深酒。

文字数 2,283文字

昨夜、深酒をしたわたしは、駅前の街路樹で、ふらふらの体のまま、しらじらしい夜明けをむかえた。
最初はほんの一杯のつもりで、高架下の行きつけの焼き鳥屋の赤い暖簾をくぐったが最後、仲間内で大酒飲みとして有名な知り合いの編集者に出合ってしまったわたしは、昨日の夕間暮れからこの夜明け頃まで、それは浴びるほどの強い酒を何度もあおり、ふと気づけば、昨夕に仕事終りに通過した筈の駅前街路樹のゴミ捨て場で眠っていたのである。
「こいつは参ったな」 身に付けた衣服は、まるで集団暴行の被害者のように肌蹴ていて、もはや半裸の状態で、ここの常連であろうカラスたちの、間の抜けた鳴き声が、己の現況の惨めたらしさへの忸怩たる思いを増幅させていた。これは酒飲みの性(さが)かもしれぬ。後悔しても仕方がないのは分かっていても、最後にはやっぱり後悔するのである。
「しかし、匂うな」 言ってもここはゴミ捨て場であるから、当然、臭い。酸味がかった腐臭に鼻が曲がりそうになる。今直ぐにでもここを放れたいけれど、頭が割れそうなほど痛い。喉が焼けるように熱い。手足の痺れが収まらない。反面、わたしは、今すぐにでもあお向けになりたい衝動にも身悶えていたのである。
ただ、ここで寝てしまうとまた暫らくは起き上がれそうにないことぐらいは予感していたので、わたしは重い腰を上げることをはじめた。まず、この全身に巣食った悪い虫を振り払わねばなるまい。頭の中で百貫にも及ぶ、まがまがしい形状の鉛の塊が、轟音と共にはげしく横転すると、それは目や耳、鼻、はたまた五臓六腑へと、よせては返す津波が如く波及して、喉元に酸味の強い胃液を呼び戻す。心のどこぞで(どうにでもなってしまえばいいさ)という思いと、(何とかしなければならん)とが、それは何度も鋭利な刃物の交わし合いのように、シャリシャリと音を立て、かさなり合っては離れる。帰宅する前にこの喉元からじくじくと湧き上がる胃液―この吐寫物を路面に撒き散らしたい衝動に駈られる。
わたしは、その場で道端に寝っ転がる自分を想像した。白日開け、道行く人いきれに、雑踏の坩堝を、薄汚れた路面に臥して、すやすやと眠る中年の男。聴衆は、暗く重たく冷淡な蔑視の視線を投げかけてはどこかへ消えていくのだろう。それでも尚、この目眩に何もかも委ねてみたくなる自分がいる。別にそれでもかまわないと判じてしまう自分がいるのだ。今のわたしは、そのような世間体を気にかける余裕がないほどに、精神的・肉体的に虚脱し、泥酔をしていたのだ。
始発電車が線路上をカラカラと音を立てながら走りだし、朝の町空に無機質な共振を伝える。そこでようやく、わたしは今が何時であるのかという判断をすることができて、(ああ、おれはしっかりせにゃならんのだ)と正気に戻るのである。けれども、ひとたびすれば、フッと気を喪い、(ええい、ままよ。おれはもうだめだ)と自暴自棄の虫が騒ぎだし、さっきの路面ですやすや眠りこけるような、道徳観念の欠片も感じぬ、あらぬ妄想に浸ってみたりする。わたしはいつも、そのような意識と無意識の混濁を、始終行き来しながらも、どうにかして本来の己を取り戻す方向に自分をもっていくのだ。それは「孤独な闘争」であり、言葉遊びのようにもなるが、「逃走」ともいえる。人間の理性は、強いアルコールの前では、こんなにも脆弱なのである。
何度か理性を失いそうになりながら、到着地の宿舎近辺まで歩を進めると、途端に小便がしたくなった。周辺は人気のない納屋の密集地でトイレなどという気の利いた公共施設はない。何の衒い憂いもなく路面で寝るのは私的に躊躇われる部分はあったものの、立ち小便ぐらいならばかまわんだろう。もとより、放尿は人間の元来もつべき生理現象なのだから、痩せ我慢は悪い結果しか生み出さないのだ。この場で小便を漏らしてしまう方がよほど不道徳で理性に欠ける。
わたしは、用心深く周囲を見廻すと、ズボンと下着を一気に下げて、電信柱の陰に隠れるようにして、立ち小便をすることにした。慎重に電信柱脇の下水溝に照準を定めると、下半身全体の熱さと痺れを伴った、酒臭い放水が勢いよく飛沫を上げた。束の間の開放感。朝靄でくすんだ空を意気揚々と見上げると、先夜深酒をした後悔の気持ちは薄れ、まるで(これがあっての深酒なのだ)と、己のこれまでの行い全てを肯定したくなるような、快感につつまれた。
小便の最中、煙草を吸いたくなったわたしは、片手に我が性器を支えながらも、もう片手で泥や塵でドロドロに汚れたワイシャツの胸ポケットをまさぐった。よれよれになった折れかけの煙草が一本だけあった。そいつを咥えて、次はライターを捜していると、突然目の前の窓が開いた。近所でたまに見かける顔見知りの女だった。時折、挨拶交わす程度の関係でしかないが、人間の心理というのは面白いもので、この時のわたしは焦燥も危機感もなく、堂々と境内をそびえ立つ神仏の石像が如く、心も体も泰然としていた。わたしは、小便をしながら「おはようございます」と軽く会釈をすると、間髪いれず「火、ありますかね」と言った。女は眼をきょろきょろさせながら、「ああ、火ですね」と言うと、窓を閉め、奥の座敷に入っていった。この時、直感的にわたしは、(彼女とは気が合いそうだな)と思った。そうすると、手の平を返したように、深酒をした自分がとてつもなく情けない矮小なものに思えてきた。
小便はまだ止まらない。このまま止まらない方が今後の自分にとってはいいのかもしれないな。ああ、後悔はいつだって後からやってくる。
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