第08話 ハーモニーは腋臭なのか?
文字数 2,751文字
三人で食堂から出たところで、ハーモニーが言った。
「ちょっと行くところがあるから」
休み時間は、あと十分ほど残っていた。
「トイレか?」俺は尋ねた。
「あんた、デリカシーに欠けすぎ」
そう言って、ハーモニーは去っていく。
「じゃ、行こうか」
そう苅部が言い、俺たちは第三多目的教室へと向かった。
ハーモニーは、昼休み終了と、ほぼ同時に教室へ戻ってきた。随分と長いトイレであるが、そのことを指摘すると、またしてもデリカシーがないと怒られるであろうから、やめておいた。このように、俺は意外と心配りのできる男なのだが、なかなか気づいてもらえない。
ハーモニーが俺たちの前を通った瞬間、またしても、あの甘ったるい香りが鼻を刺激した。トイレの後なので、臭いを気にして、多めに香水を振りかけたのかもしれない。当校に、臭いに関する規定は存在しない。どうでもよいと言えた。
六時間目の終了と同時に、苅部が雑賀に声を掛けた。場所を変えて話そうよ、という苅部の声がきこえた。雑賀は鬱陶しそうにしていたが、苅部が先導する形で、ふたりは教室から出て行った。
「どうなるかな」ハーモニーは楽しそうだった。
「どうにかなるかもしれないし、どうにもならないかもしれない」
ハーモニーは、わざとらしい溜息を吐いて、鞄を手に取り、教室を出て行こうとした。
「ハーモニーは腋臭(わきが)なのか?」俺は気になっていたことを尋ねた。
「は? なに言ってんの? バカなの?」
「それは、バカの定義によるだろう」
「デリカシー欠けまくり。変態過ぎ」
「簡単な推理だ」俺は言った。「きみはいつも、甘ったるい香りを漂わせている。それはつまり、腋臭であることを隠そうとしているのではないか。欧米人に腋臭が多いという話をきいたこともある」
「違うから」ハーモニーは言った。「たぶん違うから」
ややトーンダウンしていた。
「たぶん、違うと思う」ハーモニーは三度、似たような言葉を言った。「あのさ、明日、ちょっと早めに来てくれる?」
「早めとは?」
「そうね、始業の十五分くらい前」
「俺は、いつもそれくらいの時間にいる」
始業ぎりぎりに来るのは、ハーモニーのほうだ。
「一帆は?」
「始業十分前くらいに来ることが多い」
苅部は家が近いので、油断しているのだろう。いつか足を掬われるに違いない。
俺が早めに登校しているのは、電車の遅延を加味してスケジュールを組んでいるからだ。
「雑賀は?」
「知らん。俺よりも早い」
「そっか。まあ良いわ。明日、十五分前集合だから」
「了解した」普段通り行動するだけだ。「ひとつきいて良いか?」
「ダメ」
俺はハーモニーを無視して言った。
「雑賀の呼び名が、安定していない気がする。ちゃんをつけたり、さんをつけたり、呼び捨てだったり。どういう意図があるんだ?」
「意図とかないけど。勘というか、その場のノリだけど」
「呼称を決めておかないと、不安にならないか?」
「ならないけど」ハーモニーは言った。「あんた、そんなことにこだわってんの?」
俺はうなずいた。
「早く人間になりなさい」
ひどいことを言って、ハーモニーは去っていった。
それから十秒ほどのラグがあって、雑賀が戻ってきた。
「お帰り」と言ってみた。
雑賀は俺の言葉を無視し、自席へと戻った。
「苅部は?」
「泣いて帰っていった」
どうやら雑賀が泣かせたらしかった。ひどいことを言ったに違いない。
そのとき、ふと思いついた。
「ちょっと、足を見せてもらってもいいだろうか」
雑賀は、不快そうな表情を隠しもせず、俺を睨みつける。
「あなた、足が好きなの?」
「特に好きでも嫌いでもない」
「わたしは、あなたの欲求には答えられない」
「要求の間違いだろう」あるいは、俺がきき間違えたのか。
「なぜ足を見たいの?」
俺は六秒黙り、答えた。
「見る必要があるからだ」
「わたしの足、細いし、見てもつまらないと思う」
「つまる必要がないし、俺が見たいのは、きみの大腿ではない。足首から先だ」
「なぜ見たいの?」雑賀は同じ質問をした。
「見る必要があるからだ」当然、俺も同じ答えを返す。「足のサイズを教えてくれてもいい」
「二十二点五」即答した。
よほど足を見られたくないのだろう。もしかしたら扁平足なのかもしれない。
「足のサイズは、機密情報だから」雑賀は言った。「変なことに使わないように」
「変なこと、とはなんだ?」
「それは、つまり、その」雑賀は俺を睨みつける。「あなたは、いまセクハラをしています」
「していない」コミュニケーションは難しい。「なぜ、こうも会話が成立しないのだろう」
「あなたが人間じゃないからでしょう。きっと」
そう言って、雑賀は俺から視線を外し、鞄から参考書を取りだした。
俺は教室の外へ出た。普段ならば家に帰るところだが、今日は違った。行動開始である。無為に終わるかもしれない。いや、その可能性は高いだろう。しかし、それでも行動すると決めたのだ。そのほうが人間らしいと言える。ハーモニーも人間になれと言っていた。雑賀にも人間じゃないと言われた。もっとコミュニケーションを円滑にしたい。そのためにも、人間になる必要があるのだった。
それに……俺は、姉から人間らしく生きてね、と言われたのを思いだした。なぜ、忘れていたのだろう。随分と長い間、忘れてしまっていた。そうだ、俺は人間にならなくてはならないのだ。
俺は、人間を目指すことにした。
廊下の壁に寄りかかり、目をつむる。校内の図を頭のなかに展開する。人通りの少ない場所を考える。それほど候補は多いわけではない。汚れている場所。自然がある場所。そういう場所を絞りこめば良い。すぐに候補は数箇所に絞られた。
まずは校舎裏へと移動した。外の道路とはコンクリートの塀で隔てられている。人が横に並んだとき、ぎりぎり二人通れるくらいの、細い道がつづいていた。そこを一周してみたけれど、何も見つからなかった。
次の候補は、校庭の隅にある飼育小屋だった。いまは何もいないようだが、数年前まではウサギを飼っていたという。その小屋の周辺は、雑草が生い茂り、荒れ果てていた。しばらく誰も近づいていないのではないか、と思われた。
そこに、煙草の吸い殻が幾つかあり。
そして、飼育小屋の裏、雑草の生い茂ったところに、ぼろぼろに切り刻まれた、茶色の革靴があった。裏返してみると、靴のサイズは二十五だった。
「ちょっと行くところがあるから」
休み時間は、あと十分ほど残っていた。
「トイレか?」俺は尋ねた。
「あんた、デリカシーに欠けすぎ」
そう言って、ハーモニーは去っていく。
「じゃ、行こうか」
そう苅部が言い、俺たちは第三多目的教室へと向かった。
ハーモニーは、昼休み終了と、ほぼ同時に教室へ戻ってきた。随分と長いトイレであるが、そのことを指摘すると、またしてもデリカシーがないと怒られるであろうから、やめておいた。このように、俺は意外と心配りのできる男なのだが、なかなか気づいてもらえない。
ハーモニーが俺たちの前を通った瞬間、またしても、あの甘ったるい香りが鼻を刺激した。トイレの後なので、臭いを気にして、多めに香水を振りかけたのかもしれない。当校に、臭いに関する規定は存在しない。どうでもよいと言えた。
六時間目の終了と同時に、苅部が雑賀に声を掛けた。場所を変えて話そうよ、という苅部の声がきこえた。雑賀は鬱陶しそうにしていたが、苅部が先導する形で、ふたりは教室から出て行った。
「どうなるかな」ハーモニーは楽しそうだった。
「どうにかなるかもしれないし、どうにもならないかもしれない」
ハーモニーは、わざとらしい溜息を吐いて、鞄を手に取り、教室を出て行こうとした。
「ハーモニーは腋臭(わきが)なのか?」俺は気になっていたことを尋ねた。
「は? なに言ってんの? バカなの?」
「それは、バカの定義によるだろう」
「デリカシー欠けまくり。変態過ぎ」
「簡単な推理だ」俺は言った。「きみはいつも、甘ったるい香りを漂わせている。それはつまり、腋臭であることを隠そうとしているのではないか。欧米人に腋臭が多いという話をきいたこともある」
「違うから」ハーモニーは言った。「たぶん違うから」
ややトーンダウンしていた。
「たぶん、違うと思う」ハーモニーは三度、似たような言葉を言った。「あのさ、明日、ちょっと早めに来てくれる?」
「早めとは?」
「そうね、始業の十五分くらい前」
「俺は、いつもそれくらいの時間にいる」
始業ぎりぎりに来るのは、ハーモニーのほうだ。
「一帆は?」
「始業十分前くらいに来ることが多い」
苅部は家が近いので、油断しているのだろう。いつか足を掬われるに違いない。
俺が早めに登校しているのは、電車の遅延を加味してスケジュールを組んでいるからだ。
「雑賀は?」
「知らん。俺よりも早い」
「そっか。まあ良いわ。明日、十五分前集合だから」
「了解した」普段通り行動するだけだ。「ひとつきいて良いか?」
「ダメ」
俺はハーモニーを無視して言った。
「雑賀の呼び名が、安定していない気がする。ちゃんをつけたり、さんをつけたり、呼び捨てだったり。どういう意図があるんだ?」
「意図とかないけど。勘というか、その場のノリだけど」
「呼称を決めておかないと、不安にならないか?」
「ならないけど」ハーモニーは言った。「あんた、そんなことにこだわってんの?」
俺はうなずいた。
「早く人間になりなさい」
ひどいことを言って、ハーモニーは去っていった。
それから十秒ほどのラグがあって、雑賀が戻ってきた。
「お帰り」と言ってみた。
雑賀は俺の言葉を無視し、自席へと戻った。
「苅部は?」
「泣いて帰っていった」
どうやら雑賀が泣かせたらしかった。ひどいことを言ったに違いない。
そのとき、ふと思いついた。
「ちょっと、足を見せてもらってもいいだろうか」
雑賀は、不快そうな表情を隠しもせず、俺を睨みつける。
「あなた、足が好きなの?」
「特に好きでも嫌いでもない」
「わたしは、あなたの欲求には答えられない」
「要求の間違いだろう」あるいは、俺がきき間違えたのか。
「なぜ足を見たいの?」
俺は六秒黙り、答えた。
「見る必要があるからだ」
「わたしの足、細いし、見てもつまらないと思う」
「つまる必要がないし、俺が見たいのは、きみの大腿ではない。足首から先だ」
「なぜ見たいの?」雑賀は同じ質問をした。
「見る必要があるからだ」当然、俺も同じ答えを返す。「足のサイズを教えてくれてもいい」
「二十二点五」即答した。
よほど足を見られたくないのだろう。もしかしたら扁平足なのかもしれない。
「足のサイズは、機密情報だから」雑賀は言った。「変なことに使わないように」
「変なこと、とはなんだ?」
「それは、つまり、その」雑賀は俺を睨みつける。「あなたは、いまセクハラをしています」
「していない」コミュニケーションは難しい。「なぜ、こうも会話が成立しないのだろう」
「あなたが人間じゃないからでしょう。きっと」
そう言って、雑賀は俺から視線を外し、鞄から参考書を取りだした。
俺は教室の外へ出た。普段ならば家に帰るところだが、今日は違った。行動開始である。無為に終わるかもしれない。いや、その可能性は高いだろう。しかし、それでも行動すると決めたのだ。そのほうが人間らしいと言える。ハーモニーも人間になれと言っていた。雑賀にも人間じゃないと言われた。もっとコミュニケーションを円滑にしたい。そのためにも、人間になる必要があるのだった。
それに……俺は、姉から人間らしく生きてね、と言われたのを思いだした。なぜ、忘れていたのだろう。随分と長い間、忘れてしまっていた。そうだ、俺は人間にならなくてはならないのだ。
俺は、人間を目指すことにした。
廊下の壁に寄りかかり、目をつむる。校内の図を頭のなかに展開する。人通りの少ない場所を考える。それほど候補は多いわけではない。汚れている場所。自然がある場所。そういう場所を絞りこめば良い。すぐに候補は数箇所に絞られた。
まずは校舎裏へと移動した。外の道路とはコンクリートの塀で隔てられている。人が横に並んだとき、ぎりぎり二人通れるくらいの、細い道がつづいていた。そこを一周してみたけれど、何も見つからなかった。
次の候補は、校庭の隅にある飼育小屋だった。いまは何もいないようだが、数年前まではウサギを飼っていたという。その小屋の周辺は、雑草が生い茂り、荒れ果てていた。しばらく誰も近づいていないのではないか、と思われた。
そこに、煙草の吸い殻が幾つかあり。
そして、飼育小屋の裏、雑草の生い茂ったところに、ぼろぼろに切り刻まれた、茶色の革靴があった。裏返してみると、靴のサイズは二十五だった。