第1話
文字数 3,069文字
「さあ。けど、そこまでかからないんじゃないかな」
疲れたように呻くロッティに対して、ガーネットは相変わらずの淡々としていた。歩けど歩けど遮る物一つ見えない草原は味気なく、単調な景色にロッティはいささか退屈していた。時折吹いてくる強風がガーネットのスカートや長髪を揺らすだけの、静かな旅路であった。『ルミエール』にいたときとは大違いの旅だった。
リュウセイ鳥の伝説を目指すと決めて発ってから、既に一日が経過していた。昨日、陽もすっかり暮れて野営をするというときになって、百年を生きているらしいがそれでも女性であるガーネットに一時的にでも見張りを任せるような真似はしたくなかったロッティだったが、ガーネットは頑なにロッティの提案を拒否し続けた。最終的にロッティの方が根負けし、交代で見張りを行いながら昨晩を過ごした。『ルミエール』にいたときにも見張りの晩は経験していたのでロッティにとっては慣れていることのはずであったが、たった二人の旅ゆえ見張りの負担が多くなったからか、それとも相手がガーネットだからか、いつも以上に疲れた夜であった。
朝になり、昨日のうちに用意した朝食を済ませるとガーネットはすぐに歩き始めた。ロッティも何となくガーネットの後ろを歩いた。そのまま興味を惹くような物に何も遭遇しないまま、ずっと歩き続けている。再び空がほのかに赤く染まり初め、直に日が暮れるであろうことを知らせていた。その間、一日ずっと歩いていたガーネットとロッティの距離は開くことも縮むこともなかった。道中、もうすぐ川のそばに着けるだの、これは食べられる野草だから取っておこうだのといった、旅に関する事務的なやり取りを行なった以外に会話をすることもなかった。
「なあ、どうして馬車は使わなかったんだ」
あまりにも静かすぎる旅路に、ロッティは耐えきれずに話題を振ることにした。
「お金がかかるじゃない。まだまだ旅は続くのだから、無駄遣いはしたくなかったのよ」
ロッティは、そのガーネットの言葉に含みがあるような気がしたが、それ以上は何も言わなかった。ガーネットは急に立ち止まり、ロッティの方をしばらく見つめてきたかと思うと、さっと顔を逸らして夕陽を見た。
「私は大丈夫だけど……じゃあ、休もうか」
夕陽の方を向いてスカートを押さえながらガーネットはその場に腰を下ろした。切り替えの早いガーネットの行動に困惑したが、少しして気を遣われたのだと気がついたロッティもその場に座った。二人は同じ方向を向くようにして座った。その先には、やはり草原が続くばかりである。
帝都を含めたこの世界の街の多くが、幅の広い川に囲まれた土地に存在している。陸上の魔物は川を飛び越えてやって来れないという言い伝えがあったからであったが、それ以上に流れの速い川が多く、その速さに恐れている魔物が多い、とハルトは考察していた。ロッティたちは未だに帝都のある土地からそんな説のある川を越えていなかった。
「疲れるなら、その重たそうな剣も置いてくれば良かったのに」
「これは……『ルミエール』の皆に初めてもらった剣だし……」
「その『ルミエール』からも、貴方は望んで離れたんじゃないの」
疲れるなら荷物は軽くした方が良い、そういう話がしたいのだろうと踏んでいたロッティには、いまいちガーネットが言わんとしていることが分からなかった。ガーネットはやはりロッティを見ずに、そのまま沈みかけている夕陽を眺めながら言葉を重ねた。
「『ルミエール』を……かつての日々を思い出させるような物があったら、きっとまた戻りたいと願ってしまう……貴方はそういうタイプなんじゃないかと思ったのだけれど」
「っ……」
ロッティは、心の一部を無遠慮に優しく撫でられたような、気味の悪い寒気を感じた。ぐっと生唾を飲み込んで、その気持ち悪さも一緒に嚥下した。唇が急速に乾いていくような気がした。
「黙られたら、分からない……私は、貴方とはまともに会話したいの。これでもね」
「……なら、お前は不器用だ。会話が好きなようには全然見えない」
「それは、痛いほど自覚してる。よく言われたから」
ガーネットの最後の言葉は、とても寂しそうな声だった。ガーネットはその言葉を最後に俯き、それっきり何も言わなかった。痛いほどの沈黙が訪れ、風の音が五月蠅く聞こえた。混乱した頭を落ち着けようと目を閉じると、世界は真っ暗になり、風の音に隠れて、自分の息づかいとガーネットの息づかいの音も聞こえてきた。その音が、自分も相手も同じ人間なのだと教えてくれた。
頭の中で慎重に言葉を選んで、ロッティはゆっくり口を開く。
「……剣は持って行く。だけど、お前の言うようにはならないよう、気をつける。俺は確かにあいつらから離れることを望んだから……黙って悪かった」
「そう……分かった。私も、少し配慮が足りなかった。ごめんなさい」
依然として悲しそうな声音と共に、ガーネットは律儀に頭を下げた。ロッティは困惑し、慌ててそれを止めさせる。少しして顔を上げたガーネットの表情からは、気のせいだと思えるほど小さな変化だったが確かに、緊張が解けたような柔らかさが感じられ、動揺したロッティの心も落ち着いた。
長い時間が過ぎたように思い始めた頃に、ガーネットは再び立ち上がった。辺りは静かな夜の色を見せ始めていて、雲一つない空では星がまばらに輝いていたが、足下が覚束なくなるほど暗くはなっていなかった。少し肌寒く感じられ、ロッティは自分の腕を少し擦りながらガーネットを見やる。短い袖から覗かせる腕は寒々としているのに、ガーネットは何も気にしていないかのように悠然と前を向いて歩いていた。
いよいよ川を渡る橋に差し掛かった。このような遅い時間でも橋はまだ降りており、傍らの警備の人たちは眠そうに欠伸をしていた。ガーネットは堂々と橋を渡っていく。ロッティも、心の中で警備の人に労いの言葉を浮かべながら橋をそっと渡った。
その後もガーネットは何の躊躇いもなく川のそばに向かい、そのまま川が見える距離をキープしながら川沿いを歩いて行った。似たような風景が続き、恐ろしいほど人の気配のない道をガーネットは迷いのない足取りで進んでいく。先日、場所は分かると答えていたが、この同じ風景が続く道のりを、地図もなしにたどり着けるものなのかとロッティは疑問だった。
「お前、よく地図もなしに堂々と歩いて行けるな。間違えるかもとか思わないもんなのか?」
「言ったでしょ、この前見たって。そのときに、その街までの行き方も見えたから」
「見えたって……」
「あと、それから」
ガーネットはそこで言葉を切ると、急に立ち止まってこちらを振り返った。少しロッティの方へ近づいた、気がした。
「私のことはガーネットって呼んでほしい。一応だけど、名前があるから」
それだけ言うと、ロッティの返事も待たずに踵を返して、再び歩き始めた。ロッティはなんだか置いてけぼりにされたようで釈然としなかったが、直感的にガーネットを怒らせたら怖いのだろうなと思い、何も言わずに後をついていった。ガーネットの小さな背中を見つめながら歩いていると、抱いた疑問も些細な問題のように思えた。
次第に足下も覚束なくなるほど暗くなっていき、青々とした自然の色も識別できなくなってきた。そろそろ野営の準備をし始めようか、ロッティが快晴の星空を眺めながら考えを巡らしているときだった。
風の音が急に止んだ。
「ロッティ、魔物がいる」