第1話

文字数 6,236文字

快速四号   ヤーツツ・トモミ

 朝が来て床の温度が上昇したので、強制的に夢の中から現実に戻された。背中に大量の寝汗をかいている。クーラーのタイマーが切れていた。どうやら寝過ごしたらしい。太陽はもうずいぶん高くあがり、この世に闇はありませんよと公言しているようだ。
❘午前10時❘
(今なら2限の英語にまだ間に合うな。)
 着替えるのも寝ぐせを直すのも面倒で、汗をかいた臭いTシャツのまま外へ出た。
 地方都市の国道5×線をやや急ぎ目に自転車を走らした。大型トラックの排気ガスが熱風に煽られて鼻の中にこびりつく。
 ここ二週間は比較的真面目に大学に登校している。テスト二週間前にじたばたするのもなんだが、出席点で決まる教科の他にわずかではあるがまだテスト一発勝負の教科が残っていた。
 今期は最初の一、二週間来ただけで、特別な用がある時以外はほとんど大学に来ていなかった。久しぶりに多くの人だかりにぶつかる。ぼーとした頭で人だかりを見つめる。皆同じに見える。皆同じような服を着、同じような髪形…。それを大きな手で握りしめてぐちゃぐちゃにした人間ダンゴを作り、そこから寸分違わぬ人間を作り直したらすっきりすると思った。中途半端な個性は目障りな気がした。
 英語の授業に遅れて入るとネイティブアメリカン教師が、どうした高橋ずっと学校に来ないで。と皆の目の前でさも心配した顔つきで聞いてくる。何もやる気がなくてずっと家に閉じ籠っていましたと正直に言えば、どんな反応をしてくるかと思ったが、すいませんと小さくつぶやき大人しく席についた。
 授業の内容は高校の初めにやっていたレベルのそれだから、久しぶりに来ても大して苦労はなかった。しかもこれは出席の確認をあまりとってなかったので、テストさえ受ければ単位は出るだろう。
 しかしこうやって座っていると時間がむやみに長く感じてしまう。いつも部屋に閉じ籠っているのに、こうやって教室に閉じ込められるとやけに窓の外の世界が自由に見える。
こんな授業ほっぽり出して今すぐ外へ飛び出したら素敵な出来事が待ち構えてて…。そんな気分に浸れる光線が窓から降り注いでいた。
 内容が分かるのは英語位で他の講義はまったく意味が分からない。仕方ないので、一人でくだらない思考を巡らす。最近いろんな事を考えるが、最後は何故か哲学に行き着いてしまう。つまり、人は何が為に生きるのか?
人生とは何なのか?という事である。
(人は何故生きなければならないんだろうか?結局人が生きていかなくてはいけない、という決まりなんかないわけだし、例え自殺を自分自身を殺す殺人罪という解釈でも、その自分が死ぬわけだから、それ自体が極刑と同じ事だ。また人生やけになって強盗、殺人なんかを犯す位なら、まだ正気なうちに自分を死刑にした方が社会にとって有益ではなかろうか?)
 いつの間にか講義は終わり、高橋は思考の闇から解放された。
 大学は小高い山の上にあった。そのため行きは長い坂道を登り、帰りはそれを下らなければならない。行きは途中からエスカレーターが設置されているが、下りはついていないので急な階段を降りなければならない。私立の大学なので、相当高い学費を払っている。下りのエスカレーターをつけるくらい何の造作もない事のように思えた。もっとも払っているのは自分ではなく親なのだ。
 下りの階段を降りながら、横の登りのエスカレーターをうらめしく思いながら眺める。
親のすねをかじって動くそれは、ふくらはぎにくさった脂がついて重力に逆らわず醜く垂れ下がっていた。

 実家には一人暮らしを始めてからほとんど帰っていない。それは単に帰省するのが面倒だったり交通費がもったいないというのもあるが、結局実家というのが、自分にとって居心地の良い場所ではないからだと思った。
 高橋は中学の時にいじめに遭っていた。表面的にはじゃれ合いにも似たそれは、教師は誰もいじめなどと思わなかったのかもしれない。
 高橋自身もあれがいじめなのかどうか、当時そして今でもよく分からない。ただ自分はいじめられてなんかいないというプライドが働いていたというのもあった。自分がなぜこんなに悲しい思いをしながら学校に行かなくてはならないのかを、あやふやに心の奥底に閉じ込めてしまった。その想いは心の中で人知れず腐敗し、思考回路の中に組み込まれてしまっている。
 高校に進学する受験時、高橋は学校ではなんとか平静を保ち、家に帰ると疲れた精神を回復するためすぐ眠りについた。眠ると精神は危機的状態から幾分リラックスした状態に戻る。ただそれは元に戻るというよりは、ピンと張りつめた痛みが分散して鈍痛になるという感じだった。まるで超低周波が脳に絶えず響いているような…。
 受験シーズンも終盤、どういう経緯だったか高橋は両親に高校に行きたくないと言った。
それまでにも学校を理由なく休んだりしていたので、何となく親にも学校で嫌な事があった位は分かっていたと思う。
「高校は中学の延長だ。そんな所には行きたくない。」
 そう言って高橋はふとんに閉じ籠った。そんな高橋を見て母親は
「お願いだから高校は行って!最低高校だけは!」
 と泣きながら高橋を説得した。それを見て高橋は母親を可哀相と思いながらも、自分にとっては血も涙もない鬼の一言だと思った。
 今となっては、高校位出てなければ世間に通用しない事はよく分かる。結果、高校も行き今は大学も行っている。ただあの一件以来、自分にとって家族というものが、密度の高い絆から、一部何かがすっぽりと抜け落ちた他人行儀な感情を抱いている。




 テストの結果が返ってきた。惨敗だ。留年が決定した。親にも通知が行くのですぐに解るだろう。大学生にとって長い夏休みはうれしいものだが、あまり学校に行っていない高橋にとってはそれが公認の休みかそうでないかの違いであって、生活スタイルに大して違いはない。それどころか休みになると仕送りがなくなるので、実家に帰るかバイトをしなければならなかった。バイトは嫌だが、それでも実家にずっと居るよりは気が楽だと思った。
 留年のショックは思ったより大きい。今まで何とか偏差値でいうと五〇から四〇位にいたのが、一気に20位下がった気分だ。人生に乗り遅れた差が明確になった。選んだというよりは、何もしなかったというべきか。何もしないとどんどん闇の中に引きずり込まれていく。働かざる者喰うべからず。何もしたくない人間は死ぬべきだ。
 何もしたくない。心が疲れているから。じゃあ死ぬか?一番多い首吊りで死ぬか?それともビルから飛び降りるか?
 しかし分かっていた。自殺をしたいというのと、自殺をするというのは、まったく次元が違うものであると。
 高橋の場合、それを実行するのに立ちはだかる障害は死の恐怖ではなく、死までの苦痛に対する恐怖だけだった。他には何もない。
 所持金が0になって、究極に追い詰められた状態でその選択をするのはしんどい。もう少しこの世にいて様子を見よう。そんな言い訳とわかりつつ、自分の闇の中の一歩にとりあえず足を前に出した。


 バイトなんかこの国には腐る程ある。家の近くにあり深夜で時給が高かったので、大型スーパーの品出しのバイトをする事にした。
地方のスーパーには珍しく24時間営業している。コンビニに対抗するというやつであろうか。
「そう前にコンビニでバイトをした事があるんだ。じゃあ大体分かると思うけど、店に来る商品をダンボールから出して並べてくんだけど…。まっ後はやりながら覚えていってくれたらいいから。」
 面接した店長は仕事が詰まっているらしく、
履歴書を見るのもそこそこに、今から入れる?と言って店のユニホームを押し付けた。
 時給千円は結構おいしいと思ったが、目の前に積まれたダンボールの壁を見てその思いも吹き飛んだ。
 その深夜バイトには高橋も含めて5人いた。
皆入ってあまり経ってないらしく馴れ合った空気はなかった。このスーパー自体が開店して間もないためだ。
 前にコンビニで働いた事があるから作業自体に戸惑いはなかったが、人がなまじ居るのにコンビニに比べ何倍も広い店内で会話が殆どないのは不気味だ。ダンボールをカッターで切り裂く音だけがこだましている。
 こういう時、一番初めに話しかける役は後々自分にはしんどい役だと分かっていた。分かってはいたがあまりの静けさに耐え切れず、質問するふりをして一番近くに居たひょろっとした兄ちゃんに近寄った。よく考えたら皆入ったばかりなのだから質問なんてするのはおかしいのだが、頭が回ってなかった。
「あのー、積んだダンボールってどこにおいとけばいいんですかね?」
 その兄ちゃんは一瞬戸惑った表情をし、俺も入ったばかりだけど…と言いながら店のバックルームに入っていった。
「空いたダンボールはここに放り投げればいいよ…。俺、木倉。あんたは?」
「高橋です。」
「学生?」木倉は煙草に火をつける。
「一応。」
「フー…。そう。俺はプーだけど、他の連中も学生みたいだな。俺もここは入ったばっかだけど大概の事は分かるから何でも聞いてくれよ。」
 仕事時間は夜22時から朝5時まで。これといった休憩はなく、疲れたらバックルームに入って5分なり10分休んだ。しかし自分の分担の仕事量は決まっているから休んでばかりいたら終わらない。終わらなくても時間が来れば帰れるが、次の人に迷惑が掛かる。迷惑が掛かれば店長に注意され、それが続くとクビになる…といった分りきった事が起こる。次のバイトを探すのが面倒だからそうならないために仕事をする。そういう事は考えないようにしないと仕事中は作業能率が落ちるだけだ。逆に作業に集中すればそういった無駄な事を考えずに済んだ。
 休憩していると他のメンバーと話す機会があった。皆どちらかといえば地味な奴が多かった。こういった接客もなく黙々と単純作業をする所には、人と接するのが苦手な人間が来るからだろうと思った。バイトにやりがいや出会いを求める奴は、派手なアパレル産業や居酒屋などに就きたがるだろう。もちろん俺もそれらを否定するわけじゃない。しかし俺は不器用で女にもてるわけじゃないので、期待するだけ悲しくなるだけだ。ここのバイトにも昼間のレジ打ちには幾分かわいい女の子も居るが、深夜帯にはお世辞にも…といった女が一人いるだけだった。
 人を判断する時、その最初は外見だ。その第一印象が後々までその人の行動、言動の評価に影響してくる。仕事の上での付き合いや同性の場合はある程度大人になるにつれ、外見だけでなくその人の内面を見るようになる。
外見に関係なく尊敬できたり親しみを憶えたりする事ができるが、それが恋愛となると話は別だと思う。男女の出会いなんてたかが知れてるし、外見が悪い場合まず最初の一発勝負で勝てない。コンパやお見合いじゃまず無理だ。仕事でずっと共にする場合でもまず最初の段階で恋愛対象に入っていない。要するに恋愛対象になりえる為には、外見で劣る部分を補う位に仕事ができて生活力があり、なおかつ性格が良くなければならない。やっぱり人間内面が大事とか言いながら結局人は冷静に内面と外見をトータルで点数化している。
 他のバイトのメンバーと話す事はあったが、
お互いに表面的な話だけで特に親しくなる事はなかった。というより高橋自身がそれを避けていた。中には同じ大学の奴もいたが、微妙にナアナアになって休み明けに学校で顔を合わせたら気まずいだけだ。それよりかいっそ、会った事もない他人レベルを超えない方がよっぽど気楽だ。こうした考えがとても寂しいものだと分かっている。こうした極力人を避けるようになったのは、やはり中学のいじめで人と接する自信を失ったからであろうか?
 メンバーの中で木倉の存在は他の人間とは違っていた。一人だけ学生じゃないせいなのか、大人の雰囲気を出している。休憩中、木倉とたまたま一緒になった。木倉はいつもハイライトという名前とは正反対の重いタバコをダルそうに吹かしていた。
「はー…、年寄りに深夜帯はきついねー」
独り言かと思って聞き流していたが、こっちを見てまたダリいなーと言ってきたので、年寄りって、木倉さんって23、24でしょ?ときた会話をありきたりに返した。
「そう俺って案外若く見えんだな、俺29よ。」
「へえー、全然そんなに見えませんよ。」
 この人案外年くってんだなと思った。まあ
こんなバイトしてるから23,24かと思ったっていうのが大きい。高校までならこういう人間を俺は軽蔑してるだろうな。今は落ちぶれた自分の将来の姿を見せられている様で、同情の気持ちを超えて悲しくもなってくる。
それまで自分がこの世から自分自身を消し去っていなければの話だが…。
「なんで29にもなってこんなバイトをしているのかって思ったんだろう?」
木倉がこちらの思いを半分見透かしたかのように聞いてきた。
「ここの連中ってさ。ジミな奴多いよな。まあこんな単純作業の深夜バイトだから仕方ないけど。」
「そうですね…。」
高橋は自分もその中に入ってるんだろうなと思いながら相槌を打った。しかしそういう木倉もスポーツ刈りが伸びた様な髪がボサボサで、服はほとんどバイトのユニホームしか見た事のないせいだろうかあまりオシャレな人という印象はなかった。それどころかなぜかまっ黒に日焼けしているのでホームレスに近い様な感じさえ受ける。しかしよく見ると左耳にピアスをしている。学生時代はやんちゃだったのだろうか?
「あんた、煙草吸わないの?」
木倉がかったるそうに肩を回しながら2本目の煙草に火をつける。
「一日に5本位、気ばらしに…。」
「そう。休憩中の一服はいいもんだぜ。」
「ここには持ってきてないんです。」
「だったら言えばいいのに。一本やるよ。」
木倉がハイライトを差し出す。高橋がくわえるとライターを投げ渡した。火をつけ肺に煙を送り込む。頭にいつもよりも何倍もの衝撃が走った。いつも軽い煙草を吸っていた高橋は半分も吸わないうちに胸くそが悪くなる。
吐きそうに気分が悪い。
「木倉さん、これってタール何ミリ何ですか?」
「あーん?何ミリかな?あー、17だってよ。」
17…。どうりで重いわけだ。
「いつも何吸ってんの?」
「大体フロンティアoneですね…。」
軽いのを吸っているのは健康なんかの為じゃなくただ単に名前の響きが気に入っていたからだ。ただここまで重いと気持ち良さよりも吐き気が勝っている。
「ふーん、あんな軽いの吸ってんのか。じゃあこれはちょっと重いかもな…。さーて、そろそろ戻るか。行こーぜ。」
「俺はもうちょっと休んでから行きます。」
正直頭がクラクラして動けなかった。
「そうか。まあゆっくりしなよ。まあ良かったら残り少ないけどこれやるよ。」
木倉はご丁寧に土産に鬼のハイライトを置いていった。
 その後の仕事は頭のクラクラがしばらく治まらず、あまり捗らなかった。それでも何とか最低限の品出しはこなし、いつもの様に退出のチェッカーを受けて帰ろうとしていた。
「よう、お疲れ。」
木倉が声をかけてきた。
「おつかれさまです。」
「あのさ、いいバイト紹介してあげようか。」
「いいバイト?」
「ああ、ラクで、ここより時給がうんといいバイトさ。」
高橋は、バイトを紹介された3日後の8月の2回目の土曜日、新しいバイトの面接に向かった。






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