第1話

文字数 1,999文字

「結婚しようか」
 久しぶりに会った疲れた顔をした恵梨香の顔が曇る。
 なんだ、こいつ。
「だから、いいかげん結婚してもいいかなって」
 恵梨香は口を開かない。無表情だ。
 何を考えているんだか、さっぱりわからない。
 何事もタイミングだと三十三歳の新之助は痛感した。
 飼い犬に手を嚙まれるとはこのことか。
 静かに新之助から視線を反らし、外を見遣った恵梨香の横顔を見て、新之助はため息をつく。
 恵梨香の視線の先の街は、いつものような人通りもなく、暗く静かに沈んでいる。 

 1.5流の都内の私立大学の経済学部を卒業した新之助は、全国に二百店舗以上のファミリーレストランを展開する東証一部上場企業に入社し、店長を経て、本社へ異動。
 総務、経理、メニュー開発、事業統括部を経て、いまは経営企画部で課長として働いている。
 きついだけの店舗勤務を卒業し、本社での異動を繰り返しながら肩書きをあげていく作業はとても楽しく充実していた。
 でも、それももう終わりかもしれない。
 コロナが発生し、新之助はこの丸二か月、まともに働いていない。
 会社から許されているのは週イチのリモート勤務のみだ。その勤務にしても仕事はない。
 会社は政府からの救済制度を利用しているので、給料は出ている。
 最初の一か月は有給だと思えばいいと楽しんでいた。しかし、浮かれた気分はすぐに不安に変わった。
 会社は元に戻るのか、自分は元に戻れるのか、解雇はなくてもこれまでのような本社仕事はもうできないかもしれない、今更体力的にキツイ店舗勤務に戻るのは嫌だ。
 1LDKのマンションに閉じ込められた新之助は鬱々としてくる。
 そうだ、自分には恵梨香がいる。というか、いた。
 同じ大学を卒業した恵梨香とは二十歳からの付き合いだった。
 時間もできたし、この機に結婚するのもいいかもしれない。
 真面目な新之助は生産性のない日々が耐えられなかった。
 上昇に富み、進んでいるという実感に満ちていた幸せな会社生活を送ったせいで、停滞と後進を人々に強いるコロナの日々は新之助の心を強く蝕んだ。
 結婚すれば自分の人生のステージはまた一段とぐっとあがる。
 新之助の心は久々に華やいだ。

 二十代の恵梨香は自分との結婚しか考えていなかったと思う。
 一人暮らしの自分の部屋に通ってきては、掃除、洗濯、料理をしてくれ、立ち仕事は辛いだろうとふくらはぎを細い指で揉んでくれた。
 恵梨香は実にかいがいしかったが、自分は仕事が楽しく、彼女の結婚願望を気づかないふりをした。
 そんな自分の態度にうんざりしたのか、恵梨香は三十でネットでの集客を分析するマーケティングツールを扱う会社に転職した。
 中規模の専門商社の一般職でお茶くみをしていた女に何ができると思っていたが、恵梨香は仕事ができたようで、今はコンサルタントとしてマネージャーのポジションに就いている。
「でも、いまは仕事が忙しいし」
 どうでもいいしというふうに、長い沈黙の後に恵梨香が言う。
 だんまり合戦に負け、仕方なく口を開いた感じだった。
 自分が邪険に扱っても、浮気をしても、雨に濡れた子犬のように恵梨香はついてきた。
 自分は余裕たっぷりにときどき思い出したように後ろを振り返れば、それでよかった。
 それがこれだ。昔の恵梨香は今はもうどこにもいない。
 冷静に考えれば、まだ二人が付き合っていることのほうが不思議なのだ。

 飼い犬に手を嚙まれるどころではなかった。
 恵梨香はマウントをとってきたのだ。
 結婚のことを再度仄めかすと、いくら暇だからって、と恵梨香はつまらなそうに言った。
 仕事がうまくいってるからって調子のりやがって。ふざけんな。
 電話を切って十日間、二人はそれから何のやりとりもしていない。
 会ってなくても電話やラインのやりとりをしていたので、恵梨香の不在を大きく感じる。
 さらに何もすることのない日々が新之助を消耗させる。
 寂しいとは思いたくなかった。認めると一気に波にのまれて恵梨香の前に跪きたくなってしまう。
 でも、それを認めなかったとしても、不安は無視できなかった。
 自分はどうなるんだろう。これまで順調だっただけに不安はひとしおだ。
 そんな気持ちを吐き出す相手もいない。自分の生活はこんなに儚く不安定なものだったのか。もっと慎重に頑強に積み上げてきたと思っていたのに。
 やはり恵梨香の心を取り戻すしかないのか。
 今度は自分が捨て犬のように恵梨香にすがってみせればいいものを、どうしても新之助はそれができない。
 恵梨香がそれを求めているのも薄っすらと感じていた。
 結婚の条件は明確なのに、どうしてもそれをしたくない自分はやっぱり暇な時間を埋めたいだけで、恵梨香への愛情に欠けているのかもしれないのだった。
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