第十服 宣驕勝長

文字数 7,321文字

(せん)(ちょう)()ちて(おご)りぬ

わすれても汲やしつらん旅人の
高野の奥の玉川の水


 (たか)()城の南に万にも届こうかという軍勢が姿を現した。畠山(よし)(のぶ)は我が目を疑うしかない。ほんのふた月ほど前――九月(10月)十八日(25日)に野田の戦いで敗れ、大和に落ち延びた畠山(たね)(なが)がどうやってこれほどの軍勢を揃えたのか。

 続く十月(10月)一日(27日)(ひし)()の戦いで敗れた細川(はる)(のぶ)(ほう)(ほう)(てい)で逃げ帰り、香西(もと)(もり)や柳本(かた)(はる)も行方不明になるほどの(ざん)(ぱい)で細川高国も兵を失っていた。この短期間でこれだけの軍勢を領国で集めることは難しいというより、有り得ない。冥府の門をくぐって()()(がえ)った死者の軍勢のような(おぞ)ましさを感じた義宣は恐怖から逃れようと叫ぶしかなかった。

四郎左衛門尉(香西元盛)五郎左衛門尉(柳本賢治)だと? 彼奴(きゃつ)らは行方不知(いくかたしらず)ではなかったのか……!?」
「――御屋形様っ!」

 血の気が引いて膝から崩れ落ちた義宣を、脇に控えていた()()河内守(なり)(もり)が、(くや)しさを(にじ)ませた表情をしながら支えた。ようやく取り戻した高屋城である、誰も手放したくなどない。()()にそれを進言できるのは畠山総州家筆頭宿老の就盛しかいないが、言葉にするのを(しゅん)(じゅん)していた。

 遊佐氏というは、()()(のくに)(あく)()郡遊佐(のごう)を本貫の地とする一族で、畠山氏が奥州(たん)(だい)に任じられて以来仕えている。出羽・河内・能登・越中と畠山氏が勢力を拡大するとともにその守護代として入部した。その連枝は河内守護代・河州家を惣領家として、越中守護代・越州家、能登守護代・作州家、紀伊守護代・筑州家が金吾家に、総州家と丹州家が奥州修理大夫家に仕えている。

 遊佐就盛は畠山(きん)()家の()(さい)である河内守護代だが、河州家当主ではなく、越州家当主・越中守(もり)(さだ)の子である。(そう)(りょう)の河州家当主・(なり)(いえ)文亀元年(西暦1501年)に歿し、嗣子がまだ生まれたばかりであったため、畠山上総介(よし)(ひで)は就盛を河内守護代に任じた。越中守護代は、就盛長子・孫三郎(もと)(もり)が継いだが、先年歿したため、現在は就盛次子・孫次郎が当主となり、(なか)(つかさ)(のじょう)(ひで)(もり)を名乗っている。

 就家の遺児は現在、(ひで)(いえ)と称して郡代を務めており、義宣としてはいずれ河内守護代を引き継がせる心算(つもり)であった。

 遊佐氏で河内守護代となったのは惣領家の遊佐(くに)(なが)が初めてで、畠山(もと)(くに)(みつ)(のり)(みつ)(いえ)に仕えた。国長の跡は子・(くに)(もり)が河内守護代を継ぎ、その子の(くに)(まさ)が越中守護代となる。国盛・国政父子は畠山持国が更迭されるとその弟・(もち)(なが)を支えたため、()(きつ)の変で復帰した持国によって没落した。河州家は国政の弟・(くに)(すけ)が継ぎ、持国より山城守護代に任じられる。国政の子・盛貞も越中守護代を継いで、国助とともに持国に仕えた。

 幕政に復帰した持国であったが嫡子に恵まれず、しかたなく実弟・尾張守(もち)(とみ)を養嗣子とした。しかし、晩年の文安五年(西暦1448年)、石清水八幡宮の神宮寺に出されるはずだった庶子・(そう)(しょう)(まる)を召し出すと、これを義政公に拝謁させる。聡勝丸は偏諱を受けて、(よし)(なつ)を名乗り、嫡子となった。

 但し、義夏の母は(かつら)()であった。桂女とは遊女のことで、元は小笠原(なが)(まさ)の子・彦次郎(もち)(なが)(めかけ)である。その上、飛騨()()氏との間にも子がおり、故に家臣らから義夏は持国の実子ではないと疑われた。

 これが畠山氏の内訌の原因である。

 廃嫡された持富は失意の中死去し、同情した越中衆や紀伊衆の非主流派や庶流の家臣らは持富の遺児・弥三郎(まさ)(ひさ)を担ぎ出した。持富が尾張守であったことから、一派は尾州派と呼ばれる。

 一方、義夏は宝徳三年(西暦1451年)、伊予守となり地歩を固めた。それでも尚、越中・紀伊衆らが政久を擁立する動きを見せ続けたため、業を煮やした持国が尾州派の追放を決する。享徳三年(西暦1454年)四月(4月)三日(30日)、国助らは尾州派の越中守護代・(じん)(ぼう)越前守(くに)(むね)らの屋敷を襲撃。しかし、政久らは細川勝元、山名(そう)(ぜん)、筒井(じゅん)(えい)に支持され、細川京兆邸に匿われた。密かに反撃の機会を待った越中守護代・遊佐備後守(なが)(なお)と紀伊守護代・遊佐筑前守(くに)(ふさ)、神保国宗らは八月(9月)廿一日(13日)挙兵、義夏らの屋敷に火を放ち、同廿八日(20日)持国を隠居に追い込む。形勢不利を悟った義夏は伊賀に落ち延びた。

 義政公に畠山金吾家の当主と認められた政久は、既に偏諱を受けているにも関わらず、「義」の字の(へん)()()()り、後見の山名宗全の推挙もあって(よし)(とみ)と改める。だが、後見である山名宗全は十一月(11月)二日(21日)に赤松氏の出仕を巡り義政公と対立、宗全退治の号令に諸大名の軍勢が京都に集結する事態を招いた。細川勝元が取り成したことで宗全は事なきを得たが、家督と守護職を嫡子・(のり)(とよ)に譲り、但馬へ下国、隠居する。

 同年、赤松(みつ)(すけ)の甥(のり)(ひさ)が播磨で挙兵、教豊の子・(まさ)(とよ)を攻めた。十二月(12月)六日(25日)、宗全と教豊は但馬から出兵。その間隙を突いて、同月(1月)十三日(1日)、義夏が河内より兵を率いて上洛して義富を京から逐い、これにより持国が金吾家の家督に返り咲いた。

 翌享徳四年(西暦1455年)二月(2月)七日(23日)、義政は大和国興福寺に対し義富に協力しないと通達、義夏は()()(もん)(のすけ)に任じられて(よし)(なり)と名乗りを改めた。同年三月(4月)廿六日(12日)持国が歿すると義就が畠山金吾家を継承。さらに、義就は分家の能登守護畠山(よし)(ただ)や幕府奉公衆と共に河内・大和に転戦。七月(8月)二日(14日)、大和国人()()(いえ)(ひで)をして尾州派の(じょう)(しん)(いん)(こう)(せん)・筒井順永・(はし)()(むね)(のぶ)らを没落させ、尾州派の領地は幕府直轄領となった。

 康正三年(西暦1457年)五月十二日(6月4日)、義就が興福寺大乗院領(いけ)(じり)(のしょう)(たん)(せん)――田畑一反あたり何文と課せられる臨時の税――を課したため、七月(8月)に大和の争乱が起こる。義就は上意を偽ったことが露見し、所領を没収された。総州派大和国人の横領も問題になり、義政から国人への治罰の命令が通達されたため、義就は撤回を奏上するが叶わない。九月(10月)廿九日(17日)には山城木津城で再び上意を詐称して細川勝元方と合戦に及ぶも、十月(10月)二日(20日)に義政の命で撤兵、次第に義政の信頼を失っていった。

 翌長禄二年(西暦1458年)九月廿二日(10月29日)、宗全と義就に石清水八幡宮の八幡()(にん)討伐の命が下る。これは康正二年(西暦1456年)十月(11月)に石清水神人が淀川の大般若関を破り、同十二月(翌1月)内蔵寮河上関を破るなどの狼藉を働き、義政公の逆鱗に触れたからだ。

 神人とは、神社の(しゃ)()に仕えた神事・社務の補助や(ぞう)(えき)に当たる下級神職を指す。神人どもは(しゃ)(とう)――社殿の近くやその御前――や祭祀の警備に当たることから武装しており、特に石清水神人は淀の魚市の専売権・水陸運送権などを有した座を結成していた。長禄二年(西暦1458年)九月(11月)廿八日(14日)、石清水八幡神人らの拠点であった郡津(こうづ)は灰燼に帰す。

 長禄三年(西暦1459年)六月(7月)、尾州派の成身院光宣・筒井順永らが勝元の軍勢に守られ大和へ帰国、総州派の越智家栄と合戦となった。義就は援軍を派遣したが、光宣の訴えで細川勢の大和派遣も決まる。七月廿三日(8月21日)には義富が赦免となったため大和での総州派は不利となり、越智家栄は敗れて没落、光宣らは勢力を回復した。義富は間もなく死去したが、弟・弥二郎(とみ)(なが)が尾州派の遊佐長直・神保(なが)(のぶ)・成身院光宣らによって擁立された。

 長禄四年(西暦1460年)五月(5月)十日(30日)、義就分国の紀伊国で根来寺と義就勢が合戦を起こし、義就勢が大敗。遊佐国助・(こん)()(しょう)(えい)・誉田(こん)(ぽう)など有力家臣が討死した。義就は報復のため京都から紀伊へ援軍を派遣するも情勢は不利のままである。

 更に、九月(9月)十六日(30日)に幕府から富長に家督を譲るよう命じられ、九月(10月)廿日(4日)に富長が幕府へ帰参、義政より偏諱授与を受けて(まさ)(なが)と改めた。権勢を失った義就は河内へ没落、綸旨による討伐対象に定められ、朝敵に貶められた。
 
 同年十月(11月)、義就は大和国龍田で政長・光宣らに再び敗れたが、同寛正元年(西暦1460年)十二月(翌1月)十九日(30日)より南河内の(だけ)(やま)城に籠もって、討伐に下ってきた政長、光宣、細川軍、大和国人衆らの兵と二年以上も戦い続ける。しかし、寛正四年(西暦1463年)四月(5月)十五日(3日)に成身院光宣の計略により嶽山城は陥落し、義就は紀伊へ逃れた。

 紀伊から吉野に移り、(ひっ)(そく)していた義就だったが、同年八月(9月)八日(20日)に義政生母の日野重子が死去したことに伴う(たい)(しゃ)が行われ、翌九月(10月)十八日(30日)()()(よし)(とし)や鍋かぶり上人・(にっ)(しん)らと共に赦免される。十月(11月半ば)に入ると細川勝元に対抗する山名宗全・斯波義廉の支持を得て、活動を再開した。

 寛正五年(西暦1464年)、政長が勝元の従妹を娶ると、十一月十三日(12月11日)、勝元は管領を辞任、政長が後任の管領に就く。

 義就は寛正六年(西暦1465年)八月(9月半ば)に挙兵。文正元年(西暦1466年)八月(10月)廿五日(4日)、大和から河内に向かい諸城を落とした。大和では総州派の越智家栄・(ふる)(いち)(いん)(えい)も挙兵して尾州派の成身院光宣らと戦ったが、十一月(12月下旬)()(いち)(とお)(きよ)の仲介で両者は和睦する。十二月(翌1月中旬)、河内から義就が上洛、義政との拝謁も果たし、政長に畠山金吾邸の明け渡しを要求し、管領職を辞任させた。

 翌文正二年(西暦1467年)一月十八日(2月22日)、両派の軍が(かみ)()(りょう)神社において衝突し、義就は宗全や斯波義廉の家臣・朝倉(たか)(かげ)の協力を得て政長を破り、この御霊合戦により山名派の義就・斯波義廉が有利となる。

 同応仁元年(西暦1467年)五月廿六日(6月27日)、細川勝元派が山名宗全派を襲撃し、(かみ)(ぎょう)の戦いが起こり、これが応仁の乱の始まりであった。

 義就は宗全率いる西軍に属して、東軍の政長と戦い、内裏や東寺に陣取り十月(10月)三日(30日)の相国寺の戦い、翌応仁二年(西暦1468年)の東軍の傭兵(ほね)(かわ)(どう)(けん)討伐にも参戦。三月(4月)廿一日(13日)、骨皮道賢は布陣した稲荷社(伏見稲荷大社)を大軍に囲まれ、女装して包囲網を脱出しようとしたが露顕し、朝倉孝景の兵に討ち取られ、首は東寺の門前に晒された。骨皮道賢はその最期を

 昨日まで稲荷(まわし)し道賢を
 今日骨皮と成すぞかはゆき

 と皮肉られている。骨皮道賢は史書にもたった六日間しか登場しない目附の頭目で、侍所所司代の多賀高忠に仕え、盗賊の(つい)()を行っていた。

 義就は西軍の主力として河内・大和・摂津・山城を転戦。文明元年(西暦1469年)には西岡の戦いで、東軍寄りだった山城西部の(おと)(くに)郡を占拠。(ぐん)()として築城した勝竜寺城を根拠として山崎に陣取った西岡国人衆や山名(これ)(とよ)・河内の尾州勢と戦った。文明二年(西暦1470年)、義就は軍勢に山城国相楽郡にある鹿()()(やま)城を落城させ、木津(もと)(ひで)を討ちとる。

 文明五年(西暦1473年)、宗全と勝元が相次いで死去すると、東西両軍の(こう)()が進められたが、義就は媾和に反対した。そのため西軍内で孤立し、文明九年(西暦1477年)九月(10月)廿一日(27日)、政長討伐のために河内へ下り諸城を陥落させた。十月(11月)九日(14日)に尾州家河内守護代・遊佐()()()長直を若江城から逐って河内を制圧する。越智家栄と古市(ちょう)(いん)らも大和を制圧、尾州派の筒井(じゅん)(そん)・箸尾(ため)(くに)(とい)()(とお)(きよ)は没落し、義就は河内と大和を実効支配した。

 翌文明十年(西暦1478年)、政長が山城守護に任じられると山城国を領国化しようとして東軍首脳部の反発を買い、寺社本所領の課税を撤廃させられ面目を失う。これが山城国一揆の遠因となった。

 同年十一月十一日(12月5日)、細川政元によって東西両軍が媾和し、西軍諸将は相次いで帰国して解散、応仁の乱は終結。だが、媾和に反対した義就は幕府に従わずに実効支配を続けた。

 文明十四年(西暦1482年)三月(3月)八日(27日)、遂に幕府から義就追討を取り付けた政長は細川政元とともに出陣、六月(7月)十九日(4日)に山崎から摂津(いばら)()へ進軍した。しかし、義就は七月(7月)十六日(31日)に政元と単独媾和、名目上政長が領有する河内十七箇所と義就が実効支配する摂津欠郡――(ひがし)(なり)郡・西(にし)(なり)郡・住吉郡の三郡――の交換を条件に政元は撤兵。閏七月(9月)十九日(2日)、政長は摂津尼崎から船で堺に上陸。久米田寺で待機して紀伊()(かわ)(でら)()(ごろ)(でら)の援軍と合流、八月(9月下旬)奥河内の(しょう)(かく)()で誉田城を守る義就と対峙した。

 義就は小競り合いをしながら反撃の機会を伺い、十月(11月下旬)に河内から(みなみ)(やま)(しろ)へ別働隊を向かわせ奇襲をかける。大和国(そえ)(じも)郡鷹山荘の領主鷹山頼栄が義就に帰参、義就軍は十二月(翌2月)廿七日(4日)に山城南部の(くさ)()城を落とし上三郡(()()郡、(つづ)()郡、(そう)(らく)郡)を平定、翌文明十五年(西暦1483年)四月(5月)には相楽郡(こま)城も落城、山城南部を掌握した。完全に不意を突かれた政長方は宇治川流域の北部で抵抗を続け、宇治橋を切り落として義就方の北上を(はば)んだ。

 政長は挟み撃ちの危機に陥ったが、幕府の支援と分国からの増援を期待して正覚寺に留まる。そして戦費調達のため、八月(9月)、山城に初めて(はん)(ぜい)を課した。半済とは、幕府が荘園・公領の年貢半分の徴収権を守護に認めたことを指す。越中からは三〇〇〇の軍勢を呼び寄せた。山城南部の義就軍は十七箇所を狙い北上して八幡に集結、別の一隊は河内・山城・大和の国境に布陣して河内からの政長方の侵入を妨害する。八月(9月)十三日(14日)、義就軍は八幡から十七箇所へ侵攻。十七箇所は淀川と深野池に挟まれた低湿地で、淀川が長雨で増水していたことを利用し、廿二日(23日)に淀川堤防の大庭堤・植松堤を決壊させ十七箇所を水攻めした。十七箇所の戦いにより十七箇所は孤立したが、淀川上流で河内北部の犬田城で尾州勢はなおも抵抗、九月(10月)三日(4日)に京都から尾州派の遊佐長直が(しい)()(なが)(たね)ら越中勢を率いて義就軍に包囲された犬田城の後詰に向かう。九月(10月)九日(10日)に両軍は犬田城付近で対峙、十七日(18日)に戦闘が起こり政長軍は敗北、椎名長胤は討死、遊佐長直は負傷して淀川を渡り正覚寺へ逃亡、敗残兵は犬田城へ収容された。廿六日(27日)に犬田城は落城、義就は河内を実質的に平定した。

 河内南部で政長と義就が対陣を続けている最中に山城南部と河内北部は義就方に制圧されたが、文明十七年(西暦1485年)七月(8月)、山城南部の斎藤彦次郎国宗が政長に寝返り山城の戦線は膠着状態となる。十月(11月)まで両畠山軍が駐屯を続けたことから、十二月十一日(1月16日)に山城国人が決起して国一揆を結成、交渉の末に十七日(22日)に両畠山軍を撤退させた。そんな中、義就嫡子の修羅法師(よし)(もと)(よう)(せつ)する。

 寛正元年(西暦1460年)政長に敗れた義就が若江城に避難すると政長がこれを攻め、国助は戦死、以後、備後守長直が河内守を名乗った。若江城は国助の女婿であった弾正忠就家が継ぎ、明応二年(西暦1493年)閏四月廿五日(6月9日)、正覚寺城の戦いで長直を討って就家が河内守を名乗っている。

「ここは退かれませ」

 就盛は絞り出したかのような低い声で、義宣に告げる。義宣はその場にうずくまり、()(えつ)のような声を挙げた。

「何故こうなるのだ! 年が明けたら大和へ攻め込むのではなかったか!」

 就盛はじっと若い主君が落ち着くのを待った。ようやく、ようやくである。長きに(わた)る河内畠山の内訌を終わらせることができると喜んだのも束の間であった。(ひと)(しき)(わめ)き疲れたのであろうか、義宣の声が()む。ややあって顔を上げた。

「尾州()に頭なぞ下げぬ。落ちるぞ」
「既に支度は整うて御座いまする。英盛!」
「応っ!」

 就盛の後ろに控えていた偉丈夫が、義宣の前に出て移動を促した。城から打って出て、敵陣の最も薄い箇所から離脱する――という手もあるが、城の北裏手からは敵陣に見つからぬ水の手がある。高屋城には石川から引き込んだ水濠があり、万に満たぬ軍勢では囲みきれぬほどに(おお)きかった。東に石川、北と西は水濠に囲まれ、稙長率いる大和衆では攻め口は南に限られる。水軍が居なければ、高屋城を取り囲みきることは不可能だからだ。水軍は河内にはなく、和泉にあり、今は細川元常の麾下――つまり、味方である。

 その南の大手門の前に、畠山稙長が陣取っている。越智弾正忠家頼と筒井良舜坊(じゅん)(こう)の手勢が両翼を固め、その後方に香西四郎左衛門尉元盛、柳本五郎左衛門尉賢治、そして後方中央の後備に細川六郎太民部少輔稙国が控えていた。

細川稙国  兵二〇〇〇
 香西元盛 兵 五〇〇
 柳本賢治 兵 五〇〇
畠山稙長  兵二〇〇〇
 越智家頼 兵二〇〇〇
 筒井順興 兵二〇〇〇

 城に籠もる兵は二〇〇〇にも満たない。領内巡察に兵を割いたからでもあり、年明けに大和侵攻を企図していたため、早々に豪族らの帰着を許したからだ。

 夜陰に紛れ、畠山義宣一党は城を落ち延びる。こうして国分の戦いは幕を閉じた。大永四年(西暦1524年)十一月(12月)廿日(15日)のことである。

 六日後、(おし)()(がた)城に詰めた畠山義宣は、雲霞のごとく押し寄せる稙長勢を無気力に眺めていた。たった二ヶ月でこうも形成が逆転するものなのか。何処で打つ手を間違えたのか。

「御屋形様」

 武者姿の就盛が、傍らに(ひざまず)く。敵の出方次第ではあったが、押子形城の次は天野の()(おう)(やま)城へ落ちると決めていた。誉田屋形を中心に北に押子形城、西に仁王山城、東に(いし)(ぼとけ)城がある。石仏城は大和口にあたるため、落ち延び先として省いた。敵主力が大和衆である以上、誉田東部は敵の影響圏内となる。南の(あた)(くら)(やま)には南北朝時代の旗蔵城があるが、これは砦ほどの規模で立て籠もるには向かなかった。あくまで高野山との連絡線を確保するための守衛である。

「仁王山のあとは、高野山を頼るしかないか」
「無念なれど、(けん)()(ちょう)(らい)の機会は必ずやありまする!」

 稙長勢の士気は高い。軍勢が多いこともあるが、義宣が戦わず兵を退いたことで楽勝気分が広がっていた。ここであと数日粘れるならば、細川元常の和泉勢が高屋城と誉田屋形の補給線を脅かす要請を聞き入れてくれれば――

()()()()(ばなし)で戦はできぬよな」
刑部大輔(細川元常)殿にござりますか」

 大きく(うなず)く。彼我が逆のときに、自らが兵を出すかを考えてみたらいい。義宣が細川元常の親族であったり、細川(もとい)の重臣であるならば、兵を出し惜しみすることもないだろうが、同じ三管領の畠山金吾家の当主であった。答えは明快である。

「答えは自ずと決まっている」
「兵は出さぬ、と」

 諦め顔で嘆息を吐く。

「そちとて立場が逆なら兵は出さぬよう諫言しよう?」
「それでは約束が違いまする」

 確かに、畠山義宣を見捨てぬという約定で兵を挙げた。しかし、この戦国の世でそのような約定が当てになる筈もない。それとて兵を集めるには役立ったのだ。それだけでも良しとするしかあるまい。

「河州よ、そちが当てにしていたとは思えぬが」
「当てにはしておりませぬが、相手の非は打ち鳴らせまする。御屋形様と兵らの今後を支えてもらわねば」

 今、兵を失わずに退けば次がある。そういう話だ。助けに来ぬなら、押し掛けるまで。就盛の肚を読んで、義宣は大笑いした。

「なるほど、な。それもそうだ」
「では、高野山に参じて、その後堺から阿波に渡るといたしましょう」

 先が見えたことで、義宣に落ち着きが戻る。そして、主従はと兵を散じて城をあとにし、高野街道を南に向かった。兵たちには堺へと落ちさせるように言い含める。

 十一月(12月)廿六日(21日)、押子形城落城。
 十二月(12月)五日(29日)、仁王山城落城。

 こうして、河内国は畠山尾張守稙長が制圧した。
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