これでいいのだ

文字数 1,992文字

 ──朝目覚めると、妻が犬になっていた。

 真っ白な中型犬だ。雌なのだろうか。でも、犬種まではよく分からない。(つぶら)な瞳で非常に人懐っこく、やたらと僕の頬を舐めてくる。改めてよく見てみると、妻の顔に若干似ているような気がした。
 本来ならば、妻の失踪を真っ先に疑うべきだろう……。馬鹿げた話。なんせ人間が犬になるわけがないからだ。だがしかし──、僕はさほど動揺していなかった。
 なぜなら、いま世界中を席巻している〝怪現象〟のニュースで話題が持ちきりだったからだ。それは妻や夫が

という事件でもあった。
 その現象はフランスのとある老夫婦から始まり、次いで欧州全体や欧米に伝染し、いまやアジア諸国全般にまで及んでいた。その報告は世界各国で相次ぎ、国連が慌てて調査を始めるほどだった。
 ──そして、テレビつければ今日も犬になった人間たちの続報で賑わっている。ネットではウイルスによる変態説、宇宙人襲来の陰謀論や、人の怠慢を憂いた「神からの天罰だ」と声を荒げる宗教家もいた。
 そんなニュースを犬になる前の妻がぼんやり見ていたのも覚えている。
 果たして、妻は犬になりたかったのだろうか。それが自分の身に降りかかってくるとは思いも寄らなかったはず。……が、僕は色々と考えた末、この災難を受け入れることにした。
 しかし、相も変わらず世間は周り続ける。そんな混乱など無かったかのように……。とりあえず、職場に事情を話して一週間ほど有給を取ることなった。ちょうど繁忙期を過ぎ、暇を持て余していところだ。
 そうして、僕は犬になった妻の為にペット用品を購入した。散歩用のリード、トイレ一式の用具、彼女が快適に過ごせる為のゲージ。犬用の餌を食べさせるのには抵抗があったが、人間の食事を食べさせる訳にはいかない。
 ただ、犬になった彼女はもう普通の犬でしかなかった。喋りもせず、怒りもせず、愛想良く僕の横にいるだけ……。たぶん人間だった時の記憶も残っていないのだろう。もし、僅かに覚えているのであれば〝僕を好きだ〟と言う些細な感情だけで十分。そう信じるのが適当だった。

 ……とはいえ、人間だった妻とは、あまり上手くいってなかった。

 事の発端は、子供を強く望む彼女に対し、自分にその機能が備わっていないことが検査で判明したからだ。でも、妻はそんな僕を優しく抱きしめ「二人で手を取り合って生きていこう」と、その時は励ましてもくれたもの。
 だが、妻は時間が経つに連れて次第に苛ついてゆく……。
 情緒が不安定となり、他人に辛く当たっては我に返り、酷い自己嫌悪に陥る。僕ばただ黙って耐えるだけ。そして妻は許しを乞いながら号泣する。その繰り返しだ。謝罪を口にしながらも、徐々に壊れゆく彼女を目の当たりにしたのだった。
 おそらく、理屈ではないのだろう。どちらが悪いというわけでもない。
 でも、もう大丈夫。心ゆくまで眠ればいい。果たす義務や責任もなければ、嫌な仕事だってしなくてもいい。人という全てのシガラミから解放されたのだ。もちろん毎日の散歩だって欠かさない。たとえ姿形が変わったとしても僕らの絆は永遠に変わることはないのだから。

 ──やがて、一年の月日が経過した。

 その後に行われた大規模な調査の結果、この一連の騒動は一部の富豪たちが仕組んだ〝ジョーク〟だったと判明したのだ。それはテロとも捉えられてもおかしくないような事件にも発展したが、その首謀者は未だ捕まってはいない……。
 目の前の現実を深く疑えとも言いたのか。皮肉にも『金さえあれば何でもできる』というのを証明してしまったようなもの。今となっては、人間が犬なるという話など誰も信じなくなったが、未だ多大な影響を世間に与え続けている。

 ……一方、僕の生活は相変わらずだった。

 真実がどうであれ、白い犬となった妻との生活に満足している。決して不満などない。あれから職も変えて広い部屋にも引越したし、休みの日には隣町まで妻と散歩に出かけた。ペットも入場可能な巨大なショッピングモールへ。特に、子供を連れた親子が多く目立った。僕らが手に入れられなかったものだ……。
 そんな折、僕は妻に瓜二(うりふた)つな女性を見かけた。
 大きくなったお腹をさすりながら、隣には少し歳を取った背の高い男性がいる。二人は仲睦まじく微笑み合い、こらから産まれくる我が子を(かば)うように歩いていた。カートには数々のベビー用品。幸せの数だけ物が積まれている。
 一瞬、その彼女と目があった気がした。でも、僕は何事も無かったかのように静かに立ち去る。きっと他人の空似だ。たとえ、それが本人だったとして、それが何だというのか。自分にとっては全く無意味なこと。だって、人間だった妻とは()うに終わっていたのだから……

 ──澄み渡るような青い空。僕は白い犬となった妻の頭を撫でて「これでいいのだ」と、少しだけ泣いた。
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