第1話

文字数 1,468文字

 店の外観が見えると同時に、香ばしいラーメンの匂いが鼻をくすぐる。
 実物を見てもいないのに、腹の虫はグーグーと鳴り響く。
 並んでいるのは三人。
 許容範囲だ。
 
 健康診断の結果、医者から飲食を控えるように言われて一か月。
 月一回のラーメンの日が、唯一の娯楽だ。
 俺が並ぶと、三番目に並んでいた客からメニューが渡される。
 決まればメニューを後ろの客へ渡すのが、この店のローカルルールだ。
 
 俺がメニューを受け取り、まずは季節限定メニューを確認する。
 背油味噌ラーメン。
 魅力的な言葉だ。
 しかし、俺が頼むのは大好物の味噌ラーメン。
 健康診断の結果を考えた最善手だ。
 
 店の中から、四人の団体客がぞろぞろと出ていく。
 カウンター四席が開き、店員による清掃が行われる。
 
「先頭から四名様、どうぞー」
 
 店長の声に従い、俺と三人の客がカウンター席に座る。
 木製のテーブルからは、細かな水滴が貼りついて、水で濡れた直後特有の木の香りが漂っていた。
 
 これだ。
 これが、ラーメン屋だ。
 俺は店長の方を見て、注文を聞かれる時を待った。
 
「先頭のお客さん、ご注文は?」
 
「味噌一つ」
 
 味噌ラーメン。
 先頭の客は、わかっている。
 この店は、味噌・醤油・塩を出すが、最も美味いのは味噌なのだ。
 おそらく、この店のベテランと見た。
 
「それと、生一つお願いします」
 
 な、生だとおおおおお!?
 俺の全身に電撃が走る。
 
 味噌ラーメンとビール。
 犯罪的な美味しさだ。
 しかし、しかしだ。
 俺は健康診断でひっかかり、味噌ラーメンとビールを組み合わせるわけにはいかないのだ。
 これ以上、太るわけにはいかないのだ。
 
 この店は、味噌ラーメンだけでも十分美味い。
 美味いのだ。
 俺は小さく深呼吸をし、欲深き自分の心を落ち着かせた。
 
 大丈夫、大丈夫だ。
 単品の味噌ラーメンだけでも、充分美味い。
 
「二番目のお客様、ご注文は?」
 
「背油味噌ラーメンに、生一つ」
 
 お前もかあああああ。
 
 しかも、背脂トッピング。
 なんて背徳的。
 デブの栄養剤。
 そこにビールが加われば、旨味成分の大爆発。
 健康診断数値の大爆発。
 
 垂れてきた涎を、すぐに拭う。
 俺は、味噌ラーメンを食べに来たんだと自分を洗脳する
 ラーメン。
 ラーメン。
 ラーメン。
 
「三番目のお客様、ご注文は?」
 
「えっと、餃子一皿にメンマ。後、生一つ」
 
 ラーメンが無ああああい!?
 
 ふざけるな。
 ふざけるなよ。
 ラーメン屋に来て、ラーメンを頼まぬその所業。
 万死を超える所業。
 俺の飲酒欲を崩壊させる所業。
 
 許すまじ。
 
 ラーメン屋でラーメンを食べなくてもいいという邪悪な思想が、俺の道徳心を塗り替える。
 ラーメン屋で酒を飲むのがいいという邪悪な思想が、俺の道徳心を塗り替える。
 
 ちくしょう。
 ちくしょう。
 俺の、生ビールだけ頼むという誓いが、容赦なく崩されていく。
 
 
 
 ん、あれ?
 
 生ビールだけ?
 
 あれ?
 
 俺は、何を食べに来たんだっけ?
 
 健康診断。
 
 生ビール。
 
 月一限定。
 
 俺の脳が、ぐつぐつと湯だつ音が聞こえた。
 
 
 
「四番目のお客様、ご注文は?」
 
「背油味噌ラーメンにチャーシュー大盛りと、餃子一皿に! 後、生一つ!」
 
 月に一回の贅沢。
 ラーメン一杯で収まるだろうか。
 いいや、そんなわけがない。
 
 人様なのは、これよこれ。
 
 生ビール。
 
「へい! 生お待ち!」
 
 金のように美しい液体。
 パールのように美しい泡。
 
 ぐびっと一口。
 
「美味い!!」
 
 人生の楽しみは、ここにあったのだ。
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