第41話  それは1972年のことだった…⑩

文字数 3,398文字

本シリーズはとある漫画の解説の体をとりながら、また新たに別個の物語を構築せんとする
企てに他ならず。これをもって、あの創作物の呪力を

/

することこそを目的としている。キリスト者というこれまた別の物語に住まう立場の者からのアプローチでしかない。
でもこの行為自体、私には避け難いものだったのです…。

さて気分を一新しての、その第一回目

先ずは少し、話者たる自分の考えを、ご説明させていただいておいた方がいいかと思います。
その言葉の立脚点はかなりに「一般のものとは違っている」だろうから。しかしどうもこの物言いはやけににエキセントリックに響いてきて「何か引っかかるなー」って皆様の不評を買うには十分なものかもしれません。かく言うわけを、その土俵たるものについてを、改めて知っておいてもらっとい方が無難だと思いますー。*(でもね〜私からすれば、エキセントリックなのはむしろ世間の、大多数の皆様の方かも知れないのですけどね…)。


その一)

「この世において、自分以外の存在は、真実には、なにも認識し得ない」

短くまとめると…「自分以外には何も存在はしていない」となる。

あ〜ああっ…言っちゃった…。

*(以外の[以]って、そのもの自体も含む記号であるってのは面白くない?)
 
大変、語弊のある表現になるだろなー…。

皆様のお母様方がもしこの部分を読んだならば、きっと『何々ちゃんにはこんなこと話す
人とは付き合って欲しくないわ〜』って、深い嘆息を伴ってながら、あなたの目をしっかり
見つめながら言われるのは間違いのないことでしょう!。

でも実際、そうなんだも〜んんん…。そうなってしまうんだ。そうならざる得ないんだ。
他者たる皆も、確かに現実には存在はしてもいるんだが、自分とは完全に断絶しとる。
みなさん自己に関わらる夢見の中にドップリ浸かってらっしゃっててもう自分に夢中。

、気軽に、おふざけの思いもまざまざと、深々と踏み込みをしてみて、
自分なりの、その愛の表しにおける反応を確認せざる得なくなるんだ…。
それこそが、正に、世に言う、語られたるの、知られたるのー…

『宝具!

「アマンズ・フ〜ラフーラニン・シテモータルサカイニヤル・ツイデーニン・
 ワラカシテン・モータルサカイニナーマタ・シテンバットウスルノサケガタキン・
 ワールド!!!」(別称:「ぼけ老人の介抱を、みなでしたってや!」)

それの発動のことになるのです。ただ寂しくてってさ〜、みんな半ぼけでおもろないしー、ホンマこんなのじゃつまんないないーって、思いからなの行いなんだ「けどー!」(博士調で)。

どうしてそうなるかっていうとー「私たる」を形成するマインドの働きを通して外界は認識されるようになるからなのでありますー。子供のときはまた根底から違ってる。自他の区別など場当たり的で、曖昧模糊っとしたものでしかなかった。自身の生存における所作を、社会性の名の下に、コントロールすべくするようになってから全ては変わってしまった。主体性としての重心は、本質的なるものから、人格的なるものへと移行してしまったもんだから、そうなってしまった。つまりは社会常識に基づいて周りを然るべく意識して行動するようになったことが原因で。こりゃあ必要なことだもんね…。

基本、見たり聞いたりしたことは、先ずは、当人の主観内にて再構成されたものになる。
自分のマインドの翻訳/調整/偏向を経て

の話しだ。そうしてから、やっとこさ
自分の認識たるものは果たされることとなる。なんかフィルターみたいなものが、最初から
あるわけさ。それを通してからの認識ってのが、もう恒常的にして恒久的になってしまって
いるわけ。

だからさー『自分以外に存在はない』って言うのハー…。実態としては、相手を自分の世界内の
存在に置き換えて認識は行われているってことになる。でもそれは、真実のそれそのものとは、
かなりか幾分かは違ったものとなっているだろうね。違わざる得ないだろうね。

その偏向の加えられたイメージでしかないものにおいて、
気に入った/気に入らない/腹たつ/承伏する/しないってのをやってるわけさ…。

少し脱線になるかも知れないが、これは失礼この上ないマナーだろうね。とても気分悪いよ。
だって、自分は/その相手の認識によって/その彼の世界内に取り込まれた形にされちゃって
いるんだから。まっ、この事態そのものを理解してなきゃ、知らなきゃいいだけの話し
なんだけどね…。

補足:
原始的な、感情や肉体の発する放射による、相互間のインターフェイス。
その領域はリアルで確かにそりゃあるさ。でもヒトの認識のキャパからすれば、
その領域は単なる色差しぐらいの意味合いぐらいにしかならないんではないだろうか?。


その二)

次に、ならばだ、そうであるが故にー、「全ての他者は、意中の対象物は、自分自身の偏向性/傾向性の、そのあらましの反映/投影のし返しだ」って捉え方もできる訳さ。これも簡単に短く要約すると「彼ら/彼女らは、実は、すべて、私本人の返し、反映でしかない」ともなる。

要はだ、世界との関わりにおいては、

、本当のところでは、確認やら認識やら意識はできないんかもね。全方位全方面から自身についての、もしくは現状において自分が受け取るべき作用のみが述べ伝え知らされてくるばかりかな。手に入れられるのは反響のバックのみ。そして、総括として思えることはここ現実の世界は地獄だ…。

この状況から脱する術はあるにはあるがー…

自分の〜」とか「私の〜」とかの区分としてのフレームを撤廃すれば、
今の状況は完全に変わってしまう。重心を本質へと戻し、これが元来は自然にして本筋なのだ。
その本質が他者の本質とダイレクトに関係するとき、マインドによる采配とはまた違った態度が自分には覚えられ、自然とそれが行われる様になる。

これは簡単な事じゃない。
実地に知るを経ないことにはどうにもならない。
価値あるものとして渾身の力で握りしめているものを捨てることなどできるわけがない。
自分が自分においてを知ることによって、失望することによって、初めて叶うこともある。


もうこんなところにしておこう!。


兎に角ー、はっきり、此処で、声明しておこう!。

私が言論の対象とする全ては、自己へと折り返されているー!!。

究極、すべては自分を対象としての話しなのだーーー!!!。


このシリーズにおける言論のすべては、
自分に向けての糾弾、裁断ともなるべきものなのだーーー。
むしろ、そのことにおいてこそのみ、意味はあるのかも知れない。


ユダヤもない。ディープステイトもない
永井豪もデビルマンなる作品も、これら言葉としての対象は、
私においては、未だもって、本当には、この世に存在などして



すべてはマボロシ。(誰が用意したものなのか分からない)

そんなもんは、ほんとには、何も存在はしてなんかいなーーーいー!。

ならばだ、この対象として見せられる、届けられてきたるイメージの数々は、

何の為に、誰によって用意されたのだ?。(プラクリィティー/自然)

何を自分(プルシャ)に求めている?。

自己を、よっく、根底から、その成り立ちから理解する為にだ。

その上で、『何が』求められているのか、どこがどう改められるべきかを、
ハッキリ知って理解して、そうして自分の選択たるものを確信する為にだ。

そして、ならば、それらを、ただただ只管に懸命に

よっと。

………。

すべて、自分の世界においては、自分こそがそれらの創造者的な立場にあるとも言える。

だから批判があるのなら、怒りを燃やす要素がそこに認められるならば、

そのことは自分に向けての思いでしかないことだけは、

しっかり自覚しておかなければならない。

その上でのことであれば、その思いにも確かに意義はあるであろう…。






さてっと、やっとこさ、バックトゥーザデビルマン。


でも次回からにする。



〈続く〉





あとがき:


こういった話はヒトに敢えてするもんなんかじゃないんだ。
言葉で伝え得るもんなんかじゃない。
誤解しか生まない。

言葉でやると、そこにあるものだけで足りちゃって、
それを誤解/曲解して、けったいな理屈ばかりが増殖していく羽目に陥る。

真っ当に生きてりゃ、自然と辿り着く(中途における)結論でしかない。

だから…すべて忘れてやってください…。





天村


イエライ・イエライ・イエライ……  







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