門出

文字数 1,704文字

姉は今、俺が見た史上、最も美しい。
ウエディングドレス姿は普段の姉を5割から6割増しに綺麗に見せた。高砂の席には姉とその新郎が座っている。

俺と姉は6歳離れている。俺が平成生まれなのに対し、姉はぎりぎり昭和生まれだが、そのことを姉は昔から誇っていた。数年前、その理由を姉に聞いたことがあった。
「あのさ、なんでいつも昭和生まれを自慢してんの?普通は若い方がいいでしょ?」
「これだから、若僧は」
そう言うと、テーブルを挟んで向かいに座っていた姉は席を立ち、自室から高校時代に使っていたおびただしい数の付箋が貼ってある日本史の教科書を持ってきて、元の位置に座り直す。目線を手許に落として、教科書をパラパラとめくる。
「この極東国際軍事裁判が行われたのは1946年から1948年。これは昭和21年から昭和23年になるわけ。つまり、私は教科書に載っている重大な出来事と同じ年号の時代に生まれてる。しかも、お父さんとお母さんが出会い、付き合い、プロポーズをし、結婚した時代も昭和でしょ。私はこの2人がいなかったらこの世にいないわけで。」
そこまで言うと、氷が溶けて薄くなったお茶を一口飲む。お茶が喉を通りきったギリギリのタイミングでまた話し出した。
「それで、親の出会いみたいな教科書に載ってなくても、私にとっては大きな出来事があった年号の空気を目一杯、肺に吸い込むことができたのは私だけなの。これからお前がどれだけお金持ちになろうと、どれだけ社会的な地位が上がろうと、お前には経験できないわけだよ。だから、私は誇ってるわけ。」
姉は昔から自己陶酔の癖があった。まさかちょっとした質問にこんな膨大な量の回答が返ってくるなんて思ってもいなかったが、弟ながらに、なるほどと少し納得してしまった。

「それでは、新婦の翔子様より本日ご臨席の皆様にご挨拶がございます。翔子様、宜しくお願い致します」
司会役の女性が明るい声色で案内をした。姉は高砂から立ち上がり、マイクの位置まで向かう。一般的には新郎の旦那の務めだと思うが、どうやらこれは姉の希望らしい。
マイクの前に立ち、会場を見渡すと姉は俺を一瞬だけ見て、ニヤッとする。俺が「あっ」と思うが早いか、姉は下げた頭をマイクにぶつけ、ゴンッと鈍い音がスピーカーを通して会場に響いた。会場は一気に笑いが起こり、やや緊張が支配していた空気が和んだ。
姉は顔を赤らめながらマイクに向かって
「こんなとき、どんな顔をすればいいか分からないの」と一言だけ言うと、今度は目で旦那に合図をする。それに合わせて、旦那は高砂から立ち上がり姉のもとまでやってきて、「笑えばいいと思うよ」とマイクが声を拾う大きさで言うと、さらに会場は笑いに包まれた。その後は席に戻った姉に代わり、新郎として旦那がつつがなく挨拶をして務めを果たした。

半年ほど前に珍しく姉から電話があった。
「今度の日曜日は絶対に実家にいて。」
それだけが電話のスピーカーから聞こえてきた。そのあとすぐに電話が切れ、弟である俺には拒否権がないことを思い知った。その話を母に伝えると、姉が婚約者を連れてくるらしい。
日曜日の午前中には実家に着き、姉を待った。
お昼過ぎくらいに姉とその婚約者が現れたので挨拶もそこそこに、座敷に通した。父と母と俺がテーブルを挟んで2人と向き合う形になった。何となく誰も話す空気にはならず、沈黙が流れて、掛け時計から1秒ごとになるカチッカチッという音がこれほどまでに大きかったと驚いた。
俺がここは長男として話し始めなくてはと変な気を遣い、咳払いをしようとした瞬間、急にプシュッと音がした。全員が音のした方向へ目を向けると姉は持っていたバッグからコーラの缶を取り出してプルタブを開けていた。
「ごめん、どうしても飲みたくて」と気まずそうに話した途端に、
「翔子さんのこういうところが好きなんです。絶対に幸せにします。翔子さんと結婚させてください」
と婚約者は両親と俺に向かって頭を下げた。
俺はどこを好きになったのか全く理解できなかった。しかし、今なら何となく理解できる気がする。
こういうところなんだな。

外から入る柔らかい光に高砂の夫婦は照らされている。
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