第7話 公判前整理手続

文字数 2,671文字

 罪状が殺人となると、裁判官たちはみな一様に緊張する。刑法での一番重い罪を争うことになるからだ。
 この日、判事補・青木玲奈は検察から送られて来た訴状に目を通した。これは最近のワイドショーを賑わせている女性による男性の殺人事件。「〇見川河口殺人事件」と呼ばれている。
 検察による訴状は次のようになる。

 被疑者・滝沢小夜(年齢29)は〇大学2年間と、同大理化学研究室での3年間を、2歳上の被害者・小林雄一と先輩後輩の間柄で過ごす。専門は、応用物理学科で基礎化粧品の研究開発。被害者が3年前に研究室内で発見した物質を特許申請。この特許を巡っては、大手化粧品会社〇が2億円で購入したいとの申し出もあった。ところが被疑者は、同人との共同研究開発の成果であると主張する。両者の見解は真っ向から食い違う。さらに、永年に亘る痴情のもつれもあり、被疑者は憤懣を募らせていったと推量される。
 6月30日午前5時頃、花見川河口堰堤で釣りをしていた被害者の背中を押し、2メートル下の水深約3メートルの海面に落下させ、溺死させた。よってここに起訴するものである。

 検察調書によると、被疑者はすでに自白しているとある。となると、あとは量刑のみが争点となる。但し、自白が覆っている可能性も無きにしも非ず。判事補は判事を補佐する役割なので、上級のふたりの判事に事件の概要をかいつまんで説明する役目も担う。
 本日午後より、裁判の論点を事前に整理する公判前整理手続が予定されている。これは論点を絞り込み、迅速な審理を実現するための会議である。同時に、裁判員6名の確定。これは地方裁判所ごとに管内の選挙管理委員会が、選挙権を有する住人の中からくじで選んだ裁判員名簿を作成し、3判事制の刑事事件ごとに6名を割り振るもの。本事件は5月に起きたので、9月には裁判員に選出された旨の通知が届いたはず。

 千葉地方裁判所第三会議室に、検察側が担当検事と事務官、それに被告人とその弁護人1名。裁判所側からは担当裁判官3名が顔を揃えた。玲奈はこの地裁に来て2年目だが、大体の検察官は見知っているし、刑事事件での弁護人もおおよそ同じ顔ぶれになる。なので、挨拶も儀礼的なものになり、すぐに審議に入る。手慣れたものだ。
 ところが、今回の弁護人は父の田中幸輝だった。父は国選案件しか請け負わないので、被疑者はやはり容疑を認めているか、或いはお金が無くて有能な私選弁護団を付けられないか、のどちらかだ。父とは軽く目配せする。姓名が違っているので、他の裁判官も検察官も父娘とは誰も気付かない。
 この父とは、昨年和解するまでは敵対関係にあった。幾ら憐憫の情からとはいえ、赤の他人を田中籍に入れ、図らずも母に知られることになり、離婚にまで発展し、母は心労から鬱となり、乳癌に蝕まれ、半年で他界してしまう。
 のちに、無骨ものの父だから成し得たことと知れたが、それまでは到底許されざる大悪人だった。昨年のある事件の判事補と弁護人となり、10年ぶりの再会を果たすことになった。さらに事件をきっかけにして父の所業が知れた。検事の職務を優先するが上の大失態だった。真犯人を手中(戸籍)に収め監視していたのだった。
 玲奈はそんな父を赦した。武骨でいけぞんざいな父を、故き母も笑っているような気がした。父は贖罪から、検察を辞めて、国選のみを扱う弁護士となっていた。痩せた体躯に真っ白な頭髪、くたびれた年代物のスーツ、あちこちで擦り切れて裏地が見える書類カバン。彼は日々母への過ちを償っていた。
 その後は、普通の父娘に戻り、無粋なやもめ暮らしの面倒を見るようになった。週に一度は手料理をふるまっている。

 さてさて、整理手続だが、父が検察の調書とは真逆の発言をした。
「滝沢小夜は自白を覆し無実を主張しています。本裁判では、自白の信憑性を問います。また、殺人における動機を争います。すなわち、痴情のもつれとは何を意味するのか、さらには、被疑者が抱いていたとされる、基礎化粧品における新物質の特許申請に関しての不満、恨みの有無も争います」
 被告人・滝沢小夜は毅然とした表情を浮かべ、真っ直ぐに正面を見つめていた。
 検察は痛い処をつかれたのか、渋い顔をしている。
 判事4号(判事の位階、最高裁判所長官~8号まである)の裁判長はすかさず、
「検察側もそれでよろしいですか?」
 担当の検事5号(検事の位階、検事総長~20号まである)殿は、隣りの事務官と話し合い、了解する旨を裁判長に伝えた。
 そのあとは検察側と弁護側それぞれが尋問する証人を申請した。円滑な審議を目的に、裁判所が「証人カード」を作成するためだ。
「では、来月10日に第1回公判を開廷することにします」
 裁判長は宣言し整理手続は終了した。会議室の出入り口には、判決を担当している各報道機関の記者たちが出待ちしていた。この「〇見川河口殺人事件」は世間での関心の度合いが高い。早速に、弁護人の父が囲まれた。滝沢小夜は刑務官に伴われて別の出口から拘置所に向った。
「被疑者は罪を認めてるんですか?」
 弁護人の重要な職務には、世論を味方につけることも含まれている。父は、丁寧に取材に応じている。これは格好のワイドショーネタになる。何しろ、自白を覆したのだから。
「いえ、自白は強要されたものとして、無実を訴えています」
 父は、先ほどの裁判での争点を繰り返して伝えた。
「なにか新たな証拠でもあるんですか?」
「いや、いまお伝えしたように動機が曖昧なままなのです。検察は動機を確固としたものにしなくてはならない」
「具体的に教えて貰えますか?」
「はい、分かりました。お伝えします。第一、痴情のもつれとありますが、小林氏には他にお付き合いしている人は居なかった。他の女性の蔭が見当たらないんです。また、基礎化粧品開発への新物質発見を独占したことを恨んでいたとしていますが、永らく被疑者は被害者の経営する塾で講師をして被害者を援けていた。憤懣やるかたない人物を援けるお人好しさんがいますか? これをどう説明したらいいんでしょうか。
 痴情のもつれとは具体的に何を指すのか? また、新物質発見を巡る争いは両者間に本当にあったのか? これらの点を検察はきちんと解き明かさなくてはならない」

 ほぉー、なるほど… 

 記者たちからはどよめきが起こる。
「被疑者・滝沢小夜は無実を訴えています。同時に保釈申請も行いました。」
 父はキッパリと言い切った。
 ※裁判所は保釈に関して、第一回公判ののち、可否の結論を出すとした。
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