第4話

文字数 1,688文字

 矢兵衛の正体を、永吾はむろん誰にも話さなかった。
 九軒町で別れて以来、家を訪ねることもしなかった。遠まわしに、評判だけは聞いていたが。
 店は、矢兵衛めあての女客で、なかなか繁盛しているようだった。人間のあの容姿では無理からぬことだ。しかし矢兵衛は他の女には目もくれず、夫婦仲は人も羨むほどだとか。
 このまま放っておいてやることが、矢兵衛のためになることはわかっていた。
 わかってはいるが、むしょうに会いたくなった。
 犬の矢兵衛の、かがやくような美しい姿をまた見たかった。
 そのしなやかな身体に触れることはできないにしても。
 その夜、永吾はふらりと家を出た。
 下河原でまた処刑があったと聞いたのだ。
 中秋が近かった。満ちるばかりの月は、頭上で白々と光を放っている。
 夜気は冷たい。あちこちで虫がすだいていた。弥勒川の土手ではそれがいっそうさかんになって、耳と言うよりも頭蓋に浸みこむようだった。
 永吾は河原に下りた。刑場に近づくと、月影にすらりとした獣の姿が浮かび上がった。
 矢兵衛だ。
 覚えず永吾の胸は高鳴った。
 矢兵衛は、むさぼるように河原の血痕を舐めていた。永吾の気配に、ふと顔を上げた。
 三間ばかり離れた場所に永吾は立っていた。矢兵衛はすぐに永吾と認めたようだ。なにか言いたげに永吾を見つめ、後ずさった。そしてすばやく身をひるがえし、土手上の闇に消えてしまった。

「旦那さま」
 翌日、朝飯をおえた永吾が書見でもしようとしていると、壱助(いちすけ)が声をかけてきた。
 隅倉の家では最年長。痩せて小づくり、灰色のわずかな量の髷をちょんと頭に乗せている。父の代からいる家人なので、永吾もぞんさいには扱えない。
「なんだ?」
「夕べはどちらへ」
「月が美しかったのでな、ちょいと散歩してきた」
「ほう」
 壱助は、なにもかもお見通しというような顔をして、
「夜遊びもよろしい。ただ、気になる話を耳にしましたので」
 永吾は眉を上げた。
「おとついの夜、中島町の堀ぞいで人死にがありました」
「人死に?」
「染物屋の(せがれ)です。茶屋帰り、柳の木の下に倒れていたとか」
「殺しか」
「いや、それが」
 壱助は肩をそびやかし、声をひそめた。
「身体中の血がなくなっていたそうです。身体が、妙な具合に干からびていたと」
 永吾は笑いかけた。
「馬鹿な」
「検分した岡っ引きの安吉に聞いたのですから間違いはありません。傷らしい傷はなく、ただ首筋に二つの穴があいていたそうで」
「ほう」
 永吾は壱助の険しい顔を見つめた。
「しかも、三日前にも同じことが起きていたと言います。茣蓙(ござ)を抱えた年増の夜鷹、龍林寺(りゅうりんじ)の参道前に倒れていたと」
「血を抜かれて?」
「はい」
 永吾は眉をひそめた。
「奇妙な話だな」
「ですから」 
 壱助は大きく頷き、語気を強めた。
「旦那さまも、夜歩きにはくれぐれもご用心」

 城に登っても、この話で持ちきりだ。化け物のしわざに違いないというのが大方の意見だった。
「なにしろ、見た者がいる」
「化けものを?」
「ああ」
 宿直(とのい)仲間の松井左馬丞(さまのすけ)が頷いた。永吾と同い年だったが、こちらは三人の子持ち。態度も父親然として、永吾よりもずっと落ち着いて見える。
「染物屋の息子をはじめに見つけた爺さんが家に出入りの者でな。夜回りの帰りだ。死体の側に、白い大きな獣がうずくまっていたそうだ」
「白い?」
「不思議な白さだったということだ。犬のようにも見えたが、あれは絶対化けものだと爺さんは言っていた。牙をたてて、血をむさぼり尽くしたんだろうとさ」
 永吾の心はざわめいた。
 河原で血痕を舐めていた矢兵衛の姿が思い浮かんだ。
 矢兵衛は魔性がこらえきれなくなったのではないだろうか。たまに罪人の血を舐めるぐらいで抑えていたものが、猫又との戦いで大きく呼びさまされてしまったのでは。
 永吾とて、猫又の首に刀を突き刺したときの感触が忘れられずにいる。
 右手に伝わってきた断末魔の蠢きをどこかでもう一度味わってみたいとすら思う。
 魔性の誘惑はそれ以上のものにちがいない。
 だとすれば、悪いのはこの自分だ。
 矢兵衛に会わなくては、と永吾は思った。
 会って、確かめなければ。
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