第1話

文字数 8,323文字

 ミスタ・ジョン・K・クラークは、アメリカ東海岸にある大手保険会社を引退した老紳士だった。現役時代は大きな支店の長を歴任したというから、かなりのやり手だったのだろうが、僕と出会った頃はもう笑顔のやさしい好々爺になっていた。
 年齢にふさわしい経験を積んだ老人は、それだけで絵になる。大柄で見事な白髪。顔に刻まれた人生の年輪。僕は初めて会ったときに、厳しい冬をくぐり抜けた大樹のような人だと感じたものだ。
 彼は、僕のニューヨーク勤務時代の隣人だった。
 僕たちが住んでいたのは、マンハッタン島から北へ車で一時間足らず、川幅を広げてゆったりと流れるハドソン川のほとりにあるスリーピーホロウという町だ。アメリカの怪談ばなしの定番である首なし騎士の不気味な伝説で有名だが、実際には閑静で緑豊かな住宅街である。
 僕がここに住むと決めた時、先輩の駐在員たちからはやめとけといわれた。独身の駐在員はたいていオフィスに近くて便利なマンハッタン島の中に部屋を借りるからだ。たしかに残業の日などは後悔しないでもなかった。
 しかし僕は、不動産屋が気まぐれに紹介した郊外の一軒家がすっかり気に入ってしまったのである。正確には、その家から見下ろすハドソン川の風景が。赴任は五月だった。川沿いの高台にある町は新緑に包まれていた。木漏れ日が揺れ、見下ろす大河は初夏の陽光にキラキラと輝いていた。
「きれいだなあ……」
 僕はそうつぶやき、ここに住もうと決心した。家賃は予算をオーバーし、先輩たちはあきれ顔でこういった。
「夏は芝刈り、秋は落ち葉、冬は雪かきだ。一戸建てはたいへんだぞ」
 しかしやってみればけっこう楽しかった。庭仕事は無心で没頭できる仕事だ。終えた後はビールを片手に庭先の椅子に腰かけて川を眺めた。
 雄大な川の風景は、見飽きることがなかった。季節によってその基調となる色は変わった。春の新緑、秋の紅葉、冬の雪。どれも素晴らしかったが、僕がいちばん好きだったのは夏だ――夏の夕暮れ。
 昼間の強烈な太陽が、西に傾くにつれて赤みを帯び、柔らかくなっていく。輪郭がだんだんと溶けて、オレンジ色が染み出し、世界に広がっていく。
 空。川。対岸。大きな鉄橋。行きかう船。鳥たち。それらすべてが、ただ一色の濃淡で描かれた壮大な風景画になる。大河はひととき、巨大なオレンジ色の鏡となって地表に横たわる。時を止めるほど荘厳な風景があることを、僕はこのときに知った。
 電車での通勤も東京のラッシュを思えば楽なものだった。なにしろ座れるし、線路は大好きな川べりを走っているのだ。
 今でも不思議に思う。僕はなぜあれほど惹かれたのだろう。通勤電車で本や新聞を読んでいた記憶が、僕にはない。くもりや雨の日、景色など見えない夜でさえ、僕は車窓から、そこにあるはずの川を眺め続けていた。

 これは二十世紀の終わり頃の話だ。僕はまだ若く、少しばかり不遇な立場にいた。
 勤めていた中堅事務機器商社で、常務派が専務派に負けたからだ。
 常務派の営業部長が会社の金に手をつけ、誰かが極秘で穴埋めをしなければならなくなった。限りなく犯罪に近い、生ゴミのフタを力ずくで押さえつけるような汚い仕事。それが営業部の若手だった僕に回ってきた。内々で。
 もちろんタダではない。昇進が条件だった。僕は三日迷って、のんだ。ある取引先で架空の発注をでっち上げ、まとまった額の裏金を捻出したのだ。方法としてはそれしかなかった。そして突然の抜擢は不自然なので、昇進の前に僕は一年だけ海外へ「飛ばされる」ことになった。仕事の後味は悪かったが、僕はそれで同期のライバルたちを出し抜いたつもりだった。当時は誰が見ても常務派が優勢で、約束が反故にされるなんて想像もできなかったのだ。
 ところが異動直前に秘密がバレた。こともあろうに当の営業部長が寝返ったのだ。不祥事が表沙汰になることはなかったものの、隠蔽を指示した常務は失脚し、僕の異動は意味あいが百八十度変わった。カムフラージュのはずが、本当の左遷になってしまったのだ。今から思えばクビにならなかったのが不思議なくらいだ。
「いっしょにニューヨークへ行こう」
 そう告げかけていた当時の恋人は、不穏な空気を敏感に察し、長い髪をひるがえして去っていった。僕はへこんだ。ずいぶん後悔した。一年後に出るであろう次の辞令を思うとさらに気が滅入った。
 ――受けるんじゃなかった――
 それまでは、そこそこできる奴で通っていたのだ。だからこそあんな話も回ってきた。転職も考えたが、試しにあたってみた転職業者から提示されたのは、ため息も出ないような条件ばかりだった。文系で、ほぼ駆け出しに近い営業マンなど、転職市場では石ころ程度の価値しかないのだった。世は不景気だった。
 ――とりあえず、行ってみるか――
 未開のジャングルというわけじゃないしな。
 華やかなイメージとは裏腹に、僕のニューヨーク生活は終末を待つような気分で始まったのだ。
 赴任先は孫会社だった。アメリカにいくつかあるグループ会社の経理事務を代行する小さな会社。裏金づくりに加担した僕が経理とは皮肉でしかなかった。
 社員は四人で、駐在員は社長と僕のふたりだけだった。社長は定年を間近にひかえ、にこにこと笑いながら退職金の計算をするばかりで、仕事の話は一切しなかった。現地採用のふたりは、高校生のような女の子と中年をすぎた年配の女性で、どちらも決して笑わなかった。自分の仕事以外は絶対にせず、五時五分にはもうオフィスにいなかった。
 僕の前任者は林さんという太った人で、一日だけ重なって表面的な引き継ぎをうけた。むずかしい仕事はなにもなかった。日本食レストランでスシ・ランチをおごってくれた。暑がりな人で、「まあ、楽しくやることだわさ。はは」、そういうと、春だというのに汗を拭き拭き去っていった。
 オフィスは大都会マンハッタンのほぼ真ん中にあった。ショッピングもブロードウェイも行こうと思えばすぐに行けた。しかし僕は行かなかった。そのにぎやかさが逆にうとましかった。もともと人ごみは嫌いだし、ひと通りの生活用品が揃えば、あとは本屋や日本食レストランが数軒わかれば十分だ。
 ――どうせ一年で帰るんだから――
 五番街では観光シーズンが始まっていた。日本人の団体が楽しそうに歩いているのがわけもなくしゃくにさわった。
 ――ちきしょう。ついてねえや――
 僕は一日でマンハッタンが大嫌いになった。

 僕が借りた家は木造だったが、ミスタ・クラークの家はどっしりとした石造りだった。建てられて百年は経っているという話だった。
 もともとこの辺りは、イギリス人がやって来るずっと前からオランダ人が住んでいた地域だ。先住民を除けば、アメリカでもっとも歴史の古い土地のひとつといえる。古い建築や歴史を経た荘園がいくつも残っていて、ごく自然に風景に溶け込んでいる。ミスタ・クラークの家もそんな古い建物のひとつだった。
 彼の家の一階にはリビングとキッチン、ベッドルーム、バスルームがあった。リビングには古くて大きな暖炉があり、くすんだ柱や壁とよく似合っていた。窓が小さいので、少し陽が傾くと家の中はすぐに薄暗くなる。すると天井から下がった小さなシャンデリアが、柔らかな灯りで重厚な家具を照らし出すのだった。
 玄関の前には小さなポーチがあり、そこが彼のお気に入りの場所だった。初夏の気候のよい時期、僕が仕事に出かける頃に彼はもうポーチにいて、おはようと声をかけてきた。帰宅のときも同じ場所に腰かけていて、おかえりと迎えてくれるのだった。そしてたいていはこう続いた。「一杯どうだい」。
 彼のふるまってくれるバーボンは、聞いたこともない銘柄で、うまかった。
 緯度の高いニューヨークでは初夏の日は長い。夏時間になるせいもあって、夏至のころには午後九時近くまで明るさが残る。陽の高いうちにオフィスを出た人々は、長い夏の夕べを、ショーを見に出かけたり、公園でジョギングをしたり、戸外のカフェでおしゃべりをして過ごすのだ。
 日中の気温はかなり高いが、日没後は熱気がやわらぎ、心地よい風が吹き始める。それは郊外の大河のほとりも同様だった。僕たちのバーボンの肴は、簡単なナッツやジャーキーの類と、ゆっくりと進む会話と、ハドソン川から運ばれてくる水の匂いだった。
 僕は子どもの頃に数年、イギリスに住んだことがあったので、日常英会話にはあまり不自由しなかった。しかし酔ったときの彼の英語は、故郷の南部なまりが出るせいで、理解できないことも多かった。それでも楽しかった。昼間はオフィスでくさっていても、夜に彼と向きあうとなぜか素直になれる。彼はそんな不思議な魅力をもった男だった。
「あなたはいつからこの町に」
「引退後だ。仕事であちこち住んだが、ここは川がいい。私の故郷にも大きな川が流れていてね」
「いつもなにをして過ごしているんですか」
「読書、料理、掃除、庭仕事、買い物に家の修繕。やることは山ほどあるさ。今日だってキッチンのドアを直したぞ」
 古い家は設備も老朽化していたのだろう、あちこちで小さな不具合がひっきりなしに生じていたようだ。彼はそれらすべてを自分で修理してしまうのだった。壁紙の張り替えから庭の草花の世話まで、誰の助けも借りずにやっていた。神経痛をもっていたのにである。
「無理をしないでくださいよ」
 見ているとちょっと体を動かすのも億劫そうなのに、家の中はいつ行っても掃除と整頓が行き届いていた。急な階段をどうやって上るのか、ふだんは使われていない二階も同様だったので僕は感心していた。よほど几帳面な性格なのだろうと思った。
「君はなぜこの街に。通勤が不便だろうに」
「僕も川が気に入ったんです」
「めずらしいな。結婚は」
「相手がいません」
「私は親しい男にはすすめることにしている。結婚は、しろよ」
「なぜですか」
「男は自分の家庭をもたないと、本当の人生がわからないからだ」
 そういう彼はひとり暮らしだった。若い頃は家族を持ったこともあったようだが、離婚したらしい。自分からはっきりそうといわないので詮索しづらかったのだが、言葉の端々から僕はそう推察していた。他人にすすめるくらいだから結婚に懲りたわけではないのだろう。なにか事情があったにちがいないと、僕は勝手に想像をめぐらせていた。
「今でもたまには、会いに来てくれるんだよ」
 娘がいるような話だった。ハンサムな彼の娘さんに僕は少なからず興味をもっていたのだが、ついに会うことはなかった。いや、一度は見たといえるのかもしれないが……。
 離婚のせいか、彼の家には家族の写真が一枚もなかった。オフィスのふたりがデスクのまわりに貼りまくるのを見てうんざりしていた僕には、これは好ましかった。
 かわりに彼が掛けていたのは、自分で描いたハドソン川の風景画だった。小高い丘の上から見た川を描くのは神経痛が出る前の趣味だったという。鮮やかさと影の同居する色あいは、青いセザンヌとも評すべき趣で、なんともいえない味があった。
 変わったものもあった。彼の家の壁には三本の白いロープが張られていたのだ。それぞれ玄関とリビング、リビングからベッドルーム、そして二階の部屋をつないでいた。長い時間を経た家の中で、それだけが妙に新しく、安っぽく映ったのを覚えている。
 彼はあまり目がよくなかった。ロープは万が一に備えて彼が自分で取りつけたのだという。手すりにすればいいのに、と僕が進言しても、
「これがいいんだよ。こうしてあると安心なんだ」
 と、彼は人なつこい笑顔を見せるばかりだった。
 ポーチで彼は仕事も教えてくれた。六月に従業員をひとり採用することになったときのことだ。派遣会社を通じて日本人男性とアメリカ人女性が面接に来た。日本語の能力を考えて男性の方にしようとしたが、そのことをミスタ・クラークに話すと、彼はこういった。
「クレジット・チェックの結果はどうだった」
「クレジット……なんですか」
 彼がいうのは、応募者の負債や延滞歴などを調べる手続きのことだ。通常は採用時にするのだが、僕はそんなこと知らなかった。
「そいつはどのくらいアメリカにいるんだ」
「これまで数年おきに日本とアメリカを往復してきたそうです。キャリアアップのためには国を選ばないと。今回は来たばかりで、まだホテルにいるといっていました」
 彼はバーボンをひと口飲んで、こういった。
「あやしいな。その男は自分の悪いクレジット・ヒストリーをごまかすために、定期的に日本との間を往復しているんじゃないか」
「どういうことですか」
「つまりだな、しばらくアメリカで働いて、クレジットカードを手に入れる。それでたくさん買い物をし、踏み倒して日本へ帰ってしまうわけだ。何年か後に再びアメリカに来て同じことをする」
「そんなことができるんですか」
「やりかた次第でな。経理担当にそういう人物は、危険だと思うぞ」
 その青年はさわやかで、後ろ暗いものは少しも感じられなかった。しかし派遣会社によく調べ直させると、その青年は彼のいった通りの過去をもっていた。とんでもない人物を紹介して申しわけありません、と担当者は平謝りに謝ってきた。どうしてわかったんですかと訊かれ返答に困った。
 僕はあやういところで失策を免れた。厄介ごとは一年後の辞令だけで十分だ。
「ありがとうございました。でもどうして」
「一時、部下にエイジアンやヒスパニックをたくさん抱えていたことがある。保険の営業に紹介は欠かせない。おかげでマイノリティ・マーケットを開拓できたが、痛い目にもあった」
「なるほど」
「残念だが、いちばん多いのはジャパニーズだった」
「えっ」
「不思議なものだ。他国の犯罪者のほとんどは、生きるために仕方なく悪事を働くが、ジャパニーズはそうじゃなかった。彼らは自国で飢えることはないのに、そういうことをした。ゲームのように」
「ほんとうですか……」
「勘ちがいするな。私はジャパニーズが悪いといっているんじゃない。多かったといっているだけだ。これは忠告だが、人間は個人だよ。偏見は人生の損失だ。だがそれとは別に、ルールに穴があるときは、そこを通り抜けようとするヤツが必ず現れる。そうせずにはいられないのだ。そのことも知っておいた方がいい」
 そして夜の会談を終えると、
「じゃあ、またな。おやすみ」
 彼は僕の差し出す手をやんわりとさえぎり、白いロープをつかんでベッドルームへと向かう。そのとき僕は人生を経た男の背中を見るのだった。
 彼の仕事での成功は、引退時の肩書きが十分に物語っている。家族と離れたのはつらい思い出だろうが、今は悪い関係ではないようだし、彼の背中はそれらすべてを包み込むようにどっしりと大きかった。
「ヒロは若くて、うらやましいよ」
 彼は口ぐせのようにそういったが、当面の将来が真っ暗な僕にとって、彼の背中こそ届かない憧れのようだった。

 こうして採用したもうひとりの応募者、ミズ・ハンナ・マツオカ・フォローズは、片言の日本語を操る日系アメリカ人だった。小柄だが背筋をピンと伸ばして歩き、形のよい唇をきりりと結んでいた。発言は簡潔にして的確、動作はリスみたいに機敏で、漆黒のショートヘアと茶色い瞳が印象的な女性だった。三歳の女の子をもつシングルマザーでもあった。
 彼女は飲みこみがはやく、てきぱきと正確に仕事をこなした。人事考課のカテゴリでいえばエクセレント、きわめて優秀というやつだ。預けた娘を迎えに行くというので退社を一時間早くするのを認めたが、僕は満足だった。採用は大成功だ。
 ――と思っていたら、すぐに問題が発生した。彼女が他のふたりとやりあったのだ。それもかなり派手に。
 最初は年上のジェーンと衝突した。
 ハンナが入社して一週間目、オフィスから突然、怒鳴り声が聞こえた。僕が個室を出てみると、ふたりがつかみかからんばかりの勢いでにらみ合っていた。
「どうしたんだ」
「ヒロ、彼女の担当を変えてください」
 こういったのはジェーンだ。
「どうして」
「彼女、私のやり方にいちいち文句をいうんです。我慢できない」
 聞けば残高証明のファイリング方法でもめているという。思わず「そんなくだらないこと」といいかけると、ジェーンは顔を真っ赤にして、ちらとハンナの方を見てから、
「私、辞めます!」
 バッグをつかんですたすた帰ってしまった。
「へ?」
 僕は呆然とした。いま辞めるっていったよな。こんなことで? するとハンナが横から平然といった。
「オーケー、ボス。今日は残業ね」
 例によってリタは五時きっかりに帰ってしまう。慣れないハンナに遅くまでつきあわないといけないだろうなという僕の予想に反して、彼女はその日、三十分ほど残業をしただけで、きれいに仕事を片付けてしまった。月末のいちばん忙しい時期だったのに。
 リタのときも同じだった。ジェーンがいなくなっても仕事はうまく流れていたので、若いリタが意外としっかり教えてくれているんだな、などと思っていたら再びオフィスに怒鳴り声が響いた。
「……!」
「……!」
 早すぎてネイティブでない僕には理解できない。ふたりの口調はだんだん熱を帯びていき、とうとうハンナが、リタの頬をバチンとひっぱたいた。やっちまった! 僕は蒼くなった。アメリカは訴訟社会だ。職場の暴力事件なら、上司もいっしょに訴えられるにちがいないと思ったのだ。
 リタは、これまた真っ赤な顔をして、
「こんな会社、辞めてやるわ。ッダミッ!」
 セリフを捨てて出て行った。
「オーケー、ボス。残業ね」
 こうして会社は社長と僕、それにハンナの三人になったが、なぜか翌日から仕事の能率は格段に上がった。ここに至って僕はハンナを大事にしようと決心した。社長はただ社長室でにこにこと笑っているだけだった。
 幸いなことに、リタからの訴訟はなかった。

 あの頃、仕事で覚えていることはなにもない。
 僕はふだんから用もないのに外出して、自由の女神やメトロポリタン美術館へ観光し、セントラルパークで昼寝をしていた。オフィスにいても個室でインターネットばかりやっていた。
 誰にも監視されず、がんばっても結果は同じ。真面目にやる気にはなれなかった。仕事はハンナがやってくれていたのだ。僕は外国にいながら、まるで引きこもりだった。社長はどことも知れず外出がちだったので、僕が口をきくのは、ハンナ以外には東京ビデオの中村くらいだった。
 東京ビデオは日系のレンタルビデオ屋である。当時は映像のネット配信サービスなんかなかった。日本のテレビ番組を録画したVHS版のビデオを、一、二週間遅れで駐在員やその家族に貸し出すのだ。合法性は怪しいし価格もやや割高だが、懐かしさと手軽さが受けるのか、結構な需要があったようだ。
 店舗も構えているのだが、顧客のもとに出向いたほうが売上がよいということで、営業担当がスーツケース大のワゴンにビデオを詰め込み、日系企業の事務所を回る。中村はそこの営業担当だった。
 彼は週一回くらいのペースでやってきた。前任の林さんが上得意だったらしい。中村はひょろりと痩せていて、髪の毛は茶色で、鼻ピアスをしていた。原色のシャツや上着はニューヨークという土地柄を考えても十分に派手で、どちらかというと下品な印象を与えた。いつもガムをクチャクチャと噛み、唇の端でちょっと嗤っていた。
「林さん帰国ってマジやばいっすよー。これ以上売上落ちたらおれクビっす。もう、オクムラさんにかかってます。どの方面か教えてもらえれば、やばい系も何とか都合つけますからへへ、よろしくお願いしまーっす」
「え、リタ辞めちゃったんすか。可愛かったのになあ。おや、今度の人は日本人っすか。細身だけど出るとこ出てて、なかなかいいじゃないっすか。ハンナっていうんですか。オクムラさんのタイプ? え、バツイチ。いいんすよねえ、若いバツイチって」
 そんなことをいってハンナのことをじろじろと見ていた。
 外見は学生のようにも、三十代にも見えた。妙に世慣れた態度や、人を小馬鹿にしたような口調がまるで安っぽいチンピラ映画のようだと思ったものだ。生理的に合わないタイプというのは同性だってある。僕は初対面の瞬間から彼を嫌悪した。日本にいたら、こんな男と接点を持つことなど絶対になかっただろう。
 それでも、僕が仕事と関係のない日本語を使える相手は彼くらいだった。気がつけば、僕はろくに見もしないレンタルビデオ店の優良顧客になっていた。
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