばしシーサの手の甲を優しく叩いた。