第4話

文字数 2,280文字

 いつも通りの一日。最近は、昼前に起きて、歯磨きなり洗顔なりをして、ご飯を食べる。一応朝ごはんのつもりだが、時間的には昼だし、おおよそ朝ごはんとは言えない量を食べる。今日は自炊をするのが面倒だったので、台所の常備しているカップラーメンで済ませることにした。
 三分待ちながら、ふと、今彼女がどうしているかということがぼんやりと頭の中に浮かんできた。彼女は几帳面な性格だが、一日のスケジュールをきっちりと決めて行動するようなタイプでもなく、意外とそういうところはルーズだ。僕のように、例えば天気がいいからと遠出してラーメンを食べて帰ってくるというようなことはしないだろうが、誘えば嫌な顔せずついてきた。
 まあ、きっと家事をしていることだろう。彼女は綺麗好きで、僕の部屋が清潔に保たれていたのは、ひとえに彼女が掃除に来ていたからに他ならない。
最近は、すっかり部屋も汚くなってしまった。もとより綺麗好きというわけではないし、多少汚くとも何も思わないが、こういうところにも、彼女との関係の綻びを感じる。
 ご飯を済ませた僕は、再びベッドに横になった。ふとスマホを見ると、さっき来た引っ越し業者からメールが来ていた。
 引っ越し、ね。
 来月の中旬には、僕はもう東京にいない。四年住んだこの東京を離れる。
 ずっと憧れていた。離れたくないと思っていた東京。
 新天地は神戸だった。悪くない場所だと思う。配属先発表の日、神戸配属だと言われた時の僕の心中を一言で表すことは難しい。勿論ショックだった。ここを離れたくないと思った。けれど、神戸も悪くないかなと思ってしまったことも事実だった。自分の想定よりも早く、僕はその事実を受け入れた。東京から離れるということを、受け入れた。
 約一年前、僕が志望した業界はエンタメ系だった。音楽をする側に回れなくとも、せめて音楽を支える、或いは携わる人間になりたいと思った。けれど、まるで箸にも棒にもかからなかった。ほとんど書類選考で落ち、面接に勧めたとしても一次選考どまりだった。いくつものお祈りメールを受け取った。会社によっては何の連絡もないこともあった。
 5月から、僕はほとんど就職活動をしなくなった。社会から必要ないと言われているような気がして、そんな状態でやる気なんて出るはずがなかった。不眠症のような症状が出始め、僕はそれに内心ほくそ笑んだ。何もないはずなのに、何かをなしえたような気分になった。不健康、堕落。27クラブではないが、そういう破滅の美学は、やはり甘美なのだった。
 大学を休学して、地元に戻ろうかと思った。しかしそれはできなかった。地元に帰ることは、このまま地元に帰ることは、僕にとって何よりも耐え難い敗北に他ならなかった。ここにいられないことは、東京を離れることは、僕にとっては敗北でしかないのだ。
 変われると思っていた。何かを成し遂げられると思っていた。しかし僕は何も成し遂げていない。何者にもなれていない。それなのに、東京から離れてしまうこと、地元に帰ってしまうこと、それを敗北と言わずしてなんと言えばいいのだろうか。
 けれど、だからといって、我武者羅に就職活動に精を出すこともできず、かといって音楽で食っていく覚悟もできずまま、時間だけが悪戯に過ぎていった。
 多分彼女は、こんな僕に幻滅したのだろうと思う。この頃から、僕らは喧嘩がちになった。理由は些細なもので、僕自身全く覚えていない。どちらに責任があるかなんて分からない。或いは僕ら二人ともに責任があるのかもしれない。内定もあり、余裕をもって卒論に取り掛かっていた彼女とは違い、僕は気が立っていた。それに加えて、彼女は僕のどっちつかずな状況に呆れかえっていた。気持ちが冷めかけていた。そんな二人の空気に棘がないはずがない。
 学生最後の夏休みは、僕の就活の所為でどこにもいかなかった。いや、それは建前で、もしかしたら就活がなくともどこにもいかなかったかもしれない。過ぎ去るように夏は終わり、長袖が必要になってきた頃、僕は未だ内定を持っていない現状を親にこっぴどく叱られた。要約すると、エンタメなんてどうでもいいからとっとと内定を貰えとのことだった。
 流石に僕も危機感を覚えていた頃だった。散髪に行ったら美容院のお兄さんにストレスで逃避が真っ赤だと言われたほどには危機感を覚えていた。それで業界を変え、何となく行けそうな飲食や、そこから職種を広げ、食品系に応募した。
 特に何も考えず色々と応募していたところ、本当に運がよく大手食品メーカーの内定を貰うことが出来た。まさしく僥倖だ。それこそ、大学一年の夏に彼女ができたことくらい、思ってもみない成果を得ることが出来た。
 僕は正直、あっけにとられていた。半年も続いた就活が、こんなにあっさり終わってしまうなんて、思ってもいなかった。実感が、わかなかった。
 けれど、そのことを伝えると家族は本当に喜んでいた。一時はニートになることすら覚悟していた息子が、大手企業の内定を貰おうとは、夢にも思っていなかっただろう。僕もだ。しかし、その喜びようを見ていると、僕の中で、何かが解けていくような気がした。いや、溶けるというよりも、跡形もなく、最初からそこに何もなかったかのように、消えてなくなってしまったという表現の方が正しいかもしれない。しかしそこに虚無感や虚しさはなく、寧ろ、その良心の様子を見ていると、黄金色の羊水が僕の心を満たしているかのようにも思われた。
 しかし、一点気がかりなことがあった。それはやはり、彼女のことだった。
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