第一章 交錯する想い

文字数 12,454文字


 「よぉ!久しぶりだな!」
分厚いガラス越しに首輪と腕輪を嵌められ厚手のガラスの部屋に軟禁された男が言った。男は白い歯を見せて薄気味悪く微笑んでいる。
「こいつと二人で話がしたい。席を外してくれ」
白衣を着た女は黒服の男たちを部屋から出させた。自動扉が開き廊下の光が女のいる暗がりの監視室を明るくさせる。
「上機嫌だな」
扉が閉まり鑑査室がまた暗がりに戻る。男は白けた女の顔をよそに気分が良さそうに腕輪を撫でる。女に視線を合わせる。そして舞台で演技をする役者のように大仰に手を振り上げながら分厚いガラス越しの女に近づきながら話す。
「あたりまえだろ?ようやく退屈な時間から解放される。これでもお前のことを信用しているのさ。これから大きなことが起こり自分がそれの近くにいる。近くでそのまま静観しとくのもあり、それか———」男は腕を振り上げガラスを突き破り女の肩にのる髪を優しく払いのけた。警報機が室内で響き鼓膜を小刻みに振動させて脳に不愉快な信号を送りつける。
「そういえば、英雄の息子殿はいかがお過ごしかな?彼には一度会って見たいと常々思っていたのだよ。君がいるということは————-」
「戯れ言を言うな」
男は女血管が千々と切れ真っ赤になった女の手の甲を見る。一瞬だけ目を見開き白い歯を大きく見せて笑顔になる。
「運命とは魂の最も相応しい場所に連れいくそうですよ。ですが————私達失敗作の行き着く先は我らの母が生涯をかけて導いてくれるそうですが」男は大きく手を広げて胸元に手を当て軽くお辞儀をした。「そうしないと可哀想な同胞が溢れかえりますから。ゆめゆめ、お忘れならぬように母上」
分厚い装甲を重ねた特殊部隊が室内に銃の標準を男に合わせ入ってくる。
「ご無事ですか⁈」
一人の兵が近づき女の斜め前に立ち男の挙動に注視しながら言った。
「どのくらいの威力の大砲に耐えられるかは知らないがもっと頑丈なガラス板で作ってくれ」
女はそう言うと緊迫した室内の空気をものともせず一人でに歩き室内から出て行った。










 積まれた本の山に置かれた目覚まし時計が小刻みに震えて耳障りな音を出す。その振動で目覚まし時計は小刻みに動き不安定な本の山から落ちて断末魔のような一際煩い音で叫び壊れる。
「朝日。今日でかけるんだろ?」
ドアを開きカインが言った。カインは床に積まれた本の山を見る。ベッドの上でも本は散乱している。
「全く、あいつは………。」
部屋に入ると本の山が突然、総崩れになり本が床に崩れてく重い音がカインの胃にまで響く。埋もれた本の山から痩せた色白い腕が顔を出す。
「早く支度して下に降りてこい」
辟易としたため息を部屋の中に残しカインは去って行った。




 腰や頭が妙に痛む。それに腕や足が冷えている。朦朧とした意識の中ではそれらが何となく感じられて何となく不満に感じられる。起き上がろうと仰向けのままで腕を立てようしたら肘の下にある本が動き滑りバランスを崩して背中から落ちてしまった。騒音とともに積まれた本が崩れ落ちて俺の頭にぶつかり床に落ち二回転した。そうか。また、寝落ちしたのか。俺は落ちた本を茫然と見つめる。
「——————」
呆れたカインの声が突然聞こえた。何を言っているかはわからないが降りてきたらわかるか。体を伸ばしてあくびをする。ゆっくりとナマケモノのように気だるく立った。薄い群青色がかかった少し暗い廊下を歩く。肌寒さがあって夏とは思えない。半開きになった頼りない視界で階段を降りる。居間から廊下に漏れ出す光に導かれて扉を開けると味噌の匂いが迎えてくれる。カインのいる朝は心が安らぐ気がする。心に欠けていた何かが埋まるような口には表せられない暖かみがある。立ち止まって味噌汁の匂いを嗅ぎながら記憶がなくなる前もこうして立ち止まって匂いを嗅いでいたのかなと思ったりもする。
「毎回、そこで立ち止まる癖が出ているぞ」
とソファで新聞を読みながらカインが言う。それを聞くと俺は朝ごはんが並べられた席に座る。そして、カインは立ち上がる。
「牛乳?水?お茶?それとも紅茶か?」
台所に向かいながらカインが言う。今日の食材は、サンドウィッチに味噌汁か。
「——————牛乳」
朝の朝食はどんなものでも味噌汁が付いてくる。これにあいかは洋食に味噌汁は想像しにくいと言っていたが存外にサンドウィッチに味噌汁が合うことをいつか教えたいと思っている。牛乳が入った透明なグラスを俺の前に置きカインはコーヒーを片手に持ち座った。お互いに目を合わせると手を合わせて「いただきます」と言った。ベーコンと卵とレタスが挟まっただけの単純なサンドウィッチだけどかなり美味しい。それに味噌の塩気と出汁が口の中で混じり合う瞬間も格別だ。
「相変わらずいい顔で食べるな」
一口飲んだコーヒーをテーブルの上に置き両肘をたてて両手を重ねて俺の顔を見る。カインが決まってこうやるときはしばらく会えない時だ。目の隈が長いまつ毛に重なり影が濃くなっている。物思いにふける優しい微笑に暗さを感じる。何度か見たことがあるそれに俺は慣れることはできない。
「時間、大丈夫なのか?」
「え?なんのこと?」
カインはため息を出した。
「約束……………したろ?」
「約束———————————————-」
思わず体ごと時計に目を向ける。テーブルに並べられた皿が振動して音をたてる。微睡んでいた頭は鞭を打たれたかのように目覚める。俺は味噌汁を飲みほし牛乳をいっきに飲みサンドウィッチを口に咥えて上の階に行く。カインは慌ただしく動く俺をよそに優雅にコーヒーを飲み、落ち着きのある朝食をとる。




  着替え終えた俺は騒音をたてて階段を急ぎ足で降りた。靴のかかとを踏んだまま玄関の扉を開ける。ドアノブに手をかけて片足を上げて靴を履き直す。
「朝日」
ドアノブから離しかけた手が止まる。玄関から背を向けていた俺はすぐに振り向いた。
「なに?」
カインは俺の顔を見るとまぶたを小さく動かし瞳をうつ伏せた。そして、新月の真っ暗な暗闇の中で海に足を沈めているように鈍く音のない足取りで俺に近づくと朗らかな暖かみある体で抱いてきた。
「朝日はこの世界が好きか?」
「え?それはどういこ————」
カインは強く抱きしめる。
「好きか?」
俺は少し様子がおかしいカインに戸惑ったが力が入った腕が寒そうに震えていることはわかった。だから、俺はあの時の茜色の笑顔が似合ったカインに暖めてもらったようにカインをそっと抱く。
「好きだよ」
「記憶がなくてもか」
「それは………………たしかにいいことじゃないけど、カインが言ったんだろ。世界は美しくて輝きに満ちている。今の極寒の暗闇もいつか日が昇り自分が白銀の世界にいることに気づくって」
カインが鼻で小さく笑う。俺の耳に彼女のくすぐったい息がかかり髪の毛がほんの少しだけ揺れる。
「鼻で笑うなよ。カインが言ったんだろ」
不機嫌に俺が顔を横に向けて言った。カインは腕を離すと俺の両頬を手で挟みこみ唇やほおを中心に寄せて立体的にさせた。
「不細工だ」
唇を緩めて微笑んだ。
「カインがやったんだろ」
「そう、怒るな」カインが笑った。「いいものをやろう」カインは俺の首の裏に手を回し金属がしまる音を鳴らす。視線を落とすと胸元に楕円形のものがぶら下がった。
「カイ————-」
カインは何も言わず俺を力強く抱き頭を沈めて俺の頭を撫でた。
「さぁ、行ってこい」
湿った声で言われたその言葉は耳の奥まで行き俺の心に落ち妙に心を騒がせた。俺の顔を目に焼き付けるように瞬きもせずに惜しむようにカインは俺を見て立ち上がる。何かがおかしいと明確にも不確かにも感じた。勝手にそう感じているわけじゃない。だって、なら、なんで、それはまるで——————。俺はカインの顔を見た。だが、カインは誤魔化すように笑った。
「時間がないだろ?また、帰ってきた時にまた話せばいい」
「またって今度はいつ?」
「——————————————————二日後」
「二日後?早いな」
いつもあれをするときは五日以上帰らない時にするのに。胸のつかえがきえることはなかったがカインのその言葉を聞くと少しだけ安心する。山の雲に隠されていた太陽が昇り光が町を照らす。盆地の山に囲まれたこの地域が光を浴びるのが遅いのは当然だが今日はやけに遅く感じられた。
「行かなくていいのか?」
俺はその声を聞き約束のことを思い出し慌てて飛び出した。
「はやく家に帰ってくれよ」
いつもより早く起きた朝。だから、寝起きの悪さは変わらなかった。いつもより早く食べた朝。だけど、味噌汁があった。いつもより長かった玄関での別れの言葉。だけど、いつも通り行くのを急かされた。今日の太陽は昇るのが遅かった。だけど、結局は昇ることに変わりはない。
 大丈夫だ。いつも通りだ。何も違うことなんてない。いつも通り遅刻ギリギリでついて、あいかが笑って許してくれて、今日はあいかの行きたいところに行って、一日を終える。そして、二日経てばまたカインに会える。

違うのはそこだけ。そんな些細なことだ。







「どうしたの?」
あいかが姿勢を低くして俺の顔を覗きこんでいた。俺はあいかから目を逸らす。
「なんでもないよ」
「うそ」
「なんでそう思う」
愛歌は「うーーーん」と指先を顎に当てながら遊園地のアトラクションを見る。休日のせいもあり遊園地には多くの人が集まる。両耳が折れたアンドロイドのウサギが子供に風船を配っている。館内放送で流れる音はいやに陽気な音で自分の頭が溶け落ちて馬鹿になるかと思う。キャピキャピと黄色い声を出して騒ぐ人たちは頭に角や猫耳やらをつけている。きっとあいつらはもう頭が溶かされたのだろう。遊園地がこんなところだとは思わなかった。
「ね、あれ乗ろうよ」
指が空を指す先には宙に浮くレールがあった。頭上から風の切る音が聞こえると後から人の叫び声が響いた。
「おれは夢の国に行くつもりはない」
と言えたらよかった。まことに残念なことだが俺よりあいかの方が力が強い。彼女の細い腕からは考えられない力が内に詰まっている。棒のように足を地面に突き出すが俺の靴底が熱くなり擦れるだけで彼女からして見ればなんの問題もない。涙を滝のように流して唇を隠すぐらいの鼻水を垂れ流しにする少女とすれ違い俺の顔は表情を無くす。
「大人二名様ですか?」
「はい」
窓ガラスを一枚挟んだ女性にチケットを渡した。彼女は半券を笑顔で渡した。
「楽しそうですね」
「え、……………………」あいかは目を窓ガラスに向け自分の顔を見た。「———————確かにそうですね」と不自然な間を空けて笑顔で言った。その愛歌の顔を見た女性は見惚れたかのように黙って見た。そして、はっとし顔を引き締めて口を閉じて薄く微笑んだ瞳で言う。
「素敵な人なんですね」
女が真っ青になった俺に顔を向けて言った。
「はい、それはとっても」
俺は顔が合った彼女に会釈する余裕はなかった。何を話しているかはわからなかったが俺の手を引っ張る手がより一層強くなったのを感じる。陽光にあたり赤みがかかった白い髪がまるで夕陽の光が流れているように感じさせる。最初に初めて会った時と今では彼女に対する印象もその髪に対する印象も全てが変わって見える。
「ほら、乗りましょう」
いや、俺がこんな恐ろしいものに乗せる奴とは夢にも思わなかっただけなのかもしれない。
「?。ほらほら」
ジェットコースターを前に微動だにしない俺に彼女は背中を押して奥に詰めさせる。泣きじゃくるように手が大きく震えている。ブザー音が鳴り響きゆっくりと動き出す。ジェットコースターはトロッコが揺れるように小刻みに震えて俺のケツをほんの少しだけ宙に浮かせる。
「なぁ、これ、設備に不備があるだろ」
俺は離れていく地面を見つめて掠れた声で言った。あいかは嬉しそうに銀色の髪をなびかせて俺を見る。笑いながら
「大丈夫よ」と言った。そして、続けて「だけど、これなら、余計なこと考えなくて済むでしょ」と言った。
「え?—————————」
一瞬だけ体が無重力を体感する。それは宙に体が放り出されたと俺の本能が理解した。突然、押し寄せる突風が体を後ろに反らせる。俺は目を閉じて受け入れようと思った。

いつか空の飛び方を知りたいと思っている者は
まず、立ち上がり、歩き、走り、登り、踊ることを学ばなければならない
その過程を飛ばして飛ぶことはできないのだ

ニーチェが言うことは正しかった。座ったままでは空は飛べない。





 「気分はどう?」
「———————素晴らしい音楽に俺の脳を溶かしてもらえればもっと楽だっただろうにな」
俺は机に俯して魂を吐き出し弱々しく答えた。向かい合わせに缶コーヒーとペットボトルの水を持ち合わせた愛歌が座る。両足を綺麗に揃えて両手を膝の上に置き端正に座っている。気がついたらジェットコースターは終わっていた。情けないことだが力が入らない抜け殻になってしまった肉体の介護をあいかにしてもらい野外のフードコートに来ていた。
「そう。元気そうでよかった」
と彼女は俺の皮肉に笑って返事をした。俺は咳払いをして顔を上げる。彼女は皮肉を知ってか知らずか悪意のない言葉で返すことが多い。だから、彼女に皮肉をいうとなんとなく後ろめたくなる。俺はペットボトルの水を一気に飲み日陰を作るパラソルを見た。
「今日は少し冷えないか?昨日はやけに暑かったのに」
「今日は蝉の声がきこないね」
周りの木々を見て愛歌が答えた。お互いに黙り耳を澄ましてみたが自然の音だけではなくあの音楽や馬鹿げた人の声も聞こえはしない。風が体をすり抜けて体温を奪い肌を薄ら寒くさせる。風に揺らされたペンダントが音をたてる。俺はペンダントに視線を落とし服の上からそれを掴む。服に大きなしわができる。
「どうしたの?」
「いや、なにも」
「そんなことない」
「本当になにも」
「ううん、そんなことない」
「だから————」
「私の顔を見て」
「どうして?」
「………………………………」
「………………………………」
「………………………………」
顔を上げて彼女の顔を見る。澄んだ翡翠色の瞳がただ真っ直ぐ俺の顔を見ていた。あいかは俺の手を取り瞬きする。
「今日の私の髪型はなんていうしょう?」
優しくあいかが問いかけた。
「え?」
「ほらほら、ちゃんと見て」
「えっと、………………………。なんて言うんだっけ、ほら、えーっと、馬の尻尾」
あいかは口を緩ませて肩を小さくゆらした。
「それじゃないよ。それに」あいかは笑いを堪える。「ポニーテールでしょ?馬の尻尾と言えば尻尾だけど」あいかの柔らかい手の体温が指先から少しずつ流れてくる。余分な力が抜け落ち手が軽くなるのを感じる。体が不自然に強張っているとわかった。
「あのさ……………」
「どうしたの?」
「その…………」
—————-ブゥ——————-ブゥ——————‼
突如聞こえた静かな世界を切り裂くサイレンの音に驚き俺は耳を塞いだ。勢いが止むことなく何度も反響するサイレンの音は永遠に続くかと思わせる。
「どうして、どういうことなの。また、あの時とおなじことをするつもりなの」
うろたえる彼女の顔はまるでこれからのことをわかっているかのようにも思える。愛歌は俺の顔を見る。スカートにしわを作り意志の結晶体のような翡翠の瞳となる。愛歌が俺の手を力強く握りしめる。あまりの力強さに思わず眉間にしわを寄せた。
「ここから逃げよう。早く‼︎」
「え?どういう————」彼女の力がより一層強くなる。彼女の鬼気迫った表情に固唾を呑んでしまう。何も分からなくても愛歌の顔がこの状況の異常さを分からせる。愛歌が俺の手を引っ張りながら携帯画面を素早く打つ。すれ違う人間は足を止めて顔を左右に振り周りの状況を不安げな顔で見たり、そのまま友人と談笑をする者がいる。サイレンの音を除けば俺たちがいた遊園地と変わらないものだ。
「朝日、絶対に私から離れないで」
遠くで木が雷で打たれたかのような爆雷が聞こえた。
「今の音は?」
「気にしなくていいよ。大丈夫だから」
「そんなことより、カインさんは今家にいるの?」
「カイン?」
乾燥した喉に唾を呑んで湿らせる。あいかは入場口のゲートの壁に着くと姿勢を屈めた。俺は手を膝につき上半身を大きく揺らす。
「これから、障害物も何もない開けた道を行く時は物陰に一度隠れてから行くから」
あいかはゲートを潜り抜けた先にある大きな駐車場を覗きながら言った。俺は疲れた体のせいで何も返事ができずにただ漏れ出す息を懸命に制しようとする。
「行こう」
再び強引に引っ張られる手に乱れた彼女の髪が当たる。俺よりずっと体力があるはずの彼女がもう息を切らしている。
 自分より小さな背中の彼女の後ろを見ることしかできなかった。そのことが無性に情けなく思えた。俺は彼女が過去に何を背負っているかも、彼女が俺を守ってくれようとしてるのも、本に向き合うことにかまけて何もしてこなかった俺にわかるわけなかった。自分なりの歩数で少しずつ変わっていけばいいとそう思っていた—————ガキ臭いやつだった。









 「確認しました。ナダル・マル博士、良い一日を」
「ありがとう。君も良い一日を」
ポニーテールに結ばれた赤い髪が警備隊の女を通りすぎる。
「あの、失礼ですが」
赤髪の女は言われるのをわかっていたかのように過敏に早く振り向き「なんですか」と返した。平常心を装っていたが内心は少し焦っている。警備員の女は言うのを躊躇い俯いている。そのあいだに顔を自然に動かし瞳を素早く動かし監視カメラの位置の再確認と人が来ていないか見ている。
「その香水、嗅ぎなれないですが—————」女の言いかけた言葉に赤髪の女は手を胸の内側に忍ばせ近づく。「その、こんな職業をやっていておかしいと思われるかもしれませんがその香水の匂いが気になって」赤髪の女はそれを聞くと手の動きを一瞬だけ止め、手の位置を少し下げた。
「そんなことないですよ。私の知り合いにいる職業軍人にこの香水を教えてもらいましたから」赤髪の女が胸元から手を出した「この香水は匂いが目立たなくて仕事にもつけれますよ」手には香水がある。
「鼻がいいですね」
「あ、いえ、自分は操血者ですから」
女は赤髪の女とアイコンタクトを取り香水を手に取る。
「よければ差し上げます」
「いいんですか?」
女は目をキラキラと輝かせて言った。最初に感じた仕事人気質な女の印象とだいぶ違う。
「どうぞ」
赤髪の女もつられて嬉しくなり笑顔で答えた。
「ありがとうございます!私たちって鼻が良くて香水なんかつけたら普通は感覚が鈍くなって気持ち悪くなるんですけどこれなら付けれそうです!」
女は赤髪の女の顔を見ると我に返り「———————し、しつれいしました。ご多忙の中で引き止めただけでもなく無礼な態度してしまい」と背筋に鉄棒を差し込んだように背中を伸ばし急に態度を取り繕った。
「今度、香水のことについて考えてみますね」
「本当ですか⁉︎」
「ええ、これは女性にとっても男性にとっても大きな問題だと思いますから」
「おい、もう、交代の時間だぞ」
十字に交わる通路から男が姿を現す。女は男の声を聞くと赤髪の女に近づき「今度、一緒にランチしませんか?」と小声で言った。
「是非とも」
赤髪の女が小さな声で返した。
「おい、聞こえているのか?」
男がさっきよりも大きな声で言った。返事がないことに違和感を覚えた男は強歩になっている。
「ただ今をもって交代いたします」
振り向いた女は機械のように体を動かし敬礼をした。
「お?あ、何事もなければいいんだが…………」
男は今更形式ばったやり方をする女の態度に違和感を覚えるが足早に移動する女を止めることはしなかった。
「女同士のお話ですので、どうか、お気になさらず」
釈然としない男に赤髪の女が笑顔で言った。赤髪の女は研究所の扉を開けて入って行った。




 赤髪の女がいる地区はエリア六の研究特区地区という。主に操血者の研究施設として使われており、一般人の立ち入りを一切受けてつけていない。居住区としての面を合わせ持たないこの区域には研究者と兵士しか存在しない。なので、施設もそれ相応の部外者を嫌う作りになっている。施設内に入る前には生体認証と認証カードの照合が必須になっている。入った後の道のりは真っ白な廊下に十字路があるだけの簡素な作りになっている。これはどこの階層でも全く同じ作りにしてある。慣れてないものが歩けばすぐに道に迷い、遠近感覚も狂い始めるようになる。エリア五の建物はそれぞれ高さの違う建物を無理矢理繋ぎ合わせている。これにも理由があり、階層感覚を狂わせるためである。施設内で使えるエレベーターは浮遊する感覚や昇る時間が昇る階層によって比例されているわけではない。これらの時間にズレを生じさせることで本来の高さ、また、自分がいるであろう建物を掴めなくさせる仕組みになっている。赤髪の女が今着いた階層はエレベーターの数字は六を点灯させたが本当の階層はわからない。ドアが開き先ほどの階層と同じ真っ白な廊下といくつかの十字路が見える。
一、二、三、——————————十五————————
赤髪の女は頭の中で歩数を数えている。数えることによって道を間違えないために。後、二十歩歩けば十字路に着き左に曲がる。今度はそこから二十歩歩いて——————-。


 目的の部屋の前に着き赤髪の女はドアノブに手をかけてカードを差し込んだ。ドアノブにかけた手は生体認証されカードの照合が終わり扉が開き、その時に初めてドアから部屋番が表示される。鍵が開く音が聞こえると女は顔を上げて番号を確認した。そして、扉を開けた。
「思ったより来るのが遅かったな」
赤髪の女は声の主を視界に捉えたまま扉を閉める。歩くだけで疲れた白の廊下と違い部屋の中は庭園であった。それは中世ヨーロッパの庭園を箱に詰めたようなものだった。鬱陶しかった蛍光灯の強い光がこの部屋ではあまりに気にならない。
「少し楽しみしてたんだ。私の友人を変えた人間を」
女はテーブルに口をつけた缶コーヒーを置く。そして、警戒してその場から動かない赤髪の女に目の前に座るように促す。赤髪の女はテーブルまで続く石畳の道を歩く。植物に隠れて見えなかったが女がいる東家を中心に感情の水路がある。環状の水路の先では花々が美しく咲いている。
「綺麗」
赤髪の女は花びらが散らないように小さな声で呟いた。
「カインさんがおつくりになったのですか?」
「いや、住む所全てに庭園を作る物好きがいて、それはそいつが作っただけだ」
「なら、その人にすごく綺麗でしたって伝えてもえますか?」
「彼女いわく、私と彼女は会うことがないらしいからな。自分の口で伝えといてくれ」
「そうしたいのは山々ですけど……………」
「彼女は会うと言っていた。だから、いずれ会うだろう」
「それはどういう」
「もっと砕いた言葉にしてくれないか」
赤髪の女は困惑した顔を浮かべ「ですが、関係上そういうわけには」ぎこちなく笑った。カインは間を少し開けて退屈そうにそうだなと呟いた。花が音もなく静観の水の上に落ちる。赤髪の女は水路のそばに行きその花をすくい上げる。「なぜ、そんなことを?」
「なぜって?」
「もっと砕けた言葉というところです」
「あぁ、そこか」女は飲みかけの缶コーヒーに視線を落とし「もう、忘れてくれ」と言った。赤髪の女は花を水路に戻し女の正面に席に座った。
「あなたの友人も同じことを言っていました。ありがとうございます」
「そうか………………、あいつもそんなことを」
カインは昔では想像できない彼女の言葉がおかしく思える。だが、それを言う彼女の姿を想像すると嬉しくも感じる。あの時に彼女に対して感じた印象は間違っていなかった。カインは笑みにもならない笑みをする。
「彼女に伝えといてくれ。連絡手段は残しておく。だが、できれば、私と同じ道を辿らないで欲しい。友人だった者の最期の頼みだと」
カインは立ち上がりUSBメモリを赤髪の女の近くに滑らせる。そして最後に手榴弾を机に置いた。
「これは?」
「人と新人類の境目にいる者たちの希望になるかもしれない。手榴弾はここを出る時に必要になるらしい」
「どこに行かれるのですか?彼女が…………」赤髪の女が立ち上がり部屋から出ようとする背中に言う。「イヴァンがカインさんの様子がおかしいと言っていました。私も…………おかしいと思っています」
「私は初めてお前とあったはずだが…………」
「たひも同じ顔をしていました」
水路に花がつまり水が溢れ出した。そして水が少しずつ肌色の石の上に漏れ出しカインと赤髪の女を隔てるように蛇行して伸びていく。
「自分を……他人を犠牲にして戦うつもりですか」
「大戦が生み出したのは操血者やお前のような戦災孤児だけじゃない。大戦後の停滞した世界では戦争で罪を重ねていった私たちが自分勝手に世界に絶望する時間が有り余るほどあった」
——————ブゥ——————ブゥ———————-
ランプが水路を赤く染め上げる。目の前にいたカインの姿は目を離した一瞬の隙に音もなくなっていた。赤髪の女はすぐに扉の近くにいき壁を背にして白衣を脱いだ。厳重すぎる警備システムのせいで女が運べるのは解体したサブマシンガン一丁とナイフ、それに何故か貰った手榴弾。女は銃を組み立てながら施設内のマッピングを思い出す。女は冷静だ。複雑な地形の中で孤立無縁になる状態になるのに慣れているわけではない。ただ、戦いの空気に漂う独特な青ざめたようで血ぬるい空気に体が慣れている。人生の半分以上をそこで暮らしてきた彼女にとっては皮肉にも帰ってきたような感覚さえもある。それ故に女は嫌な予感がする。
 聞いていた予定よりも早すぎる。
女は組み立てた銃の銃身を額に当て目を閉じて深く深呼吸をする。
 余計なことを考えるな私。ここを出ればわかる。
女は思い煩いをする感情をグリップにみたてそれを強く握る。女が部屋を出ようとする同時に天井が揺れコンクリートに亀裂が走りテーブルの真上から瓦礫が落ちてきた。砂塵が吹き上がり女の視界を雲らせる。
「おかしい、ここにはエルピスがいるはずだが」
男は顔と脊髄だけの男を壁にぶつけ血を四散させる。その血は花を赤く染める。粉塵が晴れ女に気づくと男は不敵に微笑んだ。部屋に広がっていた清涼な空気が一転し渇いた血生臭い空気が充満する。
「これはこれは見かけないお客様だ。君はどちらの陣営の人間かな?」
花から血の涙が溢れ落ち血の水が肌色の廊下を生々しくさせる。
「あなたは誰」
「マリティアだ。名前ぐらい聞いたことがあるだろ?」
「マリティア?」
男は思いもしない女の反応に口角を上げる。
「そうか。お前たちがエピルスの言っていた不確定要素か」
男は両手を大きく広げる。女は銃口構え「動くな!」と男を牽制するが男の動きは止まらない。女は迷わずにトリガーを引き男の髪を掠める。
「優しいんだなぁー。少し遊んでくれよ。お前の血の強さは始祖にかなうかな?」
「なんでいつもこうなるの」
男は人差し指を下に立て女に歯を見せる。男の足元を中心にして蜘蛛の巣状に赤黒い血が広まっていく。女はそれがまるでガスが部屋中に充満している状態であると他ならぬ本能で感じる。女がすぐにドアを見ると風を切り進む血の結晶が扉を壊した。
「勘は鋭いようだけど、それだけでここは突破できない。そこで……………だ。ゲームをしよう」
「ゲーム?あなたに構っている暇なんてないけど」
赤髪の女は左肩と左足を前に出し男から見て縦に立つ。そして死角になった右手で指だけを動かし右足にある通話機器を触る。
「制限時間は五分。その間に俺を殺すか吹き抜けになった天井から逃げるか」
「戦うつもりはない」
「エピルスが言う不確定要素であるかもしれないお前の実力を知りたいんだ。あいつのことは嫌いだがあいつの能力を俺は信じているからな」
男は瓦礫の上からいなくなり突然女の前に現れた。眼前に現れる男の拳を左手の甲でいなし左足を軸にして右手が伸びきった男の脇の下に手を添え男の勢いを利用しうしろに投げる。ほんの数秒間のその刹那に嬉々とした目を向ける男と銃弾を構える女の視線が合う。女は銃口を下に向け銃弾を打つ。男が半回転し着地の体勢を整えたつかぬまに地面に打った跳弾が男の顔に飛んだ。男は腕を前に出し寸前のところで跳弾を受ける。女は腰に下げている対操血者瀑布弾精製装置の画面を男が着地する間に数値を打ち込み一つの弾丸を作りすぐに装填をすませる。
「跳弾で俺が死ぬわけないだろ?あまりがっかりさせるな」
男が着地し言った。優位に立っている男の自負が女にはこの上なく都合が良い。事実、女は得体の知れない強さがあると感じている。それ故に女の選択はとてもシンプルであった。その単純でかつ合理的な思考が女の考えを一つの答えに導き出した。女は装填した弾を頭に向けて打つ。
「なぜ、血の力を使かわない?お前も操血者だろ?好戦的な俺らが何を遠慮する必要がある?」
男の肩よりも高い位置に血が渦を巻き集まる。すぐにそれは血の色が濃くなりいくつかの結晶となったがその結晶の大半は液状化し氷柱が溶け地面に落ちるように砕け散った。男は跳弾を受けた腕を見る。
「残念。私は殺しが好きじゃないの」
男の目の前にきた弾が破裂し霧がかかる。男の視界は霞み女の姿が見えなくなる。
———カラン———カラン————
中身のない筒状の金属が地面で転がる音が男の耳に聞こえた。
「俺を失望させるだけではなくそんなことをしようとするのか」
男の足元から赤黒い血の線が伸び男の血の巣につながる。
「逃げられると思うなよ。出来損ないの中の出来損ないが!」
火の粉が出現し水路の水が霧散し花々が茶色になり老人のような老年のしわをつくる。火の粉が血の線に触れる。すると爆風と炎が部屋を蹂躙し花やテーブルなどが跡形もなく消し炭になった。
「不快だ。とても不快だ。俺たちは殺しあうために生まれたのにこんなチャチな銃弾を使われた」
腕の銃創から対操血者銃弾が血によって外に押し出される。歩き始めた男は焼き爛れた空き缶を踏み足跡を残す。男は鼻から息を吸う。女の焼死体を探すが見つからない。臭いもしない。通常、消し炭になったとしても全てがなくなるわけではない。花が咲いていたところが色黒く染まっているように女のいたところでもそれが残るはず。
「まさか、あの音」
男は外と繋がった壊れた壁を見た。空中で燃え盛る花の中で紅蓮の赤い髪を持つ青い瞳の女がいる。
「これが不確定要素か………………!」
男は満足気な顔を浮かべ自分の周りに霧散していく血を創り出す。それは大小様々な渦を作り水が一瞬で凍るような音を出し圧縮した結晶になる。
「さぁ、どうする⁉︎今度は避けれない!」
「予定を早めて正解だった」
血の結晶が銃弾のように風を切り高速で女を貫きにかかる。
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