ペンギンが飛ぶ

文字数 1,993文字

 残業続きで疲れ果てていた。
 退社時間が近くなると決まって新たな仕事が送られてくるのだ。もっと早く持ってこいよと思う。

 個人経営の小さな会社だから、社長と俺たち従業員五人しかいない。そのため勤務時間も厳格に管理されていない。気がつくと日付が変わっていることもよくあった。

 おまけに今日は休日出勤だ。先方の都合で急遽面会が変更になった。お得意様の会社へ謝罪に行き、ネチネチ苦情を聞かされる身にもなってほしい。

 俺は後輩がやらかしたミスの尻拭いのため、ひたすら頭を下げ続けた。こんなのは上司の仕事だろう。平社員の俺が謝罪したって効果ないさ。

 それでも低姿勢をつらぬき、なんとか機嫌を直してもらい、契約のキャンセルは回避できた。

 やれやれ、せっかくの休みが半日つぶれたよ。俺はため息をつきながらお得意様の会社を出て駅へ向かった。

 休日のビジネス街は閑散としていた。いつも渋滞している車道はスムーズに流れている。ビジネスマンが行き交っているはずの大通りには、手をつないだ男女一組だけが楽しそうに歩いていた。

 これからデートか、うらやましいことだ。あたたかい春の日差し。風も微かに吹き過ぎて行く。

 何気なく彼らを目で追っていた俺は、ふと、このまま帰宅するのもつまらないなと思った。それで、つい、自宅とは反対の郊外へ向かう電車に乗ってしまった。

 三十分ほど揺られて下りたのは水族館の最寄り駅。東京湾を間近にした高台に、目立つドーム型の入口があった。

 子ども連れの家族や、若い恋人たちの笑い声が響く中に、地味なビジネススーツの男がひとり。

 かなり違和感があったが、すでに入館してしまってはどうしようもない。俺は気にしないことにして、地下に下りて行く長いエスカレーターに乗った。

 館内は薄暗く、明るい水槽が浮かび上がって見えた。世界の海を模した水槽には、それぞれの環境に生きる魚たちが泳いでいた。

 何も悩みがなさそうだな。ひしめき合い群れたり離れたりしながら、ただひたすら、生きるために泳いでいる。

 俺も毎日、生きるためにあがいてはいるが、さすがに俺みたいに疲れ切った魚はいないか。色とりどりの熱帯の魚を眺めながらため息をついた。

 クロマグロが回遊するドーナツ型の大水槽があった。マグロは一生泳ぎ続けるのだという。止まるのは死ぬ時だ。

 しかし大海原ではなく、巨大なドーナツの中をぐるぐるまわり続けるのも難儀なことだ。ああ、なんか刺身が食べたくなった。

 大小さまざまな水槽が並んだ順路を進むと、やがて屋外展示場に出た。正面の建物を見ただけでは気がつかなかったが、かなり広い敷地に建っていたようだ。

 緑の多い整った道を歩いて行くと、目の前に高い岩山が造られていた。手前には広々とした大きな池があって、百羽以上はいるだろうか、たくさんのペンギンが放されていた。

 岩山の上でのんびり羽繕いをしていたり、ただぼーっと立っているものもいた。水の中にいるものは、地上での動きが嘘のように素早くて、気持ち良さそうに泳いでいた。

 突然ここに南半球の一部が移転してきたように、と言ったら少し大げさか。それくらいまわりの風景にとけ込んでいた。

 そういえばペンギンって鳥なのに飛べないんだよな。あのずんぐりした体型では、見ただけでも空を飛べるとは思えなかった。

 だが、何万年前かの昔には、飛べた時代もあったらしい。解説文を読みながら俺は自分の姿を思いうかべた。

 まるで俺みたいじゃないか? 鳴かず飛ばずってか?

 昔は何にでもなれると思っていた。就職して十年あまり。今は会社にへばりついて、疲れ切って、毎日同じことの繰り返しだ。これで良いのか疑問を抱えながらも、何もできずにいる。

 飛びたい、できるなら。

 俺はあふれ出そうになる日頃の鬱憤を握りつぶすように、ぐっと拳を握った。

 飛べるぞ、ペンギン。飛べ!

 ペンギンに念を送った。 念力なんてばかばかしい。でも、ペンギンが飛んだら、俺も色々吹っ切れるような気がした。

 行け! ペンギン、飛べ!

 俺の思いが届いたはずもない。
 だが、岩山の一番高いところに立っていたペンギンが、ヨチヨチ歩いて水に飛び込んだ。

 ほんの数秒もない空中飛行。バシャンと水しぶきを上げた。
 それを見た俺は、ペンギンが空を飛んだかのように思えた。いや、思いたかった。

 そんなはずないか。俺は苦笑して、水中のペンギンが観察できるエリアへ近づいた。

 なんと言うことだ。俺は目を見張った。ここから見るとペンギンは水中を飛んでいるみたいじゃないか。

 俺の目の前をものすごいスピードで横切りながら、空を飛ぶように軽々と。自由に伸び伸びと。

 そうだ。環境が変わればペンギンだって飛べるのだ。
 狭い会社で溺れそうになっている俺も、別の環境でなら飛べるだろうか。

 俺はゆっくりと、太陽が傾いてかげってきた空を見上げた。

 (終)
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